日々の会社への往復に慣れてくると、ふとした瞬間が愛おしくなることがある。梅雨をすっかり忘れた7月の空はすっかり夏模様で、路傍の自動ドアから漏れてくる冷風が心を和ませる。つい5ヶ月ほど前までアジアの風に吹かれてふらふらしていた男が、今では背広を着込んで満員電車に乗り込んでいる事を、俺自身が嘘くさく感じる日々。路上を満たす雑多なエネルギーはこの国にはないけれど、誰もがみなスーツの下に野望を抱いている。空調の効いたオフィスを一歩出れば、そこにはアジアと同じ風が吹き抜けている。
そんな今日この頃、俺はスーパーマーケットの風が好きになった。入ればまず涼風が体を撫で、色とりどりの野菜が目に飛び込んでくる。そのまま歩みを進めれば、奥では肉に魚、総菜の饗宴が繰り広げられている。店内の外周をひとまわりして、迷路のような乾物売り場や日用品売り場を見れば、一つとして同じもののない意匠をほどこされた商品が並んでいる。売り場ごとに違う匂い。棚の下段に並べられた、とりとめのない商品まで一つ一つ手にとって玩味したくなる。特に、昼下がりの人影まばらな店内では存分に贅沢な気分が味わえるだろう。あたかも自分のためだけに冷房が効き、冷凍ケースが動き、目の前の商品たちが並べられているような気さえするからだ。
アジアの、あくまでも生々しい市場とは対局にあるこの空間はまるで飯事(ままごと)のようだ。120円のジュースを1本買うことですら、ここに勤める人々は丁重にもてなしてくれる。そして、行儀良く並べられた商品たちはすべて手に届くところにあり、人間の良心に信頼したシステムが俺を感激させる。かの国々にもスーパーはあるが、日本では首都クラスのサービスがどこででも得られるのである。この「嘘くささ」。どんな階層の人でもふらりと入ることができ、同じ顔をして買い物が出来るこの素晴らしさ。帰国後5ヶ月経つというのに俺はこの感激をまだ引きずっているのだ。
確かに、つまらないことだろう。しかし、冷静に考えればこれは物凄いことではないか。どんな場末の駅で降りようともそこにはコンビニやスーパーがあり、その中では津々浦々で同じ景色が繰り広げられているのである。そうしたことを嫌う向きもあろうが、ここは確かに日本人の心の宿なのである。そんな事を考えながらスーパーに行くと、この国に生まれた良さと悪さが身の上にのしかかってくる気さえする。均質化された食べ物を日本中の人々が似たような場所で買って、食べるということ。もしかしたら、俺がスーパーに感じる感激というのはそのボンデージ感にあるのかもしれない。そういえば俺は無類の制服好きでもある。
誰もが同じものを食べ、同じ服を着ること。そこにおいては何も考える必要はない。個性個性と言うけれど、個性ははっきりいって疲れる。それなりの代償を必要とするものなのだ。制服を着なければヤンキー扱いされるし、やたらと自然食品だなんだと言い出せばプロ市民やら健康オタクとの烙印を押されかねない。もしかしたら、俺がスーパーに感じる感激というのはその思考停止の快感なのかもしれない。
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