第289回
9月になった。夏が毎年暑くなってゆくと誰もが嘆く21世紀のはじめだが、さすがに10日の声を聞けば、そして日暮れに鳴き出す虫の声を聞けば、ここに秋が来たことを知ることができる。そして、今日は誰もが忘れることのできない9月の第一土曜日―そう。多くの高校が文化祭を開催する日なのである。ご多分に漏れず、わが母校である川越東高校もこの日に合わせて「翔鷺祭」を開催していることは周知のとおりだが、今年は卒業以来ほぼ毎年通ってきたそこにどうしても赴けない、赴くわけにはいかない状況になっている。 本件について、本コラムを愛読されている皆様はもういやというほどご承知かと思うが、今日はこういう日である。初見の方のためにここまでの経緯を簡単に説明しよう。 昭和59年(1984年)、埼玉県川越市のはずれに私立川越東高校は設立された。その母体となる星野学園は明治30年に女学校として設立されたものだったのだが、どうした縁かこの年、男子校を設立することとなったのである。同校は開校と同時に7百余名の生徒を受け入れ、「文武両道」の精神のもとさまざまな部活動も設立した。そして、その流れの中で俺が平成3年からの3年間を過ごした写真部も誕生したのである。 写真部の歴史は順風満帆であるかに見えた。創立者である松尾先生のもとに集った生徒たちはおおくの展覧会で成績を残してき、新設校ながらも私立ならではの財源によって十分すぎる設備を誇ってきた。当然、そこには松尾氏の尽力もあったことはいうまでもない。積極的な撮影旅行の開催や、写真の知識を問うドリルの作成などで部員たちの実力を養っていった。また、創部当初の部室には椅子が置かれていなかったというのも有名な逸話である。部室は写真をプリントするためにあるのであり、決して他の、休んだり遊んだりする場所ではない―こうした思想が写真部黎明期の礎を確実なものにしていったのであった。 俺個人が入部したのは松尾氏が去って1〜2年目なのだったが、それでも写真部の活気はまったく変わっていなかったといえる。部室には写真雑誌がずらりと並び、写真には一家言ある先輩たちの指導のもとで俺はその後の人生を踏み外す(?)ほど写真にはまり込んでいった。当時、顧問を務めていた某氏はわれわれ部員をこれでもかと信頼・放任し、写真の技術を教えることは決してなかったにもかかわらず堅実に部活を経営していた。俺個人としては、この頃の顧問=生徒の関係は非常に絶妙なバランスの上に成立していたと考える。 しかし、このように推移していった写真部も平成13年ころから事情が変わってきた。従来、春の新入部員勧誘では確実に部員を獲得してきたのであるが、このころから部員がどんどん減少してきたのである。原因は種々ある。先に述べた信頼・放任が部員の獲得に対してマイナスにはたらいたこと。また、平成12年から実施された「部活動加入の自由化」は写真部に限らず多くの文化部の衰退を招いた。さらに忘れてならないのは、写真という行為のデジタル化の進展である。結果、写真部は平成15〜16年の2年間の部員ゼロ時代を経て本年5月、20年の歴史に幕を閉じたのである。 この衰退に関し、現役生ならびにOB各位はただ手をこまねいていたわけではない。写真部の廃部が視野に入ってきた昨年あたりより、OBの一部は積極的に現役生徒ならびに学校側に働きかけてきた。勧誘パンフレットの作成にはじまり、ポスターの貼付、そして廃部の直前には現生徒会長に宛てた嘆願書まで提出した。この文化祭に向け、一部OBは高校での写真展も企画したが、「現役生徒ではない」という理由で却下されている。 こうした一連の行為に携わった人々の悲しみはいうまでもないことである。戦いすんで、OB諸氏からはこれまでの行為を総括する声が続々とあがった。 そして迎えた今日、この日である。文化祭というのはどこの学校でもそうだと思うが、文化部にとって最大の見せ場である。そしてさらに悪いことに、そこは田舎の男子校なのだ。部活動というよすがでしか学校との繋がりを感じられないOBらにとって、その部活動がなくなってしまえば行く理由などまったく見つけることができないのである。 すでに言い尽くしたことをもう一度言った感があるが、OB諸氏は今日をどう過ごされているだろうか。親と過ごす人、子と過ごす人。男と過ごす人、女と過ごす人。すべての関係者が、よい週末を過ごされることを願ってやまない。
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