恍惚コラム...

第334回

 以前にも親知らずを抜く話を書いたが、昨日再び違う場所のそれを抜いてきた。4年ほど前に下顎は両方とも抜いてしまったのだが、今度は上顎である。自分からみて右側の上。歯科医師的には「右上8番(#18)」と呼ぶ場所だ。自覚症状はほとんどなかったのだが、別の箇所の治療に行くたびに「早く抜いた方がいいですよ〜」と脅かされ(?)ていたのである。

 俺自身、いつか抜かねばならないことは分かり切っていた。舌で触ってみると、頬粘膜側の歯冠部がデコボコになっていること(つまり、むし歯に喰われている状態だ)は明らかだったし、普段からその親知らずの磨きづらさには辟易していたからである。たとえ親知らずといえど、変な風に生えていなければ丁寧なブラッシングで守っていけるものだと思う。もっと早くギョーカイに入っていればこんなことにはなるまいに、と後悔しきりだ。

 元来、第三大臼歯(親知らずのこと)は人間の骨格がもっとワイドだった頃にはきちんと機能するはずだった歯である。手許に資料がないので何とも言えないが、きっと縄文時代などに生肉や硬い繊維質を喰らっていたような頃には欠かせない歯だったのかもしれない。それが現在、人間の顔や顎はどんどん小さくなってきている。そこでこの「いちばん奥の歯」は行き場を失い、現代人を苦しめることとなったのである(そもそも最初から生えない人もいる)。顎が小さいということは、そのまま親知らずの萌出を妨げることにつながる。読者の皆様も経験されたことがあるかもしれないが、親知らずはこうした理由からしばしば真横に生えてみたり、生えてこられずに骨の中にとどまってみたり、あるいは根を曲げて非常に抜歯しづらい形態をとったりする。俺の場合、下顎は左右ともにこうした状態だった。専門的にいえば「水平埋伏智歯」というやつで、今挙げた例のなかでは一番最初のものだ。こうなると、歯科医師はその歯をいくつかに分割(つまり、あの削るやつやノミを使って割るわけだ)し、小出しにしていかなければならない。その痛いことと言ったら……。俺自身、下顎の親知らずではたいへん苦労した。この分割という手技、難しければ難しいほど周囲組織を傷つけてしまう。すると治りが遅くなり、術後数日経っても痛みや腫れがおさまらない事態を招く。また、骨の中に完全に埋まっている場合などには……推して知るべしだ。

 だがしかし、上顎の親知らずはたいがい下顎よりも生えてきやすいものなのだ。実際、俺の右上8番もストレートな歯根をもち、オペ開始から15分程度で簡単に抜けてしまった。ものの本によると、やはり歯科医師も下顎より上顎の親知らずのほうが抜きやすいそうだ。出血も少なく、4年前の苦しみが嘘のようである。これならもっと早く抜いておけばよかったか……。

 それにしても、あの歯を抜く最中の音ばかりは何度経験しても慣れることがない。毎日毎日、歯肉を切り開いたりインプラントを埋め込んでいる写真を見ている俺だが、自分の口の中で同じようなことが繰り広げられるのは穏やかでないのだ。ユニットに座った瞬間、俺の脳裏には皆様御存知の歯の断面図が浮かんだ。ヘーベルで歯を浮かせる歯科医師。ミシミシと音を立て、俺の歯根膜が剥がされていく。根尖部では神経がブチっと切れてゆき、歯槽骨も欠けていっているに違いない……そうしたことがリアルに想像できるのは幸か不幸か。

 格闘のすえ、テーブルの上に置かれた親知らずは案の定真っ黒だった。先述の頬側しかり、もっとも磨きにくい奥側しかり。よくもまあこれで大した痛みを起こさなかったものだと感心する。歯根には鮮血と、すこし欠けた歯槽骨のかけらが……。

 ともあれ、読者の皆様も歯を大切にしていただきたいと思うのである。



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