第219回
やっとこさ就職が決まったかと思えば今度はやたらと物入りで困っている俺である。旅立つ前に服はほとんど処分してしまったし、財布もいいかげんボロくなってしまって、とても使えたものではない。会社にいれば取引先なんかから適当に回ってくる手帳なんかも自腹で買わなければならないし、痛し痒しなのである。昨日も無印良品で3万円も使ってしまったわ・・・。「何で無印なんよ?」というご意見もあろうが、バカの一つ覚えとは俺のことである。ア○キや青○でスーツを買うよりも何だか少しはセンスがいい気がするし、ネクタイもハンカチも少しは若向けである。なにより同じような趣味のものが1件で揃えられるというのが面倒臭がりの俺にはうってつけなのだ。そんなわけでスーツも鞄もネクタイもワイシャツも財布も名刺入れも全部無印男になってしまった俺。これってやはり見る人が見れば分かってしまうものだろうか? 履歴書15通、書類審査で半分ほど戻って来、3社目の面接で受かったのが月曜から行く会社である。歯学専門のマニアックな出版社。もうとにかく「出版」と名の付くところに見境なく応募したらそうしたところにご縁が出来たというわけである。神田あたりの専門書店か医学部の売店にしか並ばないような書籍・雑誌の会社なのでこちらの読者の皆様には恐らく縁がない世界で寂しいのであるが、ひとまずこれで俺も出版業界の末席を汚せることになったというわけで・・・。まあ所属は新聞部門なのでアレなのだけれど、こんな破天荒な経歴の俺をよく1発で採用してくれたものだと思う。 その会社の面接で、言われるがままに最上階の社長室に通された俺である。「え?いきなり社長が面接なんすかぁ?」というツッコミを入れる間もなく俺史上最ゴージャスな社長室にチン入。どうせ総務部かなんかの隅で面接するんだろうとなめ切っていた俺は大いに度肝を抜かれた。今までの面接は雑居ビルのワンフロアのみの会社だったのだが、このビルは8階建てで自社ビルらしい。その外観だけでもビビリまくっていたのにいきなりそこの社長が出てくるとは・・・! で、その社長氏は俺を椅子に座らせるなりこんな事を言ったのである。「えー、ここの代表の○○○です。はい、んー、新しい人を入れてもすぐ辞めちゃうことが多いんですよね〜。こないだも一人、丸一年勤めたところで辞めるって言ってきたのがいるんだけど、そういう事をされると僕も憮然としちゃうんだけどねー。」仕事内容の説明の前にとっても衝撃的なお言葉!でもそこそこちゃんとしていそうな会社だし、一体何が問題だというのか?俺、エレベーターがついてる会社になんか勤めたことないんですけど!?「うん、僕もあなたを一生拘束するつもりはないのです。ここで経験を積んでもらって他の出版社に行くのも居るし。でも最低3年間は居て欲しいな〜。」いや、むしろ一生拘束して!「ボーナスも年間3ヶ月出すし、給与も慣れてくれば25は出すし、出版健保にも入ってるし・・・」俺が口を出す間もなく15分ほど1人で喋り続ける社長。聞けば聞くほどこの時世としては好待遇なのである。年間3分の2ヶ月しか貰ったことないです。ボーナスなんて。しかし聞いているうちに、それらの言葉の意味が分かってきたのである。「はっきり言ってうちの本は内容がつまらないから。それで辞める人が多いわけ。これは経験者でも未経験者でも、歯学の本というのは用語を覚えるのに1,2年かかるから、それまで我慢できる人でないと云々・・・だからうちは未経験者でもとりあえず積極的に採用するんです。」というわけ。どうも職場の環境や待遇がアレなのではなく、仕事自体のマニアックさが仇になっているようなのであった。聞いていると、その社長はむしろ社員に気を遣っている風でさえある。というか、まだ入社もしていないのに採用された人向けのような説明を延々してくれるので恐縮してしまった。 そして面接の締めにはこう言われたのだった。「では今日の面接の結果を見て、今度は若い連中にもう一度会わせますから」。と。2次面接にはいい思い出のない俺である。この社長との会話はそこそこ実のあるものになったとは思うのだが、今度はどんな事を訊かれるのだろうか・・・。俺はその日以来会社からの電話を待ち続けた。こうした結果待ちの間には求人情報誌を読んでいても気はそぞろである。ああでもない、こうでもないといいながら結局妻の実家でゴロゴロして過ごしていたのだが・・・。昼下がりに、携帯電話が鳴る。2次面接に進めるか、否か。「あー若林さんですかー。あのー、採用したいということになりましたので、入社日はいつからがよろしいんで・・・」何ですとー!2次面接はどこに行ってしまったのだろうか。あまりに話が巧く行きすぎる。しかしこれも何かの縁である。社長曰く、「採用は1名、もしいい人がいれば2人採ってもいいかな〜、と。」とのことだったので、もしかしたらおこぼれを頂戴出来たのかも知れない。事実、面接で言われていたインプラント(入れ歯ではなく、歯の骨の部分にネジで埋め込むタイプの「差し歯」ですな)の月刊誌ではなく、業界総合の新聞の方に配属されたからその可能性は高いだろう。 ともあれ、明日から435日ぶりの会社員生活が始まるのだ。435日・・・過ぎてみればあっという間の蜜月時代であった。最中に倦むことはあっても、勤めている間には絶対になし得ない経験を積むことが出来た。勤めてしまえば、時間の流れはもっと速く感じられることだろう。速く過ぎ去って欲しいという時間が続かないようにと今から祈っているところである。 |