冬。太陽が低くなってくると、景色が青く見える気がする。そしてそれが夕映えの赤の感慨を深めてゆく。科学的に言えば太陽の入射角が低くなれば光の色は赤くなってゆくのだが、それはまた別の話。 そして空気が冷たくなると、その硬度は格段に増してくる。空気に硬さなどあるはずもないのだが、これもまた別の話。鼻腔を通る空気。顔面をかすめる空気。そのそれぞれが硬く、自分に対する障壁となってくる。夏の入道雲や台風なぞも自然の大きさを感じさせるものだが、この障壁も自分にとってはそれを感じる絶好の機会だ。小さい。冬は自分の小ささを認識させる。俺にとって。 着膨れる人々。冬毛の動物たち。太陽の温もりを求める生きとし生けるものの宿命を冬は俺に知らしめるのである。 俺は基本的に四季の中では夏をこよなく愛し、冬を忌む者なのだが、冬も本格的になってくるともう諦めの境地で楽しまなければという気になってくるのだ。だから正確に言えば秋から冬への境目がいちばん嫌いと言うべきだろうか。その境目もつい先頃突破したかのような感じである。だから段々楽しもうかな、という心境になることが出来た。寒いところから暖かい部屋に入る感激。(例えそれで眼鏡が曇ろうとも)暖かい食べ物を素直にいただく有り難さ。淡々と列挙するだけでこの心境が皆さんに伝わるかどうかは不知だが、何がどうしたからどう、と云うのではない理屈抜きの感情を伝えるにはこれが良いのだろうと勝手に思っている。 以前に夏休みの話で、「自分にあと何回夏休みが来るのかと心配した」という意味の文章を書いたと思うのだが、もはや学生ではなくなった俺にとってはあらゆる季節が感慨の対象だ。四季を通して働いている身にとって、いつも心の中に「夏休み」を持ってなければやっていられないのである。と、いうわけで俺は今あと何回の冬が来るのだろうかと思っている。もう心配、というのではない。いずれ亡き者になるのは承知の上で、あと何回この季節を迎えられるのかどうかの覚悟をしておきたいと思うのである。勿論それは誰にも予言できない事だから、それぞれの季節を大切にしなさいよ、という一般論的結論にしかならないのだけれど。そしてもしそれを教えてくれる全智全能の者が居たとしても、それを訊く気にはならないだろうけれど。 どんな言葉にも「20世紀最後の」という符丁が付く今年の冬。いやがうえにも時間の大切さを感じさせられる冬だ。今年の大みそかと来年の元旦の何が変わるのか、と言ってしまえばそれまでだが、とりあえずこの冬は、世紀を跨ぐ。そんな冬をこれからどう楽しもうかと思案の最中なのである。 |