またしても、インターネットで、しかも小学生が死ぬ事件が起きた。もはや説明の必要もないだろうが、例の長崎での小学生同士での刺殺事件である。小学生同士での刺殺事件というショックの大きさに加え、その引き金となったのがネット上でのチャットとテレビドラマであったという点がマスコミの興味をそそっているこの事件だが、俺としては「何が情報教育だ、メディアリテラシーだ」と言いたい気持ちである。
俺が以前から言ってきた「物心ついたその瞬間から、目の前に携帯やパソコンがある」世界の悪影響がここに噴出しているのだ。彼らは授業中に紙の切れ端に手紙を書くスリルも知らないし、下駄箱にラブレターを忍ばせる体験も不要。ただただ携帯に向かい、あるいはキーボードに向かい、思いの丈を綴るだけでいい。ここにおいて文章を書くという行為はクリエイティヴなものに見えるかもしれないが、それは違うだろう。「話す」ということの代替として書かれる文章はしばしば粗雑で、口語をそのまま文字にしているだけにすぎないのだ。考えに考え抜かれた「文章」とは違い、そうしたメール文には口語と同じような「失言」が混じりやすい。しかもそれらは忘れようにも忘れられない記憶装置に残ってしまうのだから恐ろしいことだ。時間が限られているチャット上や、文字数を多くしすぎると余計な料金がかかる携帯メール上では尚更だろう。
過去において、書かれた文章は必ず本人の手によって―あるいは郵便配達員の手によって―読み手の所に伝わっていたものだが、現代のネット社会ではその文面が相手のデバイスに侵入してゆくのである。時と場所を選ばずに、自分のデバイスに侵入してくる言葉には手書きのものとはまた違ったインパクトがあるだろう。ジャンクメールに埋もれてやってくる友人のメール。玉石混淆の掲示板の中にふと見つける、自分に関係のあるトピックス。インターネットというきわめて公的なメディアの中を泳いでくる自分宛のメッセージに対して、人は手書き以上の過敏さで接するのではないだろうか。生活に役立つ情報や最新のニュース、そして好きな趣味の情報を得られるネットは、現代の我々にとってテレビや新聞に相当するメディアになった。ネット上の情報は100%信じられるわけではない、というのは周知のことなのだが、やはりネットで得るものに対しては「自分だけのお得な情報」という意識がある。そこに自分に対する誹謗中傷が流れていたら、激高してしまう気持ちも分からぬでもない。しかもその相手はすぐそばに居たのである。誰にでも読むことのできる場所で、知っている者が自分の事を中傷している―犯人にとっては、自分への中傷が新聞に載ったのと同じくらいのインパクトがあったのかも知れない。
中学生や高校生が携帯でメールを打つ光景はもう珍しくも何ともなくなった昨今だが、まさか小学生が自分のホームページを作り、そこでチャットまでしているとは思わなかった。こんな事を書いたら若い人たちに笑われるかもしれないのだが、これは事実である。学校でパソコンの使い方を教えているということも聞き知ってはいたのだが、まさか(男子ではなく!)女子小学生が自分のホームページを持つ時代に突入していたとは。俺が刺殺という事実の次に驚いたのはこの点においてである。俺が小学生の時分には30万近く出してもCPUが8ビット、クロック周波数は8メガヘルツ、通信速度は1,200ボー(baud,BPSと同義)に過ぎなかったパソコンが今や女子小学生にも簡単に扱えるのである。パソコンにはまり、ホームページ作成にはまるのは全て男の所業だと思いこんできた俺の浅はかさを実感している次第である。しかもチャットまでするキーボードさばきなのだそうだから、これも偏に情報教育のたまものなのだろう。
しかしである。年端もゆかぬ小学生が「手書き」「手渡し」というステップを省略していきなりチャットに訴えるのは好ましくないと思うのだ。もちろん、俺も小学生の時からパソコンを使ってきた人間なのでパソコンを使うなと言えないのだが、近年の技術の進歩は人間の進歩より遙か先を行っている。明らかに個人のキャパシティーを超えた情報が若い頭脳に侵入してきている。このことを冷静に考えなければならない時代になったと思うのだ。もちろん、世間に出ればどうしたってパソコンくらい使えなければどうしようもない時代なのだが、だからこそ小学〜中学時代には少しパソコンから遠ざけてやった方が幸せなのではないだろうか。それでは遅すぎるという意見もあるだろうが、そう思う家庭では自己責任で、学校に頼らずに教えてやればいいのである。事実、日本の優れたIT技術は義務で教わる以前の人々が生み出してきたのだ。好きこそものの上手なれ、である。
メディアリテラシー。メディアを利用する技術や、伝えられた内容を分析する能力と言う意味の新語だが、これを鍛えるにはまず、様々な新聞や文章を読み込んで日本語そのものに慣れておく過程が必要だと思う。そして、実際に話をして、目の前の人間が自分の言葉によってどう動くかということを知った上でなければ言葉の善し悪しは分からないのではないだろうか。実際にパソコンに触れさせる以前に教えるべき事はたくさんあるのだ。第2、第3の模倣事件が起こらないことを切に願う。
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