恍惚コラム...

第378回

 午後。職場の隅のカバンに詰めた携帯電話が鳴る。ご存じのとおり、俺の携帯電話を鳴らす人間はごく限られているから、だいたいどのような人がかけてきたのだろうと俺はすぐに想像できる。妻か? それとも実家か? それとも……。バイブレーターの振動を頼りに携帯電話を掘り出すと、その着信は果たして実家の母親からのものだった。

 こうして、昼間から実家が電話してくるときにはろくな事が起きないのだ。そのほとんどが、訃報。4年前には父方の従兄弟と母方の祖母だったし、去年の秋には父親の兄(叔父)だった。で、今回も予想は的中してしまった。電話口の母は、母方の祖父が亡くなった、と告げたのである。

 俺の母親は大分県の人である。これまで俺が聞いてきたことが正しければ、大分県の寒村に(「かぼす」の名産地である)生まれた彼女は中学を出ると同時に集団就職で埼玉県にやってきて、そのまま19かハタチで俺の父親と結婚し、22歳のときに俺を産んだのである。その若さ(帰省するカネとヒマがない、という意味だ)と大分までの遠さから、俺はその祖父との記憶がほとんどない。最後に大分を訪れたのは小学5、6年生の頃の夏休みだから、20年前。それ以前にも1、2回は連れて行かれていたはずなのだが、皆目思い出すことができないのである。電話の向こうで母親と代わった父親は「(そういう次第だから)弔電でも出してくれればいい」と言ったものだが、先述の祖母の葬式にも仕事にかまけて行かなかった俺である。ここで行かなければ、おそらくもう一生母親の故郷を見ることはないだろう。そういう思いに動かされ、俺はさっそく大分に旅立つことにした。

 羽田から大分空港まで90分。大分空港からJR大分駅まで1時間。大分駅から豊肥本線で50分。豊肥本線「三重町」駅からタクシーで15分。午後2時半にお茶の水の職場を出た俺が斎場に着いたのは夜8時前のことだった。三重町は土砂降りの雨。風邪気味ですこし熱を出していた俺はその時点でもう疲れ切っていたのだが、そうも言っていられない。ただ、あまりに遅く着きすぎたため弔問の受付は終わっていて、俺はまずどこに顔を出すべきか迷ってしまった。しかしそこは田舎の斎場である。俺はすぐに母親の旧姓が記された控え室を見つけることができた。

 そこではすでに通夜振る舞いが始まっていて、テーブルの上には安そうな仕出しのオードブルや、田舎風の大きなまんじゅう、そして無数のビール瓶が置かれていた。祭壇には、たしかにあのとき見た祖父の写真が飾られている。86歳、眠っている間の大往生だったようで、その場にいる人々が一様に穏やかな表情をしていたのには救われた。ここに祭壇がなければ、単に久しぶりの親戚同士の集まりにしか見えないような雰囲気。やはり、たまにはこうした席に出てみるものだと思わされた。

 母親に促され、棺の中の祖父の顔を見る。この瞬間が得意な人はいないだろう。俺は、見るには見た。しかし、母親のように近づいて凝視することはできなかった。俺は祖父が亡くなったことよりも何よりも、自分の親が亡くなったときにどうするか? そんなことばかり考えていた。ただ、棺の中のこの人が俺の母親を作ったことは揺るぎない事実である。それを思うとき、その棺の重みに改めて思いを致さずにはいられない。

 先述のとおり風邪ひきだった俺はすぐに布団を敷いて寝てしまったのだが、通夜振る舞いは深夜まで続いた。知っているようで知らない顔ぶれの中で寝るのはどこか懐かしい体験であった。

 翌朝は快晴であった。告別式にも出るべきではあったのだが、俺はそのまま朝7時半の列車で大分を発たねばならなかった。朝6時過ぎ、母親に見送られながら斎場を出る。夕べには見えなかった周囲の景色―朝露に彩られた山の景色―。その後荼毘に付された祖父もそうだが、この景色もまた俺のルーツのひとつなのだと思うと、俺は車窓の眺めから目を離せなかった。



メール

帰省ラッシュ