今週もまた、恍惚コラムが落ちてしまった。もうここまで来ると何処にいても更新できるようにしとかなければイカンねえ。もう目茶苦茶忙しくて、コレも今、有楽町線のホームで手書きで書いてるんだもの。仕事の合間に。コレを家に帰ってリライトするのかと思うと面倒でしょうがねえ!iBook欲しいッすよ、マジで。今まで使ってた周辺機器が使えなくなると分かっていても欲しい。あの色も、3キロあるという重量もMac党の俺には許せる。バッテリーも3時間持つんだってねえ。時の経つのは早いもの。昔はバッテリーが3時間も持つノートPCなんてなかったものなあ。いつ発売だっけ、アレ。でもDOSマシンの旧いヤツでもいいから、ノートPCが欲しい。今さらながら、モバイル願望に目覚める俺なのであった。でもあんまりキーボードの小さいヤツは勘弁な。
さてさて、先週は高校写真について書きたいと予告したのであった。翔鷺祭の展示を見て触発された俺なのであるな。
以前より、爺婆子供の法則によって支配されてきた高校写真界。相変わらず、そういった類の写真が高い評価を受けてしまっている。確かに万人の共感を得られる写真というのはそんなものなのかも知れないが、2年生や3年生の諸君にはもっと違った、自らの感情に従った写真を見せて欲しいと思った次第。それが例え、高校写真展の審査員の共感を得られなかったとしてもそれはそれでイイんじゃないか、と俺は思った。
常々感じていることなのだが、高校写真部の部員が「撮らされて」しまう写真というのは、仕方なく書かされる学校の作文に似ている。何か旅行などのイベントが有って、それでまんまとネタをゲット、てな感じで、何とも個性というか、クリエイティビティーに欠けている。誰が他人の書いた家族旅行の作文を読みたいと思うだろうか。それは余程面白くなければ他人を惹きつけることは出来ないはずだ。何時に起きて、何時の特急に乗って…などと列挙されても、その場に居た人でなければその楽しさは知る由もないのだ。
写真もまた同じことなのだ、と俺は思う。写真は確かに「複写」なのだが、自分がその対象にどのような印象を持って、どのように楽しかったのかと云う事が伝わらなければ、それは面白い写真にならないのだ。写真にしても文章にしても、人を楽しませるためには或る一定の「文法」に従わなければならない。もっと簡単に言えば、或る出来事(対象)の、何処がどう面白かったのかが分からないようでは、面白い作品は出来ないのだ、と思う。
相変わらず、白いボードに画一的な写真たちが並ぶ高校写真業界(<業界?)。そろそろこの辺で、夏休みの作文的写真から抜きんでてみないか?
いやー社長、今週は辛口ですなあ。いや、自戒の意味も込めて、ね。
話は変わるが、「川越東高校写真部公認HP」がしばらく更新停止になるんだそうな。何たる寂寞感。マスターのスガワラ氏にみんなでネタを投稿しよう!俺もそのうちカメラレビュー書くからね。待ってろよ〜。
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