新しい仕事に就いて1ヶ月が経った。俺にとって、毎朝1時間も列車に乗るなどというのは学生時代以来のことである。もっとも、前々職―カメラマンアシスタント時代―にはもっと遠い移動を強いられることも多かったのだが、毎朝毎朝同じ所に1時間かけて通うのは初めての経験なのである。
毎朝同じ列車に乗ると、車内の人間模様が見えてくる。しかし人間模様といっても、毎朝出会うこの人はどうだとかいう話ではない。そこに立っていると、今まで意識しなかった「階級」というものを意識せざるを得ないということを書きたいのだ。一応、日本には身分の差は存在しないと言われているが、やはり人間の間にはそうした差が―どこにも明文化されては居ないけれども―ある。インドやその周りの国に行って身分の差を目の当たりにしてしまったからかも知れないが、人の身のこなし、身なり、そうした部分が近頃気になって仕方がないのだ。あるいは、ろくに言葉の通じない国での経験が俺をして人の外見を見るように仕立ててしまったのかも知れない。ああいう国では服装イコール身分という暗黙の了解があるから、旅行者はいきおい物売りや宿の人間の服装で信用できるかどうか判断するようになってしまうのだ。それに、カタコトの英語を使う時には出来るだけ怪しくない人に話しかけたいではないか。少なくとも、英語が分かる人でなければ込み入った用件は伝わらない。そんな視点を日本に持ち込んでしまった俺は、果たして汚い人間だろうか?
隣の男は、オメガの腕時計を着けている。
後ろの女のファイロファックスは、メモと領収書ではちきれんばかり。
年端もゆかぬ小学生が、高そうな制服を着てドア脇の手すりに掴まっている。
ボタンの黒い学ラン姿の高校生の白いイヤホン。その端はiPodに繋がっていた。
ふと見回すと、背広の男の半数は日本経済新聞を読んでいる。
俺の乗る列車が、いわゆる通勤のピーク時間より少し後だという事も関係しているのかも知れない。俺の会社の定時は朝9時30分だから、(でもって終了は18時15分である)いきおいそういう高級感溢れる人たちが乗り込んでくる可能性もあるだろう。重役出勤でいいのか、それとも会社の近くに頑張ってマンションを買ったか。しかし、その人混みに揉まれれば揉まれるほど上とは逆の例も目に付いてきて、俺は居たたまれなくなるのである。
逆の例というのは、あえて書かない。誰にでも分かるだろうという思いもあるが、その例を頭に思い浮かべて書く過程を俺は経験したくないのだ。その両者をきっちり峻別する権利は俺にはないだろうし、それこそ書いてしまえば、俺は本当にどうしようもない人間になってしまう気がするから。
人は外見だ、という言葉も真理、人は外見ではないという言葉もまた真理である。それに、庶民でも「一点豪華主義」で決められるというのは日本の素晴らしい部分で、誰がどんな店に行っても金さえ積めばそうしたものを売ってくれるという事は本当に身分制度のある国ではあり得ない事だ。そうした意味で日本は本当に恵まれた国なのであるが、いざ街を歩き、人混みに揉まれて感じるこの違和感は一体どうしたことなのだろう。
窪塚洋介なみにラブアンドピースを語ることはしないが、もう少し世の中何とかならないかと思う昨今である。完全な平等は欲しくもないし、むしろ害悪かも知れないと思うのだが、せめて誰もが涼しい顔で歩ける世の中になりたいと思う。などと、年金未納問題を伝える新聞を読みながら通勤しつつ思ったのであった。
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