恍惚コラム...

第285回


 世間に夏休みがやってきた。夏休みと言えば40日も続く、永劫を思わせるような学生時代のそれを思い出すものだが、俺も齢30である。そんな休みをもらったら脳みそが腐ってしまうか、飲み過ぎで肝臓が硬くなるかのどちらかだろう。そこで俺は自転車で部活に向かう中高生や、祖父母の腕にしがみつく子どもたちを横目に見ながら、短い休みの一部を仙台で過ごすことにした。

 仙台というのは妻の父親の父親、つまり祖父の家がある土地だ。自慢にもならないが、北海道をのぞく栃木以北に行ったことのなかった俺である。国内旅行といえば、昔父親がなんとかの一つ覚えで連れて行った伊豆・熱海の類、あるいは高校の修学旅行で行かされた新潟・北海道程度のものだ。あれだけアジア各地に行き倒しておきながら何をと思われるかもしれないが、ごらんのとおりのインドア派である。新幹線代を払うなら、それこそ別の何かを買って楽しんだ方が良いというスタンスで俺はこれまでを生きてきたのである。東北初上陸がこうした形になるのは半ば予想されていたこととはいえ、やはり到着するまでは気が重かった。

 その祖父とは妻と結婚して8年も経つのに未だ3、4回程度しか逢ったことがないのであった。それが俺の気を重くさせる原因のひとつでもあったのだが、行ってみればあっという間に時間が過ぎてしまった。彼は現在85歳。詳細を根掘り葉掘り訊くのはお門違いと思いながらここまで来てしまったのだが、戦時中は中国で鉄道の建設に従事し、帰国後は国鉄に勤めてどこかの駅長になった人である。その間妻の父を一人っ子として育てた後、20年ほど前に妻に先立たれて以来一人暮らしをしているのである。妻の実家では事あるごとに祖父を川越に、と言っているのだが、それは毎回不調に終わっているようだ。そう。85歳で平然と一人暮らしをしていることからも分かるように、彼はとにかく多趣味で、退屈するということを知らない人なのだ。今でもダンス教室やら中国語講座などには定期的に通っているし、年に3度は海外旅行に出かけている。息子の家に行くよりも、地元の知り合いと遊んでいる方が楽しいという、まあそういう人なのだ。

 訪れた、半ば「ゴミ屋敷」といえなくもないその家には夥しい数の写真アルバムとネガがあり、昨日はEOS D20で撮った中国・九寨溝の写真を見せられた。嗚呼、巷間に伝わる85歳のイメージというのはこんなものではないはずだ。ここにおいて「85歳・独居老人の惨状」などという夕方のバラエティ・ニュースにありそうな連想は消え失せてしまう。確かに散らかってはいるのだが、そこには彼の趣味を物語るさまざまなものが置かれていた―パソコンラックに置かれたノートPCと、長谷川京子のCMでおなじみのあのプリンター。先述のEOS D20。開梱したばかりのDVDレコーダー。ICレコーダーにMDプレーヤー……。俺は不謹慎にも「年を取って頭がしっかりして、そして金があるというのはこんなに楽しいものなのか」と思ってしまった。読者の皆様もそうした考えをお持ちになるのではなかろうか。しかし、築40年という饐えた匂いのする平屋でそうしたデジタルグッズに囲まれている姿というのもまた複雑な気分にさせられるものである。本人は至って幸せそうに見えるのでよいのだが、何かこう儚い気分にさせられてしまうのだ。妻は言う。「おじいちゃんは今生まれたほうが幸せだったのかもしれない」と。しかし、それが真実かどうかを知るのはただ彼一人なのである。

 また、彼の身体のかくしゃくさにも驚きを隠せないものがあった。以前川越で会ったときにはさほど感じなかったのだが、その足腰の機敏さはもう「サイボーグ」級といえよう。妻の今回の旅のねらいに「亡くなった祖母の着物をもらいに行く」というのがあったのだが、彼はその着物を詰め込んだ段ボール箱(7〜8キロほど)を平然と持ち上げたのである。これだけでは驚くに値しないだろうが、この話にはまだ後段がある。俺たちはこれを宅配便に出そうとスーパーに向かったのだが、彼はなんとヒモで吊られたその箱を中指一本で持ち上げて平然と歩き出したのだ。プラスチック製のヒモが指に食い込むのをものともせず、それを上下に動かしながら歩く様子を見て、俺は「この人ならあのCMばりの大回転を見せてくれるかもしれない……」と本気で思ったのだった。さすがに数十メートルで俺と交代したものの、思い切り握りしめられた俺の右手はその握力に負けそうな勢いであった。いやはや、恐るべしだ。

 言ってしまえば他人の家である。しかし、妻の父を育てた人がこうしてまだ元気に暮らしているのを見るのはまた楽しいものだ。この人がこの地に生まれ、その一人っ子が埼玉で妻を娶らなければ俺は今頃どこでどうしていたかも分からないのである。自分の祖父母を見るのとはまたちがった視点となるが、こうしたルーツを垣間見る旅もたまには良いものである。久しぶりにお盆らしいことができたと満足しているところだ。



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