第309回
先週末はまあ起きて動いて仕事にも行ったのだが、久方ぶりに更新を落としてしまった。土日ともに取材、しかもさして大きなネタでもないとなればやはり自分が出て行かざるを得なかったのだ。誰もが重視しているネタであれば代役も立つものだが、自分の部署にしか使えない感じのネタであれば、やはり自分がかぶるしかないのである。土曜は女医の集い、日曜は改正薬事法のシンポジウム……そんなわけでひきつづきカゼを完治できない俺がいる。今日(2月11日土曜日)も会社でこんなことを書いているのだ。読者の皆様もゆめゆめ油断なきよう。今年のカゼは本当に長引くゆえ……。 さて、先日も書いたIntel Macのお話である。一般小売店にもすっかりIntel iMacの展示機が行き渡った昨今だが、そのテレビCMを皆様はもうごらんになっただろうか。どうみてもPCメーカーあるいはIntelのCMにしか見えない導入部分。Intelチップの工場で、かつてはPowerMacG3のCMでさんざん燃やされていた「宇宙服」姿の男女が神妙な顔つきで歩き、作業工程を見守っている。シリコンウェハーから切り出された四角いチップがマジックハンド(?)に掴まれているところまでは、まるっきりPCメーカーのCMである。淡々と流れる男声のナレーションもいたって地味で、俺は視線をブラウン管から逸らそうとした。「Intelチップ。それは長い年月、PCの中に閉じ込められていた。地味で小さな箱の中で、単調な作業をこなしていた。」……いったい何を言いたいのだろうか? しかし次の瞬間、俺は耳を疑った。「そして今、その能力を生かすためにIntelチップは解放される。自由に活動できるMacの中へ。その可能性を想像してみよう。」……まさかこれがAppleのCMだったとは。あいかわらずApple一流のCMづくりである。 ものは言い様である。Appleは中国共産党やアメリカ政府的な物言いでIntelチップへの移行を強く肯定してみせたのだ。これでは「文化的でないチベット人の解放」「民主主義から取り残されたイラク人の解放」という論法と変わらないではないか。Appleはそもそも、従来のPowerPCのクロック周波数の伸び悩みと消費電力の大きさからIntel系CPUへの移行を決断した。もしPowerPCが順調に発展していたならば、これほどユーザーに不便を強いる移行はしなかったことだろう。これを「Intelの解放」と呼ぶことには、チベットの鉱物資源と広大な領土をあてにした中共やイラクの石油資源を狙ったアメリカと同じような匂いがする。満たされないが、プライドの高い者が自分に欠けているものを求めていく。そのための「解放」―まあAppleがIntelのCPUを使っても戦争や難民問題は起こらないだろうからいいようなものの、すこし乱暴な言い方であることは否定できまい。パソコンがどのようなCPUを使うかということは「文化」そのものだと思うからだ。 それにしても意外なことに、俺の身近にいる人々はIntelMacに高い期待を寄せている。会社の同期・N氏は一時期eMacを所有していたのだが、OS9起動マシンが高く売れることを知って速攻で売り払い、代わりにDellにAdobe creative suiteを入れて使っている御仁だ。俺からすれば、一度回心した人間が簡単にMacに戻ってこられるはずがないと思っていたのだが、氏は「Intelだからまた欲しくなった」とのたまっている。Windows用の充実したアプリケーションが移植されやすくなることや、うまくすればWindows自体をインストールできるようになる可能性に期待を寄せているのだという。俺としてはあの筐体でWindowsが走っている姿など想像したくもないわけだが、世の人々がIntelMacに寄せる期待というのは「メジャーな2種のOSが動かせるかもしれないこと」「Intelのネームバリュー」に集約されているようだ。そういえば大昔、PC-8801とPC-9801のアーキテクチャを一台に搭載し、スイッチで切り替えることができたマシン(PC-98DO)があったことを思い出す。事はそれほど単純ではないが、筐体やメーカーへの思い入れがない一般ユーザーにとっては、少しでもAppleがデファクトスタンダードに近づいていくことが重要なのかもしれない。 |