恍惚コラム...

第313回

 先週もコラムが落ちてしまった。先々週から書いているとおり、近頃の俺は残業週60時間、毎日午前2時帰宅という状態を続けていたのでこちらの文章に手が回らなかったのだ。しかし、その(残業の原因となっていた)書籍もようやく一段落。先週前半の出張校正を経てようやく形になってきた。原稿を完成させるべく先生を缶詰にしてきたわれわれが今度は缶詰である。軟禁状態というのはこのことなのだなぁ、と感慨深くなった。

 出張校正というのはその名のとおり、出版者側の人間が印刷所に出向いて校正を行うことである。一般のプロセスであれば校正紙(ゲラ)を印刷所の人が出版社に持ってきて、編集者はそれをその場で見ればよいことになっているのだが、時間がないときにはこの方法が採られる。これはつまり、印刷所で刷り上がるゲラをその場で編集者に見せて決裁を仰ぎ、そのまま下版(印刷用の版を作ること。つまりこうなったらやり直しはきかないというわけだ)しなければならないほど火急の場合であることを意味しているのだ。自分の勤め先では滅多に行われないこの手法であるが、この本だけは別。某関西地方にて2泊3日、睡眠時間7時間ほどでやっつけてきた。

 夜が遅いと、人はだんだんハイになってくる。この1ヶ月ですっかり体が夜型になってしまった俺は午前0時でも2時でも全然元気。これは不健康だということに気づきつつも、目の前の締め切りが近づいてくることに快感すら覚えてくるのだ。迫る発売日と印刷所の白い目……こう言ってはおしまいだが、なぜに客であるわれわれが印刷所に頭を下げなければならないのか。しかし、そんなことさえ渦中にあっては当然のことと思えてしまうのだから分からない。ビジネスホテルでのつかの間の休息にあってさえゲラの夢を見てしまうのだから、我ながら相当なマゾ野郎なのかもしれない。帰りの新幹線の中ではさすがに泥のように眠ってしまったわけだが……。

 そんなわけでまだまだ頭が朦朧としている俺である。昼間ほとんど出歩くことがなかったので気づかなかったのだが、街を歩けば梅の花が咲き、早くも散っているものすらある。近所で工事中のアパートは出来上がっていたし、気づけばマフラーなしで歩いている自分がいる。こうして1ヶ月を振り返ってみると、まさに人工冬眠にでも遭っていたかのようだ。

 さて、話はまったく変わるのであるが、先日電車の中で物凄い携帯メールを打っている男を見たのでその話をしたい。近頃では携帯電話の画面を見られないようなシールがずいぶん流行っている。俺にも他人の打っているメールを思わず凝視してしまった経験は何度もある。しかし、人は携帯を使いながら、今自分が打っているメールにのみ夢中になってしまうようだ。この携帯メールについては、ここでも以前「携帯メールをチェックしながらマ○コと口走る中学生」「電車の中で目の前に座る女性を詳細にレポートするサラリーマン風(これは口頭で話したのかもしれない)」の話をしたと思うのだが、今回はまた別の方向ですごいヤツを見かけ、朝から腰砕けになってしまったのである。

 埼京線、某駅に停車中の車内。俺はサラリーマンにしてはずいぶんくだけた感じのウインドブレーカーをまとった40がらみの男の後ろに立った。例のごとく、携帯の画面は丸見え。俺は見るとはなしにその画面に目をやり、他人のプライベートを少しだけ楽しんでやろうと考えた。どうせ仕事か何かの話だろうとチラ見を決め込むと、その容貌とはまったくそぐわない甘い文字列が俺の脳髄を直撃したのだった。「なおちんと会いたいよー。なおちんのそばにいたいよー。今日はお話できてうれしかった……(大意、後略)」

 なおちん? 不倫? 娘? 家族? 中肉中背、無精ひげに眼鏡、そして先述のとおり薄手のウインドブレーカーをまとった男の指から繰り出されたとは思えないこのフレーズ。まあ、今冷静に考えてみれば子を甘やかす親父の言葉と読めないでもない。しかし、そのフレーズは寝不足続きの俺の脳裏をピンク色に染め上げたのだ。こういう地味な男ほど若い女とチョメチョメしてしまうのかもしれない。こんなムサい親父に甘い言葉をかけられて火照ってゆく若いOLを想像し、俺はもうその場で叫び出したくなった。エロい。宇能鴻一郎の官能小説ばりにエロい。この親父はきっと、夜な夜な美人OLの局部を「ジュン」とさせているにちがいない……!

 ……まあ、これだけの話である。何しろ携帯電話だけで執筆された小説ができるご時世だ。人がどこで何を書こうと勝手と言えば勝手。しかし、無断で出勤途中の俺をピンク色に染めるのはやめていただきたい。読者の皆様には、プライベートなメールは隠しながら打っていただくよう力強くお願いしたいものだ。


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