恍惚コラム...

第249回

 昼になれば昼飯を食べる。勤め人にとって、一日の中締めをするための大切な儀式である。この1時間で午後への鋭気を養い、午後のグレイトな仕事へのパワーを充填することはデキルビジネスマンの必須事項だ。これを怠れば仕事の能率がダウンすることは必至であり、電話に出れば舌がもつれ、企画書を書いても何とも締まりのないものになってしまう。会議に出れば即眠でトランス状態に入るだろうし、来客があっても名刺交換のタイミングを計ることができず、そのまま帰られてしまうこともあり得る。結果、残業することになるだろうがそこでもエナジー不足が露呈し、終電まで帰れないことも起こるだろう。ことほど左様に昼飯は重要なものなのだが、俺の勤め先付近の昼飯環境は脆弱である。一昨年だかに新社屋に移転した勤務先は幹線道路のそばにあり、駅から遠くなってしまったのだ。旧社屋はお茶の水の明治大学の裏にあったそうで、その頃は学生目当ての食堂を選び放題だったそうなのだが現在では東京砂漠のど真ん中なのである。一説によれば、以前は学生を装って明大の学生食堂に赴く社員もいたらしい。しかし今、立ち並ぶビル群を見て俺は思うのだ。「一体、この辺りで働く人はどんな昼飯を食べているのだろう……」競合店が少ないおかげでやっていけるような喫茶店やラーメン店が立ち並ぶ町並みを見ていると、何だか寂寞とした心境になるのである。
 
 前職ではクルマに乗って営業に出る仕事をしていたから、選択肢はそれこそ無数にあった。街道沿いのラーメン店しかり、ファミレス然り。ひなびた駅前や、未知の客先のそばにクルマを停めて、近所の食堂を探索するのも楽しかった。うまい店に当たればラッキーだし、まずい店に当たっても、翌日またクルマを走らせれば良いだけのことである。放浪する昼飯の歓びがそこにはあった。二十数キロ離れた定期的な客先に行く道中などはまさにジプシー気分であり、国道16号線沿いの立て看板に心はいつも魅了されていた。焼き肉にラーメン、そしてゲームセンターに併設されたワケのわからない店等々に向け、昼前のAMラジオを聴きながらクルマを転がすのはああした職種でなければ味わえない余録であったろう。
 
 そんな俺にも最近、数件の行きつけが出来た。入社直後は先輩方の金魚のフンよろしくついて行くだけだったのだが、近頃では一人で昼飯に出かけることも増えてきたから、いきおい自分の嗜好が出てくるというものである。冒頭に書いたように、これで満足しているわけではないのだが、そんな店の話を2件ほど書いてみたい。場所はあえて明かさないが、いずれも本郷通り沿いの店である。気になる方にはいつでもお教えしましょう。
 
●サントス
 ブラジルの地名から採られた情熱的な店名とは裏腹に、集まってくるのは昼飯時のオヤジばかりという異様な喫茶店。喫茶店なのに女性がいるのをほとんど見たことがない、まったく硬派な店なのである。その原因には諸説挙げられると思うのだが、内装のせいか雰囲気が暗いことや換気の悪さ、そして何ともショボイ店頭サンプルとメニューが挙げられるだろう。とくにこの換気の悪さは深刻で、「サントス臭」という独特の臭気を服に残してくれるのだ。これは同じシマで働く女子社員が命名したものなのだが、彼女曰く「さっきエレベーターでサントス臭がしたんですけど、誰かサントス行きませんでしたか?」と訊かれるほどのものなのだ。換気の悪い中で供されるランチが揚げ物主体であるため、その油の匂いとタバコの匂いが混じり合った匂いがするのである。
 しかし、この匂いを我慢しつつ、さほど旨くもないランチを皆が食べに行くにはそれなりの理由がある。それはズバリ、会社から近く、粘っていても文句を言われない店だからである。味で選ぶのではなく、居心地だけで選ぶ。そんな店があってもいいではないか。ちなみにランチは5種類ほど用意されているのだが、ただ「ランチ」というとAランチ(860円)が出てくるお約束になっている。スープとメイン(大体、間違いなく揚げ物だ)、そしてライスにコーヒーがつく。味の方は可もなく不可もなくといったところ。これ以外にもB〜Dランチまでが取りそろえられているのだが、その中に「ビーフステーキ」がある日はラッキーである。「なんでこれを普通のランチと同じ値段で出せるのか!?」というものが食べられる。
 また、これも滅多に頼む人がいないのだが「オムライス」も隠れた名品である。だが、マグロづけ丼とナポリタンスパゲティーは我々社員の間では禁忌ということになっている。血圧が一気に200くらいに達しそうな味付けのマグロと、うどん顔負けのゆで具合のナポリタンは危険きわまりない。昼間から5種のランチでロシアンルーレットが楽しめるサントスにアミーゴである。山盛りの柴漬けで血圧とテンションを上げてゆきたい。
 
●竹子
 「たけこ」と読むらしい、ラーメンがメインの中華料理店である。店員のほとんどが本場の人らしく、女性店員の端正な顔立ちとたどたどしい日本語が雰囲気を盛り上げてくれる。店内に張られているメニューも中国語であり、マジで読めなくて注文に手間取る客も散見される(そういうときには写真と番号で注文すればよいのだが)。カウンターのみのあわただしい雰囲気の店なのだが、それだけに昼飯どきには座れない危険も伴う、そんな店。場所がいいだけあって強気の値付けなのだが、その中でも俺は担々麺(800円?)がお気に入りである。醤油ベースのスープに辛みそが乗っているのだが、日本人の感覚からすれば薄味。問題の辛みその方も、塩気やコクより辛みを重視した本場四川仕様のものだ。しかし、一般の日本人の「ラーメン観」からはかけ離れているせいか、勤務先での評価はけっこう低い。麺も乾麺系だし……。そういえば、ここにも男性客しかいないんだよな……。
 そんな竹子の一番の売りは「ライス食べ放題」「ゆで卵食べ放題」である。どちらも大して大量に食べられるものでもないのだが、とりあえず店先に「食べ放題」という看板が出ているインパクトは絶大である。俺は行くとかならずライスを2杯頼んでモトを取るべく奮起しているのだが、ゆで卵にはなぜか手を付ける気はしない。なぜなら、ゆで卵を嬉々として食べている客を見たことがないからである!もう竹子にはしょっちゅう行っているのだが、せっかくの食べ放題ゆで卵は常にカウンターに積まれたままであり、そんないつ茹でられたか分からない卵を食べる気にはどうもなれないのである。俺がもともとゆで卵があまり好きではないということもあるのだが、そんな不憫なゆで卵を見たくないばかりに竹子から足が遠のいてしまう日があるのもまた事実なのである。



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