第258回
パソコンというのはどこまでも業の深い機械である。次から次へと新機種が売り出され、その古くなった機械には行き先がない。いや、まだ年若いモノにはリフレッシュして再び売り出されるという目もあるが、5年単位で時間が経ってしまったモノはそれこそ救いようがない。最近では新品のパソコンを買うにあたってリサイクル料を徴収されるようになったが、これは当然のなりゆきである。秋葉原辺りのジャンク屋では、数年前であれば誰もが流涎して欲しがった高級機がそれこそ数千円で売られている。ことほど左様に古いパソコンというのは因果なモノなのだ。 中古パソコンの相場というのは新機種が発売されると同時に形成され、その後は時間の経過に比例してどんどん下がってゆく。途中、何らかの原因で乱高下するということはまずない。これは自動車やカメラとはずいぶん趣の異なることだ。これらの機械はある程度の時間が経っても「走る・撮る」という基本的な機能を損なうことが少ないからである。どんなに年数の経った自動車でも数千円以上の値はつくし、骨董的価値の出たモノならなおさらだ。また、カメラに至っては大概フィルムさえ入れれば撮影できてしまう。カメラの場合はその入れるフィルムの方が進化したりするものだから、クラシックカメラが現代になってようやく使いやすくなった、ということも起きているだろう。しかしパソコンはどうだ。年数が経てば経つほど相対的に遅くなってゆき、最新のサービスを受けられなくなっていく。外観はまったく新品同様で、中身には何やら賢そうな基板やらパーツが積まれているにもかかわらず、「遅い」「古い」というだけで使えなくなるパソコンという機械。自分自身もこれまでの半生で8台のパソコンを所有してきたが、結局手元にあるのは現在2台。あまり古くなりすぎるとリセールバリューが下がるものだから、かえって売り急ぐような局面もあった。 しかし不思議なもので、他の速いパソコンについて見たり聞いたり触れたりしなければ自分のパソコンの遅さに気づくこともないのである。禅問答のような話になるが、これは間違いなく真実だ。ひたすら自分の用途に没頭し、必要最低限のことさえできればよいと考えるならば、自分の目の前のパソコンが絶対的なものになる。前段で「相対的に」と書いたが、まさにその通りだ。この点、機械的な故障の起こりやすい自動車などとは違う。自動車の場合、時には部品交換もしなければならないだろうし、あんなに高温・高速で回転するエンジンというものは偶然で動いているのではないかとさえ思わせる。しかしパソコンという機械はハードディスクとディスプレイを除き、ほとんどが半永久的に使える半導体で構成されているのだ。だから、買った当初のスピードが損なわれることはあり得ないのである。遅い遅いと騒ぐのはその人が他の新しいパソコンを見知ってしまったからにほかならないのであって、当の「遅い」パソコンにまったく非はない。自分のパソコンを遅くしたくないなら、一切のパソコン情報を遮断すればよいだけの事である。 俺自身、まだまだ使えるパソコンを何台も手放してきた。そして、俺は今まさにこの原稿を書いているパソコンの遅さを気にしだしている。はっきり言って、こうしてモノを書いているだけならば何の不満もないマシンである。おまけに、前言とは矛盾するがこのパソコンは「Mac OS9」で起動できるPowerBookG4ということで、中古でかなり外観がスレているものであってもとんでもない値段で取り引きされているのだ(定価30万円のものが、2年落ちでもまだ15万円程度で売られている)。俺は知りすぎてしまったのだろうか。目の前のこのパソコンが自然死を迎えるまでには、あと何年かかるのだろう。どうやら、パソコンとはその寿命を全うするあいだに人間の業までも浮かび上がらせてしまう機械のようである。まあ、自動車と違って何台所有しても税金を取られることがないのは救いなのだろうが……。 |