恍惚コラム...

第301回

 毎日毎日、電車に揺られている。喫いさしのハイライトをもみ消すと、そこは朝のプラットホームだ。毎朝見る顔ぶれ―絶妙な長さで男たちの視線を遮るミニスカートや初老の紳士―は、俺が今日も同じ時間にそこにやってきたことを知らせてくれる。

 そして俺は、いつもと同じベンチの前で電車を待つ。この中途半端なベッドタウンで降りてゆく人々を尻目に、なるべく椅子の前に立つ。立つ位置ばかりは毎朝同じというわけにはゆかないから、俺の前にはいつも違った顔が座っている。その顔ぶれで彼らの行く先を読み取ることができれば、と毎日思うのだが、結局俺は最後まで立ち通しだ。

 窓を流れてゆく景色―景色が流れてゆくのか、自分が流されてゆくのかそれは知らない。ただ、雨の日も晴れの日も同じ順序で建物が動いてゆく。団地の一ます一ますでは、どのような暮らしが営まれているのか。この教室では優等生と落ちこぼれが激しい葛藤を繰り広げているのではないか。この公園の昼間は、夜は。そんなことを考えながら電車の鼓動に身を委ねている。

 ドアが幾度も開閉を繰り返す。この電車はきっと、走るためではなく止まるためにあるのだろうと考える。終点までには、人一人いなくなるこの電車だ。人いきれが織りなすこの熱気は、きっとこの電車に乗ることを目的とはしていないのだ。ドアの前に立ち、降りる人々のために体を翻す。時にはホームに押し出されることもある。発車間際のチャイムに押し戻されて、俺はまた車中の人になる。

 そんな繰り返しの後、俺はようやく乗り換え駅にたどり着く。違うホームを求めてゆく人。違う路線を求めてゆく人。そしてそこを目的地としてきた人。さまざまな人が階段を駆け下りてゆく。

 乗り換えは地下である。競馬のゲートを思わせる自動改札機に、人々は目的地を記した定期券を挿し込む。俺はその文字を見るのが好きだ。狭山に小平、大宮に指扇、さらにはおよそ見当もつかないような場所からやってきた人々なのだということが分かる。そうした人々を目で追うことはない。ただ、今隣に立っている人の由来を知ったような気になるのが好きなのだ。

 そして自分も階段を下りる。地下鉄のホームには昼も夜も同じ光がある。同じ時間にたどり着くプラットホームだが、都会の駅では同じ顔を見かけない。毎日毎朝、違った姿がうごめき、蛍光灯に照らされている。群れる学生に、疲れた男。誰もが黙っているのに、人が集まるだけでざわめきが起きるこの不思議。右のホームでも左のホームでも列をなす人々は、黄色い光に照らされている。

 再び車中の人となった。地下鉄の暗い窓を、時折蛍光灯の光が流れてゆく。俺はふと運転手の退屈に思いを馳せる。ただ止めるための乗り物であるには違いないが、日々この乗り物を運転する気持ちとはどういうものだろう。退屈。これは偏見かもしれないと思い直し、地下鉄の時間は過ぎていく。

 窓の右側から朝の光が差し込む。地下鉄といえど、数駅は地上を走るこの電車はきっと幸福だ。しかし、それは誰のために。

 蛍光灯の光あふれる目的地には9時5分。風に吹かれて階段を登れば、そこから昨日の続きがはじまる。



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