第71回

 カレンダーを頭の中に思い浮かべる。そして今財布にいくら入っているかを確認し、給料日までの日数を数える。その金額を日数で割ると1日にいくら使えるか、という数字が出てくる。結果、本日現在俺のその数字は1500。皆さんは如何なものだろうか?  思えば俺は大学に入ったころから毎日こんな計算をしてきた。当時の手帳を見ると細かい数字がいくつも書いてある。表表紙・裏表紙にはビッシリとあの割り算の筆算の記号が書き込まれている。・・・小さいなあ。俺もいい加減カタギな仕事をしている25歳なのだからこんなチマチマした事をするのは本意ではないのだが、どうしてもこの割り算とは縁が切れそうにない。まともに仕事をしていれば大きな気持ちで小遣いを使えるようになるものだと20歳の頃の俺は考えていたのだが、現実はそうは甘くはなかったのだ。給料のあってないような仕事、社員並みに働いているのにパートにしかなれない仕事をしてきた(いる)俺・・・カタギな仕事をしていると書いたが結局浮き草暮らしなんだな。未だに。  

 でも今の御時世、何が正しくて何が悪いかという区別はもはや「ダサい」ものになりつつあると言わざるを得ないだろう。ジェンダーの別さえ行き来出来る世の中なんである。そこで俺はこんな事を考える。「人生は舞台だ」などという言葉があったけれど、俺的には「人生はコスプレだ」。どんな仕事をしていても、その人の実体は変わることはない。その「衣装」を着て、仕事が出来るか出来ないかはあくまでその人の「実体」に依る。「実体」は変わることは出来ないから、「デキる人」になるためにはその人に合った「衣装」を着なくてはならない・・・。そんな理屈。そういう風に考えると、どんなに不本意な、理不尽な仕事でも出来るような気になってくるから何とも不思議である。あるいはどんなに仕事を替えてもそれは恥ずべきことではない、と思えるようになる。  

 日本人全体が長生きになって、親がいつまでも生きているような気がするからこんな甘えた考えが起きるのかも知れない・・・否。太古の人間に職業なぞ存在しなかった。生きるために、その時その時に出来ることをして生きてきたのだろう。漁撈や狩猟によって得た獲物を売る、あるいは交換する・・・その時その時にその人の職業は変わる・・・。それと何ら変わらない事だ。現代では狩りで生きることはまず無理だろうが、現金を「狩りに」出るという点ではどんな職業も一緒だ。この「コスプレ論」、あながち間違ってはいないと思うのだが、如何だろうか。


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