恍惚コラム...

第318回

 昨夏に書いた妻の祖父が川越にやって来ているので、誰もいない土曜の朝である。妻が彼と過ごしてきた時間は決して長いものではなかったはずなのだが、こうした機会にはかならず実家に帰り、顔を見せているからだ。祖父や祖母と、あまりにも縁の薄い俺にとってはまったく理解しがたい感情なのだが、妻自身がそうしたいというのなら別段俺に止める権利もない。妻の父は今(おそらく)55歳、そしてその父であるところの祖父は85歳である。あと何度逢えるか分からない、と妻は言う。未だに矍鑠(かくしゃく)としている祖父に死の影はまったく感じられないが、それはそれである。うらやましいようなそうでもないような―すでに父方の祖父と母方の祖母を亡くしている俺。そして存命の、残りの2人と出会ってもかけるべき言葉を持たない俺にしてみれば、やはりうらやましいものだ。30を過ぎた女性がおじいちゃんおじいちゃんと言って、なつく姿が俺には微笑ましく思える。

 30の声を聞き、80代の祖父の上京に触れて急に意識せられたのは子作りのことだ。書きづらい話をいきなり書くことにするが、人間にはやはり生殖可能な年齢というものがある。卵子が新鮮なうちに受精しないと、障がい児が生まれやすくなるからだ。35歳以上での妊娠は「高齢出産」の範疇に入るそうで、母体の健康が危ぶまれるとともにダウン症など先天障がいを持った子供が生まれやすくなる。俺の勤め先に以前いた男性は妻が38歳のときに子どもをもうけたが、これがまさにそのケースだった。また、これは妻の年齢の問題ではなかったのだが、俺の従姉妹にあたる人は生まれながらにして複合的な障がい(病名は最後まで聞くことはできなかったが)を持ち、てんかんの発作と闘いながら生涯自分の言葉で話すことができなかった。幼少の頃から体格の良かった彼女がうなり声しか発さず、周囲の人間がそのトーンだけで感情を読み取っていた光景を俺は生涯忘れないだろう。そして4、5年前、入浴中にてんかんの発作に襲われた彼女はそのまま溺死してしまったのだ。当時、おそらく22、3歳であったであろうか。身体だけは妙齢の女性と同様だった彼女は、つねに一人で入浴していたのだという。それは当然だ。結果として不幸なことになってしまったが、さすがに入浴中にまで張り付いていることはできまい。俺は彼女の納棺に立ち会ったものだが、その重さはあまりにも生々しかった。そしてもうひとつ述べておかねばならないのは、俺にも本当はもう一人妹がいたという事実である。

 おそらく、俺がまだ3、4歳の頃。田んぼの真ん中に連なる葬列のなかに俺はいた。黒い服と黒いネクタイの意味すら分からなかった俺だったが、小さい箱が土の中に埋められていった光景はありありと覚えている。その日から自宅には小さな仏壇が置かれ、両親が朝な夕なに線香を焚くようになった。人が死ぬということがまったく理解できなかった年頃だ。俺はあまりに無邪気だった。

 その理由をあえて聞くことなく数年が経ち、文字を読みこなすようになった俺は一通の書簡を見つけた。大学病院の名前が書かれた便せんには、律儀な人柄を感じさせる万年筆の文字が並ぶ。遺族であるところの自分の両親にあてた、医師からの手紙であった。彼女が染色体異常で、生まれてすぐに死んだこと。細胞分裂がうまくゆかず、あらゆる奇形とともに生まれてきたこと。確率は忘れてしまったが、誰にもこういうめぐり合わせがありえること……。当時、俺の両親はまだ27、8歳であったろう。現在の俺よりも若い頃に我が子の葬式をあげ、同時に俺という子どもを育てていたことについて俺は言葉をもたない。幼少のころ、俺は何回か、残酷にも母親に当時のことを聞き出そうとしたことがある。元来人見知りの激しい母が、その後しばらくは外出できなかったという言葉に触れたとき、俺はすでに無常を感じていた。

 やはり人は生き急がなければならないのか。世の中がフリーターだニートだ、そして晩婚化だ高齢化だと騒いでいるが、人が生殖できる期間はそのうちのわずかな間である。もし子どもを望むのであれば早いほうがいい。命は永く続くようになったが、自分のコピーを精確に残したいと思うのであれば絶対的に若さが必要なのだ。

 そのことを分かっていながら30歳を迎えてしまった俺である。空は曇り、俺は休日出勤の準備に追われる。妻はまた買い物へと出かけていった。自分のなかの、戻せないゼンマイがまたすこし緩んでゆく。



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