恍惚コラム...

第310回

 先週にひきつづき、本稿を土曜日のオフィスで書いている。週休2日とはいいつつも、ここ1か月は毎週土曜出勤のこの身分……本来ならば明日(2006年2月19日)開催のオフ会終了後の感想を掲載するべきだとは思うのだが、会社でデスクに座っているこの勢いを大事にしたいと思うのだ。明日は明日ですっかりいい気分になっているだろうし……家のマシンよりもはるかに叩き込まれたこのキーボード。文章を書き、訂正することを主な業とするマシンだから、なんとなく筆が進む気もしようというものである。ジャギーが見えるウィンドウズのフォントにも、近頃ではすっかり慣れてしまった。入社時に支給されたDellのキーボードはもうテカテカである。自分のマシンなら気になって仕方がないところだろうが、会社のキーボードがテカテカになる分には“いかにも仕事をしている感”が漂う。これもまたよいではないか。

 さて、この年齢になると道端や駅でカップルが何をしていても気にならないわけなのだが、ここ数日はあからさまにチューチューやっている輩を目にする機会が多い。自分自身にも覚えがないわけではないから(?)生暖かく見守っているのだが、最近ではそのギャル質が気になるようになった。昔の俺であれば他人のそうした行為に目くじらを立てていたことだろう。しかし、最近ではどんな女がそういう事をしているかという点に目が行ってしまう。あきらかにオヤジ化が進んでいる。

 そこで俺は男には一切目をくれず、さまざまな表情の女たちを見つめる。そして、見れば見るほど不思議な気分になるのだ。彼女らはなぜにこの男と、なぜにこの場所で抱擁しているのか。そしてことによっては、この男は俺だったかもしれない(!?)という可能性が脳裏によぎる。女たちの美醜はあえて問わない。年齢も体格も問わない。しかし、大体において彼女たちはどこかで見たような顔をしている。コンビニの店員だったかもしれないし、あるいは福岡行きのフライトアテンダントだったかもしれない。そんな無個性な女たちがある一つの名前を持ち、ほかでもない「その男」に抱かれる姿に俺は神秘を感じるしかない。そして、俺はどうしてここにいるのかと振り返る。

 雑踏に立ち、あらゆる人々が去来するさまを見るとはなしに見る。単なる漢字の羅列が、ひとの名前であることに気付く瞬間。すべてのことを自分の解釈によって動かせるような気がするし、逆に自分の思いが人を変えられなかったことを悔やむ日々。

 何もセンチメンタルなことを言いたいのではない。ただ、うらやましくも何ともないカップルばかり見かける違和感を言いたかったのだ。人を好きになるきっかけなど、実に瑣末なことばかりだろう。しかし、その瑣末を愛するとき―いや、瑣末だからこそ愛すべきなのかもしれないが―、それが彼ら彼女らにとってかけがえのない相手になるのだ。

 あと数日で31歳になる妻と知り合ってから、早くも12年の月日が流れた。それこそ流れゆく雑踏のなか、学校という枠のなかに囲まれ、瑣末なきっかけと些細な動機からともに暮らすことになった女性だ。互いにいつ入れ替わってもおかしくない他人同士がここまで暮らし続けた奇蹟。やっぱりセンチメンタルなことを言いたかったのではないかと嗤われるかもしれないが、それでも30の大台を超え、寝ても覚めてもともに暮らしている人の姿を見ていると、この奇蹟をもう一度玩味したくなってくる。ただ突っ走ってきた時代は過ぎ去り、いよいよ本気でこの人との生活を充実させねばという気になってくる。3度目の転職で先が見えたからだろうか。それともようやく人並みの収入を得られるようになったからだろうか。今日も雑踏を歩きながら、そんな枯れた理由を脳裏に浮かべつつ来るべき誕生日に備えている。


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