女子高生の、ストイックな紺色の制服姿。そして男子高校生の、まだテカテカしていない学ラン姿。それが手をつないで歩いていようものなら速攻でフライパンとかで撲殺したいもんですなぁ・・・。と、昔の俺なら書き出していたんだろうが、最近ではそんな光景を目にしても腹が立たなくなってきた。齡をとったものだ。 行楽地の家族連れ。危なっかしい手つきで我が子を写真に収めようとする若い父と母。おいおいコラそんな片手でカメラを持ったらブレるだろうが!!・・・と、昔の俺なら書き出していたんだろうが、最近ではそんな光景を目にしても腹が立たなくなってきた。齡をとったものだ。 満員電車で。嬌声を発しながら携帯電話で話をするヤマンバ・ギャル。そんなに天狗になりたいんならやつでの葉っぱでも渡したろかオイ!・・・と、昔の俺なら書き出していたんだろうが、最近ではそんな光景を目にしても腹が立たなくなってきた。齡をとったものだ。 公衆電話の行列にも大分お目にかからなくなった昨今ではあるが、携帯電話を持っていない俺にとってはやっぱり切実な問題。その貴重な、しかもテレホンカード専用じゃなくて硬貨が使える方を長い時間占拠してるお前。そうだよお前だよ分かってんのかコラ・・・と、昔の俺なら書き出していたんだろうが、最近ではそんな光景を目にしても腹が立たなくなってきた。齡をとったものだ。 雨に濡れる秋の夕暮れ。狭い道を後ろから自動車が近づいてくる。狭いんだから無理矢理通らなくてもいいじゃんかよ。クルマは広い道を走ってろ!お陰でこっちは水たまりに足を突っ込まなきゃならないんじゃぁ・・・と、昔の俺なら書き出していたんだろうが、最近ではそんな光景を目にしても腹が立たなくなってきた。齡をとったものだ。 ・・・心の平安。齡をとって大人になることと、単に現状に甘んじることとは、大分違う。そのどちらによって平安を得ているかによって人間の深みは全然違ってくるのだろう。上の例はそのどちらだろうか。実は俺にもまだ分からない。でも最近上の例のような事を常々感じているんである。俺としてはどちらかといえば諦観だと思うんだが、認めたくないのよ・・・。 齡をとって、時間の流れが早く(速く?)感じられるようになったのもいけないと思う。様々な事に慣れすぎて、大抵の事ならばルーティンワークとして流せてしまう今日この頃。知らない道の行きと帰りでは帰りの方が早く感じられるのと同じように、俺は生きることの復路を行きつつあるのだろうか?人生50年ならまさにその通りだ。それじゃ、俺は一人前の大人になったと理解して良いのだろうか?しかし何がどうなったから大人だという基準はないのである。 自ら大人になったなどとは決して思わないこと。心底それを守れるほど俺は謙虚ではない。残念ながら。でもそうすれば、どんな些細なことに対しても「新鮮な」「怒り」を感じられるだろうか?そうだと思いたい。そしてそうしたい。 |