恍惚コラム...

第213回―アジア篇 第13回(最終回)

 今年の正月はプノンペンで迎えた。昨年の春先に出会った旅行者に「正月は、どこで迎えるんですか?」と訊かれた頃には正月などまだまだ先と思っていたのだが、過ぎてみればあっという間である。まったくあてにならない日程の中、予想通りプノンペンで迎えた正月。この辺りの仏教国の常として、別に1月1日は珍しくも何ともないといった様子なのですっかり拍子抜けしてしまったのである。交通機関も、市場も、役所や銀行さえ平常営業の元旦。唯一の救いは宿のお姉さんが「Happy new year!」と言ってくれた事だけ。こんなに風情のない元旦と言うのは逆に有難い。「ゆく年くる年」を見てしまえばあとはつまらない正月特番をたれ流すテレビを見ているよりも、この国ならではの喧騒の中を歩く方がよほど有意義に思えた。そう、俺達のカンボジア滞在は2003年の12月28日から始まったのである。

 ホーチミン市からプノンペンまでのバスは7時間。ベトナム側の韓国製バスに乗せられて国境を目指すのは至極安楽な作業だった。社会主義国家らしく隅々までアスファルトで固められた道路は、国境のまさにその目前まで平坦であった。カンボジアという国はいかにも(偏見だが)物騒な国という印象を持っていたのだが、こんなにも簡単にそのカンボジアにアクセスできるという点がかえって気持ち悪い。だがしかし、ベトナムを出る時にはちょっとした苦労があったのである。

 荷物検査?フリー。ビザの期限?問題なし。ただしかし、出国スタンプを押してもらえるまでに果てしなく時間がかかったのである。で、そんな中並ばずにスイスイ通過している人の方を見ると、当然のように賄賂が横行している・・・。国境には賄賂がつきものだという話をかねがね聞いてきたが、ここまで堂々と遣り取りされている現場を見るのは初めての体験だった。役人は自分から賄賂を寄越せとは言わない。その代わり、行列を傍らから見守る民間人風の男が「5ドル、5ドル」などと旅行者に囁いてくるのだ。その間も税関職員の動きは極めてスローモー。ちょっと台帳に書いてスタンプを押せば済む仕事なのにひとりあたり3、4分はかけているのだ。しかし、ドル札が上に乗せられたパスポートの取り扱いは小憎(こにく)らしいほど迅速。まあそれでも、賄賂を払わなければスタンプを貰えないわけではないと信じていた大勢の旅行者は1時間ほどを暑い中辛抱し、ベトナム公務員の綱紀粛正の為に働いたというわけである。本当にこんなに働かないイミグレを見るのはこれが初めてだった。

 500メートルはあろうかと思われる緩衝地帯を歩くとそこからがカンボジア領・ポイペトである。建物がいきなり貧相になるのは覚悟していたが、あまりに露骨であった。街中のジュース売りか何かと変わらない建物で制服の役人が仕事をしている景色はベトナム側からすれば結構な落差。しかし役人の態度は全然問題なし。ベトナムから来たせいもあるかも知れないが、時々ほほ笑みなども交わしながらスムーズに入国することが出来た。ありがとうカンボジア!

 カンボジアの道路というのは昔から旅行者の間で語り草となっている。曰く、悪路。欧米人はジャンピングバスと呼ぶのだが、カンボジアのそれは半端ではないという話をかねてより聞いていた。まあ、チベットやインド、そしてミャンマーの悪路を体験してきた俺達である。大抵の悪路では驚かないぞ!と思っていたら、本当にスムーズだったのである。もう座っていても頭をぶつけるようなモノスゴイものを想像していたのだが、これがまあヘタなインドの田舎の道よりよっぽど綺麗。舗装はほとんどされていないのだが整地がよく出来ているので期待?したほどの揺れではなかったのだ。見ればいままさにその舗装工事の真っ最中で、至る所にショベルカーやロードローラーによる作業の現場に出くわした。まあ冬の乾期だったことも幸いしたのだろう。雨期には陸路が使えない場合もあると聞く。後述するシェムリアプ〜バベット間はそれなりに、マニアにも満足できる?悪路っぷりではあった。しかしこれなら普通のお客様でも安心してお乗り戴けます。日本人も欧米人も結構居たし。

