第356回
インターネットの匿名性、そしてそれを用いる人間の品性について考えることが多くなった。実はこの数ヶ月、俺は複数の方々からの要望を受けて走り回っていたからだ。曰く、「このサイトから自分の名前を削除してほしい」―これは至極当然のことであり、自分の不徳の致すところと反省するしかないのだが、疑問に思うのは「数年以上も掲載しつづけたのに、なぜこの時期になってそうした要望が続くのか」という点である。ここで何度も書いていることだが、8年以上も前からネット上で本名を使い続けてきた俺。自分が自分であることが明らかな発言にこそ価値があると思ってきたし、インターネットの情報を受け取る側にもそれなりのモラルがあると信じてきたからだ。また、玉石混淆の情報が集まるこのメディアで、その情報の真偽を判断するのは自分自身であるべきはずなのだが……。 どうも、最近のインターネットは力を持ちすぎてしまったようだ。つまり、少しくらい怪しい情報でもインターネットの大海の中に放り出されれば信じ込まれ、「情報源を確認せずに」「ユーザーの都合のよいように」解釈されてしまう時代になっているのである。 数年前、あるネット通販の会社が2十数万円のパソコンの価格を誤って2ケタほど少なく表示してしまったときのこと。「一度その値段で表示したのだからその値段で売れ」というユーザーが大挙して押し寄せ、その会社がたいへんな目に遭ったことは記憶に新しい。少し頭を使えば、20万円のパソコンを2千円で売ることなどあり得ないのは理解できるであろう。もし、これがインターネット上ではなく広告チラシの上だったならばきっと単なる誤植という扱いになり、これほどの大騒ぎにはならなかったはずだ。また、騒ぐ前に店に電話をかけ、真偽を確認したのではないだろうか。 だが、人々はその会社を自分の肉声ではなく、メールなどでこぞって糾弾したのである。数人の手を経て校正・印刷されるチラシなどよりも、一人のキータッチ、あるいは一文字のエラーに左右されるインターネット(Webサイト)の信頼度は明らかに低い。そのことがなぜ理解できないのだろうか? 俺個人としてはあえて理解しようとしていないように見えるが……。 今や主要なメディアはすべてWebサイトを持っているし、素人でもその記事を自らのブログに引用して批評できる時代だ。その昔、一部の大学人やマニアのみの楽しみだったインターネットが公共のメディアになっていることは言うまでもない。そして、主要なメディアの参画はインターネット上における情報の信頼度を明らかに向上させた。しかし、インターネットの普及にともなって「石」の情報も明らかに増加している。最近、「学校裏サイト」というのが流行して問題となっているが、これはまさに「石」の急先鋒である。先述のチラシの例ではないが、これもインターネット以前には教室の中でノートの切れ端に書かれていたような内容である。それがインターネットの力を借りることでにわかに信憑性を増し、不要な騒ぎを招いているのである。 ノートの切れ端と大新聞の記事が並列に並ぶインターネットの現実。検索窓にキーワードを入力すれば、それらが同じウインドウに、同じフォントで表示されることの重大さを考えておくべきだろう。最近では各種試験の身辺調査にあたって対象者の名前を検索するのだといわれるが、俺からすれば検索するのは勝手である。しかし、その情報の発信者に何の照会もなく、被験者に不利益がもたらされるのはたいへん遺憾である。なぜなら、俺は本名もメールアドレスも明らかにしているからだ。 インターネットは興信所の代わりには絶対にならない。もしそうであるならば、興信所はとうの昔にその役割を終えているだろう。メディアリテラシー、などという言葉を使うつもりはないが、俺もその一翼(もちろん切れ端のほうだ)を担う者として、注意深くインターネットとつきあっていきたいものだと思う。 |