第5回

 官能小説編は如何だったろうか。賛否両論在るとは思うが、まあ何にしても或る分野のパイオニアたりえるものはアダルトコンテンツだ。ビデオの普及も然り、インターネットの普及もまた然り。情けないような話ではあるが、これが人間の性なのである。今まで恍惚コラムへの掲示板でのリアクションは大して無かったにも拘らず、「官能−」を書いた途端に反響が。うーん。やっぱり目立つにはこれしかないのかしらん。
まあ今週は官能編はちょっとお休み。あれ書くの結構時間かかるんだよね。楽しみにしてた皆様、来週には必ず続編を書くので屹立して待て!!(何をだよ>俺。)
 で、今週は俺の仕事の話でも書こうかなと。
 俺は今、某プロカメラマンのアシスタントを生業としている。若いころの苦労は買ってでもしろと云われるが、まさに俺はその苦労を買ったという格好だ。連日の呼び出しに耐え、罵詈雑言に耐え、俺は白髪を増やしている。しかもその罵詈雑言はいちいち正論なのだ。ああしろこうしろと云われ、それが理不尽な事ならば素直に反論・反抗できようというものだが、それらは決して間違ってはいない。俺が守るべき、信じるべき言葉達ばかりなのだ。それで俺は負けてしまう。しかし真理から人は逃げてしまいがちだ。最近日本人全体のマナーの低下がいわれるが、誰しも頭の中では何が正しくて、何が間違っているか分かっているはずだ。それでも人々は放縦に流れてしまう。誰もがいけないと思いながらも真理に近づけない理由は何か。誰もがそれを知りながら実践できない理由は何か。それを語ることは今の俺には出来ない。分かっているのだが言葉に出来ない。みなまで云わなくても分かるだろう?
 で、俺はそんな数々の言葉を十分咀嚼しないまま一年余り勤めている。日に日に師匠の苛立ちが高まる中を、俺は相変わらずこなしている。真理を納得しながらも実践に移せない日々。(何だか宗教みたいだ!)納得していないながらもその言葉達は俺の体に染みついてはいるのだが、それが自分でも隔靴掻痒の思いというか、何だか薄皮が一枚自分の表皮の上に貼り付いているような気がしている。
 何故その言葉達がリアルに聞こえないのだろうか。それはやはり、自分がまだカメラマンではないからなのだろう。この一つ一つの修行が明日の仕事に役立つのだという切迫感が欠けているからなのだろう。実は俺の師匠はアシスタント「だけで」食ったことがないのだ。それが俺に何らかの猜疑心を持たせていることも考えられる。師匠ははなからカメラマンだったのだ。23歳くらいのころには既にカメラマンとして飯を食っていたし、某写真専門学校時代から某住宅情報誌で芸能人/著名人のインタビューを撮っていたというのが彼のいつもの自慢話だ。そんな彼を、俺は内心嫉妬しているのかも知れない。我ながら小さい人間だな>俺。
 実際、知り合いのカメラマンの言葉にこんなものがあった。「やっぱりアシスタントしてたやつは強いよ」俺はこの言葉に何度勇気づけられたことだろう。俺はアシスタント稼業で何度血まぶれになって倒れたことだろう。しかしこの言葉に勇気づけられて、俺は未だ生きている。少なくとも死んではいない。
 すべてのアシスタント連中が望んでいるのはプロカメラマンへの昇格だ。アシスタント稼業は確かにプロカメラマンへの登竜門と云われている。しかし、それを可能にするか不可能にするかは、どんな師匠についたかということに掛かっているのだ。また、どのくらいの期間その師匠についたかというのも大きい。もちろんその弟子の努力も大事だ。しかし、弟子がどんなにいい仕事をしてもやはり師匠の力は絶大だ。弟子があまりにいい仕事をするために手放したくなくなるという例もある。それはまた難しいところだ。やはり適当なところで辞めるのがいいのだろうか?もしこれを読んでいる同業者の方がいたら、メールください。
 今週はアルコールの力を借りて何だか妙な文章を書いてしまった。これって「エクスタシーブックス」らしくないよねえ。来週は、シラフで書きます。乱筆乱文失礼。

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