 カンボジアの景色―赤土色の中に時々見える水田。そして高床式住居。高床式住居が立ち並ぶのはラオス以来の眺めである(ベトナムにも地方にはあるのだが)。いかにも涼しげ(暑いんだけどね)な景色のなかを子供達が豚や鶏と一緒に走り回っているのを眺めていると、子供達が物欲しげな、人懐こい視線をすぐに返してくる。今まで見た国の中で、子供がいちばん屈託が無いのはこの国でではないか。そして地平線に点在するヤシの木―そんな景色を眺めていると、船はフェリーに載せられた。何という河かは正確には不知だが、これはバングラデシュ以来の体験である。しかも今度は夕方だったので、その一部始終をしっかり見る事が出来た。船が載ると、すぐに甲板に出てゆく旅行者達。物売りやら農民やらにまみれながら夕方の川風に当たると、気分はすっかりカンボジアネイティヴである。せがまれるがままに、物乞いの子供に空きペットボトルを渡すとこれ以上ない笑顔が返ってきた。

 お約束の客引きがバスに乗り込んできて宣伝を始めると、もうプノンペン市街も近い。このバスは有名な旅行会社が主催しているものなので当然なのだが、懇切丁寧な英語でしきりに自分の宿の素晴らしさを訴えかけてくる。そうまでしなくても、オタクの宿の前にどうせバスを停めるんだろうから、そんな一生懸命にならなくてもねぇ・・・などと考えながらパンフレットを見ているうちに、バスはその宿の前に横付けされた。

 時刻は午後7時を回っていただろうか。すっかり暗くなった街を眺めながら俺達はその宿に投宿した。ホットシャワー付きで10ドル。そこそこ広い部屋なのに照明が20Wの螢光灯1本なのが辛かった。他の旅行者もほとんどがその系列の宿に飲み込まれて行った模様。一網打尽とはまさにこの事である。プノンペンには俺達のような境遇の旅行者向けの宿はかなりあるのだが、どうも見ていると繁盛しているのはここだけのようだ。こういう宿にはあえてアンチを唱えたい俺達なのだけれど、始めての国の夜に横付け攻撃では手も足も出ない。で、結局ここに1週間居ついてしまったのであった。

 プノンペンの街は予想を裏切る発展ぶりだった。スーパーマーケットはラオスあたりのそれより立派だし、信号機もかなりの本数がある。「CALTEX」のガソリンスタンドにはいちいちコンビニっぽい店が併設されているし、中心部には5階建て程度の建物が密集していた。何より嬉しいのは華人経営の中華料理店で、こういう店では本場さながらの水餃子や麺が食べられるのであった。電力事情も全く問題ないようで、ネオンはビカビカ、エアコンが効いている店も珍しくなかったのである。

 だが、一歩路地に入ると未舗装の道だらけなのは、首都の景色としては始めて見るものでああった。世界はまだまだ広いので別に珍しいものでもないかも知れないが、幅の広い道路はきちんと舗装されているのに、一歩路地に入ってしまうと図ったかのようにスッパリと舗装が途切れてしまうのは珍しく、語弊はあろうが滑稽である。この国の人もベトナムや周辺諸国と同じようにバイクを主な生活の足にしているのだが、こうした路地での彼らの運転ぶりを見ていると感嘆させられることが多い。スイスイと舗装路を走ってきて、一歩路地に入ってしまえばそこはモトクロスの会場さながら。それを普通のバイクで巧みに、涼しい顔で走ってゆくのには恐れ入る。ちなみにバイクはタイ製のホンダやスズキの100、125CCが主。日本では125といえばモトクロス仕様か大型スクーターといったカテゴリーに入るものだが、ここでは普通のカブをベースに、オシャレなカウルを付けたミッション(マニュアル)車が主である。俺自身は日本国内でもスクーターなどには乗った事がないのでそれらのバイクの乗り心地を云々することは出来ないのであるが、少なくともこんな悪路で乗るべきものではないことでは確かである。しかもノーヘルで。話は前後するが、これらのバイクは始めから2人乗り、3人乗りを前提とされているようで、50ccのスクーターでさえシートは前後に長いフルサイズのものを採用している。(自転車にもリアシートと後部ステップが付いてるし・・・)これに一家4人で乗っていたりするのに出くわすと、日本では感じられなかったバイクの可能性を改めて感じる事が出来るのである(?)。

