第36回
第35回の続き) そう、当時としては画期的だった黒い筐体を持つパソコン…そいつの名はPC−8801FH。NECが放った異色のマシンだったのだ。こいつには同時発売の黒いモニターをつなぐのが粋とされたのであるんだが、それはさておき、俺はこいつを小学5年生の時に親に買わせてしまったのであった!当時の値段で、うーん、そうね21万円くらい??今同じ金を出してパソコンを買ったらけっこう大層なマシンが買えてしまう金額なのだが、当時の21万円はあまりに非力だった。皆さん御存知のPC−98を買おうとしたら40万円は用意しなければならない時代だったのだ。今思えば、大したことも出来ないにも拘らず…。もうスペックなんかはお笑いの世界だもんね。CPUはザイログ社(今でもあるのかな?)のZ80互換のμPDうんたらかんたらの8MHz、メモリーは64kb(1MBが1024kbであることを考えると圧倒的な少なさ!)、記憶媒体は5インチフロッピーの2Dで、その容量は320kbだわさ。時の経つのは早いもの。当時はもう16ビットマシン欲しいぜ欲しいぜ欲しくて死ぬぜ!!ってな感じだったにも拘らず、いつの間にかそんな時代は終わってもう32ビットは当然、ドリキャスには128ビットのCPUが搭載されてるってんだから、もうふざけんじゃねえよって感じですな。
 で、貧乏人だった(今もか)俺は、そのマシンで市販ソフト(メチャメチャ高かった!)を楽しむ訳にもゆかなかったので専らBASICのプログラムを書いて書いて書き倒した。住所録やらえらく貧相なシューティングゲーム、はたまた謎の乱数で謎の抽象画が描かれるプログラム、そして意味もわかっちゃいないのにサインカーブやコサインカーブが果てしなく描かれてゆくプログラムなどなど、とにかく何かの目的の為にパソコンを使うというのではなく、パソコンを使うためにパソコンを使っていた感があった。それで俺は今でも目が悪いんだなぁ…。
 当時、自分の通っていた小学校ではちょっとしたパソコンブームが起きていて、皆がそれぞれ互換性のないマシン上でプログラムやゲームの技を競っていたものだ。MSXを買う奴、FM−7を買う奴、それはもう様々だった。そんなある日、俺は何の気もなくMSXユーザーの友人に「やあ、MSX君」と言ってしまったことがあった。本当に何の他意もなかったのだがこの言葉は彼の逆鱗に触れたらしく、豪農の息子である彼は当時最強の高性能マシンである「PC−88VA」をその一週間後くらいにご購入遊ばされたのである。いやーこれにはビックリした。だが、当然何にビックリしたのかといえばそのVAのスペックに対してであり、彼の逆鱗に触れたことでは決してなかったんだな。何てヤツだ>俺。しかし、そんな感情を起こさせるほど当時としては熱いマシンだったのだ、VAは。この「VA」というのはAudioVisualの事なのだそうだが、それでは何故「AV」ではなくて「VA」なのか?今思うに、それは当時富士通が「FM−77AV」なるマシンを出していたからではないだろうか。いや、ただ今思いついただけなんですけどね。どなたか真相を御存知の方がいらっしゃったらメール下さい。
 そんな訳で、俺はそのドラ息子の家にしばしば通うようになった。何の悔しさも感じずに…。我ながら、能天気なヤツなのである。そして、そのデモプログラムの美麗さに驚愕し、その16ビットパワーに失禁させられたのだった。(次週につづく)



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