古い友人の結婚式にやって来た。やって来た、といってもこれはまだ道中である。お台場などで結婚式を挙げるなぞ、結婚式も結婚指輪も交わしていない俺たち夫婦にしてみればゴージャスの極みなわけなのだが、俺は今、途中の新橋で途中下車をして、喫茶店で密かに祝儀を包みながらこの原稿を書いているのである。本当は結婚式の後で書いた方が面白い話が書けるはずなのだが、きっと酒を飲んでしまうだろうから、そんな気力は余っているまい。だから俺はこの場を借りてこれを書くことにした。
もう一度書くが、自らは結婚式なぞ挙げたことのない俺である。結婚式場になんか、写真を撮るアルバイト以外では行ったことのない俺が初めて正式に招待されたのがこの結婚式なのだ。俺自身が結婚式を挙げていないからといって遠慮して呼ばないでいてくれる仲間もいる中、こんな古い、疎遠になった男を呼んでくれる彼の心意気に、俺は感謝以外の言葉を知らない。結婚式場に自分の名前の書いてある席があって、座ってメシを食べているだけでいいだなんて、なんと身に余る喜びだろう。
大学の同期の中で一番の稼ぎ頭になった彼。在学中から大好きな競馬の写真を撮り続け、好きこそものの上手なれでどんどん頭角を現していった彼。どう見ても売れないテーマを撮り続けた俺とは違い、彼の写真はどこに出しても見栄えのする、それは素晴らしいものであった。同時に彼は旺盛な好奇心とクレバーな頭脳を持ち、その他のジャンルにも果敢に挑戦していたのだった。OBや教授連からの評価も高く、結果、彼は優秀な成績で大学を卒業して日本人なら誰でも知っている出版社にカメラマンとして就職したのだった。そして今では、誰もが知っている週刊誌の写真を撮っているのである。
彼が就職した頃の俺は、全くの暗黒時代にあった。ご存じのカメラマン修業時代である。月給10万円。日当たりの悪い木造アパートに住んで、何かを放置すればすぐにカビの生える環境は劣悪だったし、肉もろくに買えなかったあの頃。連日連夜叱責され、さりとてほかに喰ってゆく手段も知らず、明日のことさえ分からない浮き草暮らしだったあの頃。同じカメラマン修行時代である。彼は彼なりに愚痴を言い、俺は俺なりに愚痴を言い、まあそれはそれなりに楽しい日々だったと言えるだろう。しかし、2年と少しで俺は破綻してしまった。独立する気概を失った俺と、独立させるつもりもない師匠の壁にぶち当たった俺は全く違う場所に新天地を求め、それ以来一度も肉声で語り合ったことのない俺たちなのである。
これが同じ仕事を目指した同志でなかったなら、こんなややこしいことにはならなかっただろう。たまにはどこかで酒を飲み、たまにメールがやってきてバカな話をするのが楽しみになる、そんな関係が築けたに違いない。しかし俺たちは、彼の気遣いと俺の余計なプライドが邪魔をしたまま5年近くの歳月を疎遠に過ごしてしまったのだった。俺はその間、持てるものと持たざるものの違いについてずいぶん考えた。金のある人、ない人。望まれる人と、望まれない人。その間彼がどのような事を考えていたのかは知らないが、俺は彼の影を常に引きずりながらここまでやって来たのだ。
先頃の旅に出るにあたって、俺は去年の2月にこんなメールを出した。「・・・ただ、こういう言い方をしても信じてもらえないかも知れないけれど、俺はこの3年余りの間、写真の道、そして貴君の名前を思い出さない日は本当に無かったのです。そして人に俺の来歴を語る時には必ず貴君の事を交えて話し、誇らしい気分にさせてもらいました。貴君は俺にとっての誇りであり、また得難い財産だと思っている事を僭越ながら覚えておいて欲しいと思うのです。俺が再び写真に行くにしろ、また別の道を行くにしろ、「これが俺の職業だ」というものを見つけたらきっと逢わせてもらいたいと思うのです。」
果たしてその日がやって来たのである。俺の今の職業が理想かどうかはまだ分からないけれど、ひとまず俺の中でのほとぼりは冷めた。そして、何よりも今日を逃したら2度と逢えないような気がして俺はここまでやって来たのである。どんな結婚式になるのだろうか。幸い、新婦も大学の同級生でよく知っている人である。まだどの面をさげて行って良いのか決まらないのだが、そろそろこの席を立つことにしよう。
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