第317回
最近ではすっかりおなじみとなった“mixi”。いわゆる“ソーシャルネットワーキングサービス”のはしりであるこのシステムに、俺は会社の元先輩に薦められて参加した。元来、頻繁なメール交換などが苦手な俺である。日記の毎日更新などは夢のまた夢だろう。そんなわけで登録以来1年ほどの時間が経っているのだが、すっかり放置プレイ中の俺なのである。参加した直後は面白いように後輩や友人から声がかかったものだが、大体アレは本名で登録されていなければ人の捜しようがないではないか。俺は臆面もなく本名を晒しているので見つけ出してもらえたものだが、逆にこちらから旧知の人々を探そうとしてもなかなかうまくはゆかない。ほとんどの参加者が本名とは縁もゆかりもないハンドルネームで登録しているこのサービス。俺の“トップページ”を閲覧している人々もすべてハンドルネームである。世の人々は、これを使ってどのように旧交を温めているのか聞いてみたい今日この頃である。 しかしそんな中、久しぶりに高校の同級生から連絡が入って驚いた。高校1年生の頃、地理の時間に担任の先生をキレさせたことがやけに印象に残る男だ。高校1年生といえばすでに15年も昔のことである。以前も書いたことだが、誰も同窓会を開こうとすらしないあんな田舎の男子校における記憶は日々遠くなる。それにもかかわらず、彼はどういった経緯か不知だが、俺をまさにこの俺だと知って連絡してきたわけだ。 しかも、彼は俺が結婚したり転職したりした様子をすべて知っているのだという。それもまあ当然であろう。そうしたことはここにすべて書いてきたからだ。三百数十回も書いてきた甲斐があったというものである。どこの誰のものとも分からない文章が横溢するインターネットの世界に書き散らした文章に、一意性が現れる瞬間。世の中は狭いものだと改めて感じられる体験であった。 さて、俺がここにあてどのない文章を書くように、“mixi”上では無数の人々が日々日記を公開している。俺の“トップページ”に登録させていただいている方々のなかにも、数名の熱心な方々がいる。“mixi”のシステムからは毎日そうした状況がメールで届けられるので読むわけだが、これがまた面白い。どこまで真意を表しているのかは不知だが、やはり他の人々が日々感じていることを知ることは刺激になる。そして俺は思うのだ。人はなぜ誰にも誉められず、リスクすらあるというのに自分のことを書きたがるのだろうかと。俺にしても、顔を晒したうえに下ネタを書くこともあるのだから穏やかでない。下手をすれば仕事にも関わるというのにこれを止められないこと。俺は長い間、これを一部の人だけの特殊な性癖なのかと考えてきたが、どうやらことはそれにとどまらないようだ。 いみじくも、上述の同級生は日記にこんなことを書いている(要約)。「ブログなどにはそもそも興味はなかったし、そういうものは自己顕示欲の強い人のためにあるのだと思ってきた。何しろ、誰からも反応がなかったらただの独り言になってしまうではないか。しかし、勇気を出してはじめての日記を書くことにする。」 ……これである。「一億総マスコミ化」などという手垢のついた理屈を言いたいのではない。自由に書ける場所があり、それがいつ誰に見られるか分からないスリル。商売でもないのにアクセスカウンターが流行り、個人ホームページのアクセス解析までが一般的に行われている現代。とりとめのない話になったが、われわれは手紙を入れた小瓶にヒモを付けて大海に流すような時代を生きているのだ。 |