第344回
さても子どもがいじめでよく死ぬ昨今である。あえて事例をあげることはしないが、まったく気の毒で仕方がない。こんなことは、書かなくてもすでに当然至極のことである。 だがもっと気の毒なのは、そのいじめた側が彼らの死をどのように捉えているか分からない点である。中には彼らの死後、名乗り出て親に謝罪することもあるようだが、多くの当事者は黙って「緊急学年集会」に参加し、平然と葬儀に参列しているような気がしてならないのだ。子どもが死ぬのは恐ろしいし、気の毒なことだ。だがしかし、その原因となった者たちが何の自覚ももたなかったとしたら―その方がよほど社会に禍根を残す。 子どもがいじめで死ぬと、まず矢面に立たされるのが教員や教育委員会のご歴々である。その記者会見での語り口はまったくさまざま―落胆をあらわにする人あり、淡々と事実を伝える人あり―しかし教員があからさまに子どもをいじめていた場合を除き、彼らに責任はないと俺は考えている。いくら子どもの数が少なくなったとはいえ、今も昔も教員がすべての子どもの状況を把握するなど不可能だと思うからだ。人が集まれば、当然派閥ができる。クラスの中には平常時でさえいくつかの派閥ができており、それぞれが固有の符丁で話し合っているではないか。この「平常時」に、教員がその内情をほじくり返そうと思うだろうか? 個人情報保護の美名のもとに一蹴されるのがオチである。彼ら教員にとって、こどものいじめ死はまさに青天の霹靂であるにちがいない。ただ、教壇に立ったことのない俺は彼らのスタンスに対して同情も否定もできないのだが。 さて、こうして死んでいく彼らのメッセージを具体的に伝えるのはやはり遺書である。最近では各地域の教育委員会をはじめ、文部科学省にまで遺書が送りつけられている。それらのすべてが開示されているわけではないが、俺はその行為をたいへん、語弊はあるが「つまらない」ものだと感じている。その多くが小さな便せんに鉛筆書きで綴られている―まだ皺もない細い指が鉛筆を握り、死出のメッセージを綴る……。しかも彼らは自らそれに切手を貼り、ポストまで歩いていって投函しているのだ。まったくもって「つまらない」お話だ。 ここで俺がなぜ「つまらない」という言葉を使ったかといえば、週刊文春の最新号で脚本家の宮藤官九郎氏がこんな話を書いていたからである。「妻が子どもを連れて公園に遊びに行ったところ、4歳か5歳の悪ガキが滑り台を占拠していた……最初は他愛もない意地悪なのだったがそれは次第にエスカレートしていき、ついにはゴミや錆びたちりとりなどを滑り台の上にばら撒くまでになった……それを見ていた妻はついに立ち上がり、『アンタらつまんないから帰んな!』と一蹴した……悪ガキたちは面食らって帰ってしまった……(大意)」そのうえで、「『良い』『悪い』の論法だけが教育ではない……良いことをすれば褒められ、逆もまたそのとおりであるが、子どもの価値観としては『悪い=面白い』なのだ……それが他人に不快感を与えることについて、妻は『つまんない』という言葉をもって教えたのではないか……(大意)」。 けだし名言である。発泡酒のCMに出ていた氏を、酒にはあまり向かない顔だなぁと思って見ていた自分に恥じ入った。善と悪。それらがもたらす「面白い」という感情を新しい角度から斬る「つまらない」という言葉。またも言いづらいことだが、こうした遺書はきっといじめられている当人の「注目されたい」という意志によって書かれているのだろう。 だとすれば、この論法によれば「つまらない」と言うほかない。いじめも、自殺も、そして遺書をしたためることもすべて「つまらない」ことなのだ。 |