玩具というものは、現代ではすべからく大人から与えられるものとなった。身近にある土や砂、木の枝や葉を玩具にしていた時代はとうの昔に過ぎ去ってしまって、今では公園の砂場にその痕跡を残すのみとなってしまったようだ。
日曜の朝である。子供向けの(一部の大人向けでもあるだろうか)特撮モノやアニメ番組を何の気はなしに見ていると、最近の玩具の高機能ぶりに驚くことしきりである。液晶画面がついていてメッセージが出るのは当たり前だし、どういう仕組みになっているのかは分からないが、カードをスキャンすることによって他の人と闘える仕組みになっているものも健在だ。自分も高校生の頃に、他人の「バーコードバトラー」で遊んだ覚えがあるのだが、現代のそれはより進化しているように見える。どれもこれも、自分が子供の頃にこれがあったら楽しかっただろうなと思わせるものばかりだ。
実際、そうした玩具を送り出す側もそうした思いで開発にあたっているのだろう。特に男子は何だか分からない、未知の機械が大好きである。コンピュータを感じさせたり、やたらと電飾が光っているものにはとくに弱い。ロボットが出てきたり、何らかのデバイスを用いて変身する類のドラマやアニメが決してなくならないのもこういった事情からだろう。そして、言うまでもないことであるが電子機器の機能と価格は彼らの子供の頃に比べて長足の進化を遂げた。だから開発者たちは子供の頃の夢をその中に盛り込もうとするのである。はたから見れば、まるで自分の子供の頃の夢をそこに賭けているかのようだ。実際、そう考えて玩具業界を志す学生も多いのだろう。
しかし、それが儲け第一主義になっていないかと懸念する気持ちが俺にはある。どんどん高機能化・高価格化が進む現代の玩具は、むしろ大人のビジネス目線で作られているような気がするのだ。もちろん彼らとて商売である。大人たる卸売り業者に受け、大人たる購買者に受けなければ当然商売は立ちゆかなくなる。だが、これは玩具のみならずテレビアニメやインターネット業界にも言えることだろうが、最近の子供の文化はある商品に基づいて形成されてしまっているように見えるのだ。これは玩具に限らず、服装や文化にもわたることだと思う。子供服は単価が高く、買い換えの需要がすぐにやってくるから、いったんブランドイメージを形成してしまえばしばらくは堅い。携帯電話キャリアは子供達のメール好きにつけこんで売り上げを伸ばした。そして玩具は、新しいアニメが出るたびにその姿を変えてゆく。こうして時代に追随してゆかなければ新しい市場が生まれないからである。折しも子供が少なくなる一方の現代である。大人も欲しがりそうな高級玩具で一気呵成と行きたい気持ちは分からないでもない。
しかし、である。大人が欲しくなる玩具は本当に子供にとっても欲しくなるモノなのだろうか?まあ当然流行りのアニメのキャラクターモノならば堅く売れるのだろうが、それとて子供社会のくだらぬ横並び意識を煽っているだけなのではないかという思いがよぎる。「学研」の定期購読をしていないからだとか、近所が一斉に騙された訪問販売の教材のオマケを持っていないからだとかの今思えば本当にくだらない理由でからかわれた覚えが俺にもある。ああした最新の玩具を、何とも思わないが「世間体」のために「欲しいと言ってみる」だけの子供がいないとは思えないのだ。事実、俺自身がその手の子供だったから。
はやりすたりのない玩具。時間を超えた「汎用性」のある玩具。大人のノスタルジーでやらされるベーゴマやメンコではない、現代の子供達が欲しがる本当の玩具とは一体何だろうか。教育者がいかにも好みそうな木製積み木なぞではない、本当に子供の創造性を養う玩具とは何だろうか。全く畑の違う俺だが、ふとそんなことが気になる日曜日なのだった。
先週は、インターネットが子供に与える弊害についての話をした。それ以来子供をめぐる社会が気になって仕方がない俺である。俺の職場はご存知お茶の水なのだが、夜8時過ぎになると例の「N」マークの入った鞄を背負った子供の群れに遭遇するのだ。残業で10時前になった時にも、「N」マークの群れは丸の内線に乗っている。そして俺はカッターナイフを握った彼らの姿を想像する。これはどちらにとっても不幸な状況だ。どうもしばらくは、この問題から離れられそうにない。
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