恍惚コラム...

第314回

 3月も後半を迎えている。そろそろ桜のつぼみもふくらみはじめ、春爛漫といった雰囲気が満載である。会社のデスクに旅行のパンフレットを置く人あり、招かれて結婚式に出かける人ありと、黙っていても春が向こうからやってくるこの陽気。個人的にはもう先日の出張のあおりでやり残した仕事に忙殺される日々なのだが、日が長くなった昨今ではすこしだけ余裕を感じることができる。幸い、今年は杉花粉の量も少ない。数年前から花粉症に悩まされている俺にとっては、より爽やかな春の訪れである。

 しかし―春が来るたびにこのことを書きはじめて何年が経つだろうか。件の川越東高校写真部をめぐる問題である。昨年5月の廃部、そして11月の部室明け渡しに至る経緯はいまさら語るまでもないが、残されたOBたちの困惑はまだまだ収まらない。ここに書いたところで誰がこれを読み、誰が理想に近づけるのかすら分からない状態が続いている。そもそも理想とは何なのか? 時の流れに任せるしかないのか? そして、誰がその流れに乗ることを許すことができるのか?

 これが何かしらの利権をめぐる団体であれば話は早いであろう。どこからともなくリーダーが現れて組織ができ、不承不承ながらもついてゆく人も現れるだろう。しかし写真部という組織は、今やまったく目的を失ってしまった。もちろん、個人個人が胸に秘めている目的はあるだろう。しかし、それを公言できない雰囲気が蔓延してしまっているのだ。目的を語ったものがそれを実行する―そんな当然のことすらできないほど、われわれOBは老いてしまったのか。

 のべ100名分にもおよぶ青春を飲み込んできた組織である。俺は今、自分の周囲を見回してみる。家庭、仕事、私生活……たいへん多くのしがらみと、離れるわけにいかない人々に囲まれていることが分かる。この人数がOBの人数で掛け合わされることを考えると、ことは容易ではない。あの部室の扉をくぐった人々の数だけ人生があるというこの事実。いまや全国に散っていったOBが各地に根を下ろしていることを考えると、改めて茫洋とした気分にさせられる。

 もちろんこの組織を誰かの私物にするわけにはゆかないのだが、そろそろ何らかの行動を起こさなければ陳腐化していってしまう、というのが俺の最近の感想である(この、誰に言っているのかすら分からない文体を見よ!)。去る者日々に疎しというが、去った部活もまた疎くなっていくものだろう。写真展にも難色、勧誘活動にも難色、OB同志の会合にも難色、というのでは、未来永劫にわたって写真部OBの融和は得られない。責任をどこかに押しつけることはたやすいかもしれないが、自分も含めてOB一人ひとりがあらためてこの問題を再考しなければならない時期に来ていると感じる。せめて、「新OB会というもの」を実体のあるものにしなければ何も始まらないのではないだろうか。

 今年もどうやら東京大学への合格者を輩出したらしい川越東高校。そんな「進学校」の入学式の時期も近づいている。しかし、部室を失ったOBらに訪れるべき場所はない。なければ作るべきではないのか。まずはこうした思いを持つOBが、衒いなくそれを語れる状況を作りあげたい。

 毎年春になると、どこからともなくこうした話題が持ち上がってくる。この状況が続くかぎり、俺もここで写真部について語ることをやめないであろう。まったく関係のない読者各位にとっては迷惑かも知れないが、ここで育ってきた男たちの思いをどこかに記しておかなければならないのだ。これから5月頃にかけて、今年も目が離せないお話である。



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