第3回

残念ながら、写真を撮らねばならない・撮らされる立場の人間が居る。

 それはカメラマンという人種だ。

 彼らは生活の糧を写真から得ているという理由から、多くの写真を「撮らされて」いる。どんな仕事も、−殊にフリーカメラマンは−途切れてしまっては次の保障はない。社員カメラマンはともかく、フリーのカメラマンにとっては仕事を選べない状況がある。「どんな写真をお撮りで?」と訊かれて、「何でも・・・」と答えなければならない悲壮感、皆さんお分かりだろうか。

 本当は水着のおねえちゃんが撮りたいのに、仕方なくブツ撮りをしているカメラマンの数。本当はアフリカのサバンナに居たいのに、仕方なく東京にいるカメラマンの数。それを思うとき、私はカメラマンがカメラマンでいる必然性にすら疑問を感じるのだ。

 カメラマンの間では、仕事のことは「仕事」と呼ぶのは勿論だが、自分の好きな写真を撮ることを「作品撮り」と呼ぶ。お金にはなりませんが、暇なのでちょっと写真を撮ってみました。といったニュアンスがそこには含まれているのだが、この「作品撮り」をしていないカメラマンはいくらも居る。「仕事」に忙殺されて、カメラをそれこそ「コピー機」としてしか利用していないのである。

 確かにカメラは「コピー機」だ。形あるものならほぼ間違いなくリアルに写し取ることが出来る。でも、それだけに使いようによってはまったくつまらない機械になってしまう。問題集をコピーしろと云われて喜ぶ人がどれだけ居るだろうか?授業中にプリントが足りないから印刷室に行ってちょっと取ってきて、と云われるなら授業がサボれてちょっとは嬉しいだろうが・・・。私にもそんな記憶があるが、閑話休題。やはりカメラは自分の好きなように使わなければまったく何の面白みもない機械なのであるな。まあカメラ自体が目的のカメラフェチは別にしても。

 で、高校写真部。高校生だとか、アマチュアだとか云われると何だか腹が立つ部員の方もあるだろうが、私はその特権を最大限に生かして欲しいと思う。現像の上がりを待つときに胃が痛い、オートフォーカスが信用ならなくて使えない、そんなつまらない写真体験がそこにはないのだ。何を撮っても叱られない立場を是非謳歌して欲しい。

 だって、写真部の部長が「撮れ」って云うのなら撮ってやれば済むことじゃないか。

 

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