第28回
 何にでもなれそうだと予感させる時代は、時に冷酷な素顔を見せる。誰もが家や土地、イデオロギーに縛られなくなった現代。もはや子供たちは親の職業が何であろうと自分の好きな職に就くことが出来るし、親たちもそれに対して何らのこだわりも持っていないように見える。
 何にでもなれる、という可能性があるということは、何にもなれない可能性がある、ということにほかならない。世間にはそういった訳で何にもなれなかった人々が蠢いている。「何か」になるということはそうそうたやすい事ではあるまい。しかし、「何か」とは何だろうか。
 通常、「何か」に「なる」と言えばある職業に就くことを意味するのだ、と思う。子供たちは野球選手を目指したり、電車の運転手になりたがったりする。その「野球選手」「電車の運転手」が「何か」なのだ。
 「何か」になりたい、と言って「なった!」と胸を張って言える職業は余りない、と俺は思う。俺の座右の銘は「職業に貴賎なし」なのであえて例示はしないが、曖昧に言ってみればそれは「皆の憧れの職業」という事になるだろう。そしてそんな職に就けなかった人たちは「何にもなれなかった」と愚痴をこぼす。
 それにしても人間生きていて何にもならなかった、ということはあるまい。誰もがそれぞれの場所でそれぞれの役割を演じてきたはずだ。職種としての「何」が世間上省みられないようなものであっても、人間としての「何か」にはなれると俺は思うのである。
 自分が死んだ後に、誰の脳裏にもいい思い出を残してはじめて俺は「何か」になったと言うことが出来るだろう。



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