恍惚コラム...

第391回

  仕事柄、初対面の人と会う機会が多い。また、今勤めている会社にも違う部署にはさほど親しくない人もいて、こうした間柄の人とはいきおい社交辞令というか、お互いの素性を探り合うような会話が増えてくる。曰く、「お子さんは?」「ご出身は?」「血液型は?」……数えあげればきりがないが、その中でも俺が最近こだわりをもって答えている質問がある。それは、「奥さんは何をしているのですか?」コレである。

 自分の妻は結婚以来10年近くにわたっていくつかの職やら専門学校を転々としてきたのだが、一昨年の夏以来完全に無職、無所属となっている。つまり、美しい言い方をすれば「専業主婦」になったのである。ご存じのとおりカメラマンの助手などをしていた俺のこと、大学を出た当時は本当に、どうしようもなく金がなかった。俺はこのまま暮らしていけるのだろうかという疑問をつねに抱えながら、10万円少々の収入を当時はまだ新卒でOLをしていた妻の収入と合わせて糊口をしのいできたのだ。そして、掃除屋に転職したあとも相変わらず生活はカツカツで、この時も妻は歯科助手やパン屋、そしてミスタードーナツのカウンターなどで働きながら生活を助けてくれた。また、そのおかげで1年間にわたるアジア放浪の旅に出ることができたのもご承知のとおりである。

 そして、その放浪から帰って5年目になろうという現在。放浪直後、偶然にも俺史上最大(といっても世間からすれば中小企業だが)の会社に潜り込むことのできた俺。そのうえで、何とか仕事に慣れることのできた俺はようやく人並みの収入を得ることができるようになった。まあ、そのおかげで、今までの恩返しも兼ねつつ妻を主婦業に専念させられているのだが、これにはもう一つ大きな理由がある。

 というのも、俺も妻もいいかげん32才、そろそろ真剣に子作りにでも励もうかと思った矢先、ある事実が明らかになったのである。正直な話、いくら「いたしても」できないのだ。当初は、「そのうち何とかなるだろう」と思っていた。俺も妻も浅はかなもので、「天は人の上に人を乗せて人を作る」という自然の摂理を信じきっていたのだが、いたしていたしてしばらく経った頃、はじめて基礎体温を測ってみて驚いた。その変化は保健体育の教科書やらに載っているような二相性の曲線を描いておらず、日によってまったくバラバラ、グラフを描くまでもない状態だったのだ。それはつまり、排卵がみられないという意味である。それがいつごろから生じていたのかはまったく分からないが、ともあれこれを改善しないことには何も始まらない。

 そこで妻はまず、鍼治療に頼ることにした。大宮にある、その筋では有名らしい治療師のもとに1回あたり4千円あまり、週1回で数ヶ月通っただろうか。しかしそれでもまったく改善されず、治療師も首をひねるばかりだったという。

 かくして妻は、意を決して産婦人科の門を叩いた。そこでさまざまな検査―血液検査や卵管の通過性検査、そして脳のMRI検査、果てには俺の精子数まで―を受けた結果はこうだ。「プロラクチン産生下垂体線腫」―これは、脳の下垂体にプロラクチンというホルモンを出す腫瘍ができているために体が排卵を止め、むしろ妊娠中のような状態になってしまっていることを示している。そのMRI像からは1cm弱の腫瘍がみられた。

 この腫瘍はほとんどが良性だそうで、あまりに大きくなって視神経を圧迫したりしない限りは手術も積極的には行われないのだそうだ(もし必要な場合には鼻の穴の奥に穴を開け、脳の底部に内視鏡でアクセスするとのこと)。また、現在ではプロラクチンの産生を抑え、腫瘍が大きくならないようにする薬もあるため、今すぐどうにかなってしまうような病気ではない。今後、薬によってうまくコントロールできれば妊娠も可能だそうだが、それは一生飲み続けなければならず、また副作用として軽いめまいなどもある。しかし、背に腹は代えられまい。もし妊娠を望んでいなかったにせよ、この腫瘍をコントロールしない限りは大きくなってしまう可能性があるのである。

 話が散らかってきたが、妻は現在、こうした理由から専業主婦をせざるを得ない状況にあるのだ。妻が専業主婦をしている、と言うと、「子供もいないのに、なぜ……」という疑問の声も聞かれる。実際、俺の身の回りでもクルマを買ったりマンションを買ったりしている人はみな共働きである。たしかに俺自身、クルマもマンションも買えるものなら買いたいとは思うのだが、だからといって妻を無理に働きに出す気も起きないのである。何しろ、妻の身体が第一である。

 実は、このようなことを言うと綺麗事にしか聞こえないかもしれないが、俺は俺が働いたカネで人を一人養っているのだというところに喜びを覚えているのだ。俺が外で仕事をしている間、妻は家事の間にささやかな趣味も楽しんでいる……。この平和さ。決して与えてやっているというつもりはないし、逆に妻が働きに出ると言っても止めるつもりもない。何より、妻がこれでストレス無く生きているさまが嬉しいのだ。また、これも信じてはいただけないかと思うが、俺は妻が昼寝をしているという話を目を細めて聞く。俺は毎朝8時前に出勤して日付が変わった頃に帰るという日々をもう1年以上過ごしているのだが、妻は俺のこの生活リズムに合わせて食事や風呂の支度をしてくれている。するといきおい、昼間は眠くなる。だから昼寝をする。当然の成り行きである。俺が忙しく働きまくっている最中、一緒に暮らしている人が寝息を立てているのはまさに平和そのものではないだろうか? 自分が忙しくしているからといって妻にそれを求める必要もないし、むしろ忙しい中で家にいる妻のことを考えると癒されるわけである。今後、いつまでこの状態が続くかは分からないが、少しでも長く妻の「人生最良の時」が続けばいいと思っている。



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