写真=物欲となってしまうのが凡人の悲しいところである。皆様ご存知のとおり、俺はカメラマン崩れの編集者として某出版社に在籍している身なのであるが、最近どうも写真機やそれに関連する機材が気になって仕方がないのである。写真屋を辞めた頃にはカメラを見るのも触るのも、はたまた写真雑誌を見るのもカメラ店に行くのも厭だった俺。以前はもう2度とニコンやキヤノンのカメラになんか触ってやるものかと思っていたのだが、仕事で必要上写真を撮るようになると、途端にそれらが気になって仕方がないのである。このサイトも一応写真関連ということを標榜しているから何とかしなければなるまいとは思っていたのだが、それも生理的な嫌悪感には敵わなかった。しかし、自分が仕事として写真を撮らねばならない立場に置かれるとそれが急に変わったのである。イスラム教徒がキリスト教徒に回心するかのような勢いで、近頃の俺はカメラのとりこになっているのである。
思えば俺の写真史は抑圧の連続だった。そんなことを言えば読者の皆様には何様だと思われるかも知れないが、撮りたい写真とそうでない写真の狭間、そして伝統的な徒弟制度の残る写真界の因習に捕らわれてきたというのが正直なところである。もちろん、それを打開するチャンスはいくらでもあったという事は申し添えておかねばならない。しかしながら、やはり伝統的なフリーカメラマンの世界―誰かの弟子になり、そのコネをもって仕事を取る―というシステム、そして現像が上がるまで誰にも頭が上がらないカメラマンという職種に俺は無理を感じていたのだ。だが、デジタル化が進む昨今ではどんなに写り込みの激しい光り物でも、どんなに動きの激しいスポーツ写真でも、後から補正すれば、あるいはフィルム代を気にせずにガンガン撮りまくれば何とかなってしまう時代である。昔、「報道カメラマンはネガカラーで撮ってるのね」と密かに嗤っていた俺なのであるが、今では総デジカメ時代である。どこかにも書いたかもしれないが、先日某政治団体の記者会見に行って驚いた。新聞社のカメラマンが両肩に一眼レフデジカメをぶら下げて、片方には80〜200ミリ、もう片方には17〜55ミリを装着してもうバチバチバチバチ、撮った直後に上がりを確認しながら余裕で撮影していたのである。俺はこの光景にカメラマンという職業の終焉、そして誰にでも開かれた写真の時代の幕開けを感じたのである。フィルム上に刻まれた潜像を現像液によって現像し、小さなネガ(ポジ)の上に表現するという魔術めいた写真の時代はすでに過ぎ去ってしまって、本当に誰もが「明るい暗室」を持ち、好きなところで好きなように写真を撮ることの出来る時代の到来を肌で感じたのである。職人芸や物理や化学を抜きにして、ただただ結果(=仕上がり)だけで人に訴えかけることの出来るデジタル写真は多くの表現者にとっての福音だといえるだろう。
だからという訳ではないが、俺は幾分写真に対して気軽に接することが出来るようになった。残念ながらデジタル一眼レフはまだ入手していないのだけれど、ネガカラーや小型デジカメで仕事の写真を気軽に撮っている今日この頃である。あのカラーポジ(リバーサル)フィルムというのは刹那的すぎる。諸国の人々はどのように感じるのかは知らないが、ここには武士道とかハラキリとか根性とかのイメージがつきまとう。何しろあの絞りリングがほんの1目盛りずれただけでカメラマンが職を失ってしまうという懐の狭さである。1ページ全面だとか、よほど精密なブツ撮りでもない限りネガカラーで十分なのである。近頃の印刷技術は長足の進歩を遂げており、L判の紙焼きでも十分な仕上がりを見せてくれる。そのコントラストの低さ(=ラチチュードの広さ)は下手なリバーサルで撮るよりも好ましいというものだ。まあ、会社がリバーサルフィルムをホイホイ買ってくれればそちらで撮るようになるのかも知れないが・・・。
初めの話とはずいぶん離れてしまったが、最近やっとカメラに対する物欲が目覚めてきたというお話なのであった。しかしまあ、金のかかる趣味ばかりで大変だ・・・。
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