恍惚コラム...

第261回

 学校への乱入が流行る昨今である。先日も大阪・寝屋川区では小学校教員が凶刃に倒れたし、昨日(2月19日)にも石川県の中学校に乱入した男が校庭にいた教諭を傘で殴って軽傷を負わせている。安全なはずだった学校の現場は、あの大阪・池田小学校での大量殺傷事件以降、ずいぶん物騒な場所になってしまったようだ。少し前までは「学校での問題=いじめ」というのが定番であったが、最近ではそれに関する報道はなりをひそめ、かわりに外敵の侵入に頭を悩ませることになっているのである。

 当然、学校側はそれに対するさまざまな対策を開始している。専任の警備員を雇っての侵入防止措置や、学校内で乱入者が暴れた際の訓練を行う学校の様子は最近しばしば報道されているところだ。「刺股」を使っての訓練などはまさに大捕物そのもので、いかにも頼もしそうである。だが、これらの対策は不審者を見てしまってからの対策にすぎない。われわれは今、こうした連中がなぜ学校を凶行の場に選びたがるのかを考えることが大切ではないだろうか。現在の対策は対症療法にすぎないと思うのである。

 日本人が、最低9年間を過ごす学校という場所。それに対する思い出は人によってそれぞれだと思うが、少なくとも俺自身はそこに良い思い出を持っている。多くの揉め事や小さないじめ、成績の不振や進路についての悩みなど、マイナスイメージは確かにないではなかったのだが、俺自身、それは自分自身の問題として捉えてきた。全く同じ年齢の連中が、さまざまな資質を持って集まる義務教育の現場。そこには当然さまざまな出来・不出来が生じることとなる。見た目からしてアタマの悪そうなヤツもいた。才色兼備で、クラスのマドンナ的存在もいた。アタマは滅法良いのに手先は全く不器用なヤツもいた。当然、「スポーツバカ」もいれば「根暗(当時の言葉で)」もいた。しかし、そうした資質は学校の力をもってしても変えることは難しいし、どれが正解ともいえないのである。このように「優秀な」子供と「そうでない」子供を同じ坩堝の中に放り込むことは、自然な競争を促す良い機会だと俺は思ってきた。自分にできないことも、上位の連中は涼しい顔でやってのけていたからである。俺はそれを見るにつけ、「自分ができないのは自分のせいなのだ」と思い、学校の制度を批判する考えには至らなかったのだ。大体、二十歳を過ぎればかつての神童も普通の人間に成り下がるし、「できなかった」子ほど平和な家庭を築いたりしているものなのである。

 そもそも学校とは、分別のつかない子供たちを一同に集め、均質な読み書きそろばんを施してやる場所だと俺は考える。繰り返しになるが、その均質な教育を受けた上で生じる効果やトラブルは、あくまで個々人の性質によるものだと俺は愚考する。元来、学校というのは勉強さえ教えていれば良いところではなかったか。それに対し、社会が「人格形成」や「道徳教育」、あるいは目的とはまったく矛盾する「ゆとり教育」などと言い出したことが現代の混乱につながっていると俺は思うのだ。時代は今、とかく差別を嫌う。人種や国籍、学歴や門地などに対する差別は当然許されるべきではないが、同じ教育を施したところの結果が均等にならないからといってそれが「差別」にあたるのかどうか。あるいは、話は逸れるが男女の名簿が別になっているのも「差別」なのだろうか。それはおおいに疑問である。公立学校はここ数年の施策により、完全週休二日制や授業時間の削減を実行してきた。詰め込み教育を排し、全ての子供により広く均質な教育を施そうという意図があったのだろうが、これが現代の児童生徒に誤解を与えているのではないかと思う。

 曰く、「学校は全責任をもって自分を教育してくれる」「学校は、すべての生徒に同じ結果をもたらしてくれる」「学校は丁寧に勉強を教えてくれる。なのにうまくいかないのは学校のせいだ」等々。そんな考えが人をしてナイフを持たせ、学校に向かわせるのではないか。学校は手段であって、目的ではない。自分の不徳までも学校のせいだと考える者が最近増えているように見えるのである。

 学校はかつての権威を取り戻し、怖い先生ときついカリキュラムを回復させるべき時期に来ているのかもしれない。尊敬の念にはある程度の恐怖も必要だ。学校の恐怖が誘拐や不審者の侵入によってではなく、教育への本質的な畏怖によってもたらされる時代に期待したい。


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