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第27回
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 飛び飛びの夏休みなのである。最初は9連休を目論んでいたのだがそこはフリーランス(の部下)の立場、間に2、3日仕事が入ってしまい、結局何だか休んだのだか休んでないのだか分からない状況になってしまった。誠に消化不良なのである。おかげであんな計画やこんな目論みがフイに・・・なんてことはなくて、何にも計画なんぞ立てていなかったのであった。こういう仕事をしていると、いつ電話が掛かってきて出頭を命じられるか分からないので常にドキドキである。カメラマンを生業としている方々は皆そうなのだと思うが。でもまあ自分で撮れるんだからいいさね。俺のドキドキはそれとは少しばかり趣の違うものだ。そんな俺の夏休みも、明日で終わる。

 そんな腑に落ちない夏休みの最中、俺は久方ぶりにフィルム現像にいそしんだ。ああ、何ヶ月ぶりだろう、この感触。写真なんて現像所に出しとけば間違いない、という仕事をしていると、この自ら現像タンクを振るという行為は実に新鮮だ。現像液を溶解するという行為一つとっても、何だか愛しい気持ちになるのはなぜだろう。日ごろ高校生諸君に「現像とは・・・」とか「プリントとは・・・」と言っている俺が情けなくなった。

 俺が始めてフィルム現像を行ったのは、忘れもしない1991年4月の事だった。当時フィルムといえばネオパンSSと、トライXしか知らなかった俺。そんな俺にミクロファインの茶瓶を握らせ、キングの片溝式タンクにネオパンSSを巻かせたのは、他でもない川越東高校写真部だった。それが高じて今のような職に就いているとは、当時の俺には思いも寄らなかった。これも何かの縁なのであろう。

 世間には、高校がどうだとか大学がどうだとか本気で論じる人々がいる。しかし、何処に行ってもそんな「縁」とは出会えるはずだ。偏差値の低い人々はそうならではの魂を持っているし、逆もまた真なりだ。その魂が高いか安いかは、誰にも決めることは出来ない。自分の偏差値を上げたければ上げればいい。何もしなければそれはそれで自分の真の姿を見ることが出来るであろう。あるいは高校なんぞ辞めてしまうのも手かも知れない。自分の妹は昨年高校を中退したが(いわゆる偏差値の低い学校だった)、それはそれで彼女にとって教育的な試練になっていると思う。学校のグレードなぞ、どれだけ高い車に乗るかというくらいの意味しかないのではなかろうか。セルシオに乗る人は確かに静かな環境を得られるかも知れないが、外の様子なぞ測り知れず、運転の楽しさは分からないかも知れない。一方、もっと安い車―あえて例示はしないが―に乗る人は、小さいボディーで人車一体の楽しみを得るであろう。でもいずれにしても確かに前へは進んでゆく。目的地に到着できるということに関してはどちらも一緒なのだ。学校選びもこれと似たものなのではないだろうかと近ごろ思う。
 
 いや、これは俺が何かに後悔しているということでは無いのだ。本当に。現状を活かしきれていない人がいるような気がして、このような事を書いたのである。


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