第217回
昔の友人が俺に2億円入りの通帳を見せつける、という夢を見た。そんなものを見せられたら現実世界では憤激と賞賛の渦巻く修羅場になるのだろうが、夢の中の俺はその事実を至って冷静に受け止め、その友人の肩を優しく叩きながら何かソフトな台詞を吐いたのである。我ながらひがみっぽい夢だったので、今朝の寝起きは大いに悪かった。 金を拾う夢なら昔からしばしば見ている。何でもない通りに札束がギッシリの財布を見つけたり、気づくと何だか大金持ちになっていて、夢の中なのにやけにリアルに損得勘定をしながら(半分目覚めてさえいるかもしれない)金を遣うという夢なら枚挙にいとまがない。しかし他人(親しかった友人なのだが)の金持ちぶりを傍から眺めるという夢は初めてだったのである。自分が偶然拾ったりした金なら全然惜しくもないのだけれど、他人がこんな大金を持っているぞ、という夢には全く救いがない。自分の中に新しい思考パターンが生まれてしまった事がこんなにも悔やまれる事だとは思わなかった。まあ何度も見たくない夢であることは確かである。 1万円を10枚集めれば10万円になり、その束を10枚集めれば100万円。で、それを10個束ねれば1000万円。小学生にも分かる単純なかけ算だが、それを自分の目の前で実現させるのは至難の業である。先日、某100円ショップで「おかねもち」という名の「子供銀行券」セットを見かけて思わず笑ってしまったのであるが、そのおかねもちセットを手に入れて悦に入る位のことしか今の俺には出来ない。それからベトナムやインドネシアなどの貨幣価値の低い国に行って、少し細かい紙幣に両替してもらうのも一案だ。1万円も両替すればすぐに100枚からの札束を受け取ることが出来る。まあ、すぐに空しくなるのがオチだが。 ところで、実際にウン億円もの貯蓄を持っている人も他人の金持ちぶりを夢に見ることはあるのだろうか。持てば持つだけ欲しくなるのが金だといわれる。金だけはいくら持っていても損をしないものだとも言う。残念ながら身近にそうしたリッチマンがいないので確認のしようがないのだが、多分、彼らも我々庶民と同じようにもっと欲しくなるのだろう。何をどのようにすれば億単位の貯蓄が出来るのか、凡人の俺には気付くことが出来ないのだがきっとそうした人々とて初めからいきなり億万長者になったわけではあるまい。欲しい欲しいと思い続けることで(そしてそれ相応の仕事をした上で・・・?)彼らは億万長者になったのだ。彼らにはその通帳を庶民に見せつける権利がある。異論はあろうが、これが俺の中での結論である。もちろん公明正大な方法で集めた金でないのならそれは糾弾されるべきことだが、かつての城南電機の社長(懐かしい・・・読者の皆様は覚えておいでだろうか)のように常に全財産をアタッシュケースに詰めて持ち歩く姿はある意味正しい。後ろ暗い金ならああして世間にアピールすることは出来ないだろうから。 そして今週も相変わらず無職な俺がここにいる。返ってきた履歴書は数知れず、3週間ぶりに電話をかけてきた会社からは「欠員が出来たら呼ぶ」とのご託宣。勿体ないからと履歴書の写真を剥がして再利用しようとするも、RC印画紙は無惨にもベースだけを残して破れてゆく。2億円の夢。おかねもちセット。そのどちらも、無職なるが故に心に響く何かがあった。 |