そう言えば、俺が「不幸の星のもとに生まれて・・・」という表現を知ったのは、あの漫画「ドラえもん」の中でのび太が事あるごとにそう言っていたからだった。のび太は何かに挫折するとすぐに泣きながらドラえもんに「不幸の星のもとに生まれて・・・」と言っていたものだが、幼かった俺がこの言葉から受けた印象はと言えば、やはり人の運命というのは始めから決まっているのだな、という事だった。 まさか藤子不二雄もそんなにシリアスな心境でのび太にそのセリフを言わせたつもりはない(かった)のだろうが、先日俺は、彼・のび太の泣き顔を思い出すことになった。いや、その前に誰かの「世界中を探し回ればもっといいオンナが居る」というセリフを思い出したのである。確か昔々、夕方のAMラジオでの小沢昭一のセリフだったように記憶している。それを思い出したきっかけなどは特にないのだが、クルマで人里離れた峠道を運転し、制服+ヘルメット姿で自転車に乗っている中学生を見ているうちにふと、そんな事を思い出した次第。 金で買える倖せは確かに何種類かはあるだろうけれど、やはり(金が絡むにしても)金で買えないものは人生の伴侶だし、もしかしたら自分の門地などもこれに含まれるかも知れない。教養は金で買えないが、学歴についてはある程度金に左右される部分もあると思うのでここでは言及しないことにしよう。 だとしたら、話は異性の事に絞らせて戴くが、この金で買えないものを得る(得てしまう、と言った方が正しいかも知れない)方法は、あるいはよりよいものを得る方法はどのようなものだろうか?既婚者の俺がこんな事を言いだすのは不謹慎なのだが、独身の方々はきっとそういった事を考えているに違いないし、誰もがこの偶然的に作用する力を感じずには生きていかれないだろうと思う。 それにしても、全く以て「世界中を探し回れば・・・」というのは否定しがたい事実なんである。器量が、性質が、あるいは肉体が、今身近に居る異性より「優れて(自分好みである)」いる人は確実に居る・・・筈なのである。いや、この「世界中」という言葉を「東京中」あるいは「埼玉中」に置き換えても良いくらいだ。俺はかつて何人の異性を見、言葉を交わしただろうか。いや、俺に限らず、読者の皆さんも勘定してみて戴きたい。日本の人口は1億2000万人。そのうちの半分ずつが男と女だ。その中から自分に適する異性の人数を想像してみると・・・まあざっと500万人は下らないだろう。あくまで憶測だけれど。さて、その分母500万人の中の何人と、俺は、そして皆さんは知り合う事が出来たのだろう?例えば50人と知りあったとして、その確率は10万分の1。その中の一人と結婚する確率たるや正に文字通り500万分の1なのである。これはジャンボ機が墜落する確率や、交通事故に遭う確率よりも低いと思う。 その出会いの確率の分子の部分は確かに、努力によってある程度は増やすことは出来るだろうが、考えただけで気が遠くなるような作業になるだろう。それこそさすらい、演歌の世界になってしまう。「恋の街札幌」から「津軽海峡冬景色」、それから「東京砂漠」、そして「長崎は今日も雨だった」まで、さすらい求める人ほど不幸になる事を演歌は歌う。(段々この唄の地名が南下していることにはお気づきですよね?) でもきっと、我々は誰か一人に恋をして、あわよくば結婚して子供をもうけることになるわけだ。結局前述の「よりよいものを得る方法」など知ることもなく・・・。それは妥協なのか?それとも諦観なのか?いや、それこそ「星」なのだ。 星という言葉を諦観の象徴として用いることはたやすい。しかし、星とか運命とかいう言葉でしか片づけられない、理解できない現象がこの世にはあるのだと思う。 それは「縁」である。星も縁も、いずれもこちらから能動的に手に入れるものではないし、意味的にも大差は無いだろう。しかし運命が周りの人達によって決定づけられる部分がある以上、やはり良きに付け悪しきに付け、この世は縁ということで納得しなければならないのかなと思ったりする今日この頃なのだ。星は降ってくるものだが、運は互いに引き寄せあう力。そんな気がするのだ。縁というのは自分にも原因があってつながって行くものだと思うので。不幸な星に近づかない、そしてより良い異性を引き寄せるのは結局自分次第なのだろう。すると、その為の方法は?・・・分からない人が不幸な星のもとに生まれ落ちるのだ。というよりも不幸な星のもとに生まれ落ちた事に気付かない事。それこそが幸福なのだといってはおしまいだろうか。 でものび太は全然不幸ではないだろう。その気になれば世界征服すら可能なのに・・・しずかちゃんだってもうとっくにモノに出来ていて然るべきなのに・・・。のび太の不幸に、むしろ藤子不二雄の良心を感じる。 |