 定番の市場にも早速足を運んでみた。その名もセントラル・マーケット。そのものズバリ的なネーミングのこの市場はヘタな球場なら入ってしまいそうなほどの規模で、外観はまるで駅か何かのように見える。クメール語の小難しそうな看板を見ながら中に入るとそこには放射状に店が並んでおり、時計やら貴金属を始め、食材やら生花、衣類に雑貨などとまあないものはない状態だ。品揃えとしては特筆すべきものはないと言えるのだが、工業の余り発達していないお国柄だけあってその原産国は多彩である。中国やベトナム、そしてタイや日本からの製品ばかりが並ぶ売り場を見ていると、俺のような旅行者は「じゃぁ、少なくとも産地で買うよりは高いわけだ・・・」とうがった見方をしてしまう。実際、この国での日用雑貨はいちいち割高に感じるのだ。石鹸やら洗剤、歯ブラシに歯磨き粉・・・といった日常生活に欠かせない物が微妙に高い。この国の人々はその事実を知っているのか、否か。なかなか考えさせられる問題ではある。

 その市場では「おこげ」を食べた。食堂の集まるエリアを歩いていると、なぜか塀の上に鍋のカタチそのままのおこげを見つけたのである。どう見ても売り物には思えなかったのだが、とりあえず珍しいものなら何でも食べたがる妻の事である。早速その店に近付いて行ってそれを所望したのである。店のお姉さんも困った様子で、そのおこげではなく普通のご飯とオカズを薦めてくるのだがこちらはおこげ食いたいの一点張り。で、結局出されたのは別の鍋からこそげ取ってきたおこげ。これにネギ油をかけた物とスープが出されたのだが・・・。俺はやはり、それは商品ではなかったと断言できる。やけに安い値段からもそれは窺えた。(確か10円とか)しかしネギ油と魚醤をかけて食べるおこげは意外と美味で、これならおやつとしていけるのではないかと思ったのである。でも、いや、本当に周りの人も怪しんでたし・・・。

 カンボジアと言ってやはり外せないのはやはり件のポル・ポトが率いたクメール・ルージュの「民族浄化」の話である。手元に資料がないので詳述出来ないのであるが、3年半の間に国民の数分の1が殺されたという、世にもまれに見る大虐殺である。カンボジア国内には当時数十ヶ所の監獄と、同じく数十ヶ所に及ぶキリング・フィールド(人を殺し、埋めて処分するための原っぱ)があったそうなのだが、ここプノンペンではその「21番監獄」がトゥール・スレーン博物館として保存されており、一般の観光客にも開放されている。3ドルを払って中に入ると、まずはベッドが一つだけぽつんと置かれたいくつかの部屋。壁に掛かるのは、そのベッドの上で殺された人の写真。乾期の爽やかな晴天と、床と天井の白さが凄惨さを増す。次の棟には、殺された人々の写真が解説もなしに、ただひたすら数千点展示してある。そのモノクロの写真群は一枚一枚、死にゆく人々の表情を捉えているのだが、ここでは凄惨さは当然ながら何故、今から殺そうという人々の写真を金を掛けてきっちりと残さねばならなかったのかという素朴な疑問を感じる。偏執狂とか蒐集癖といった言葉が脳裏をよぎり、より不気味な印象を与える物であった。(元写真屋的視点から言えば、一部の写真は6×6判カメラで撮られており、フィルムはネオパンSSを使用している。撮影台として座高を測るような椅子で、頭部を固定できる物を使用していることから、私論ながら体格などの統計データを取ろうとしていたようにも見えるのであるが、如何だろうか)。もう一つの棟は独房。元は高校の教室だった所に無理矢理板やブロックでパーティーションを区切ってあるそこはひどい狭さで、この陽気の中でここに閉じこめられた人の苦悩は語るまでもないだろう。ベトナムの戦争証跡博物館のように積極的に悲惨さを訴えるのではなく、あくまでそのままの現地を見せるこの博物館にはまた別の重みの方向性を感じるのである。ちなみに最後の部屋では髑髏が棚に収められていて、その前にポル・ポトの胸像が無造作に転がされている。一つの胸像は一応、台座に載っているのだが、顔にはペンキで×印がしてあるのだった。

 そこからはまあ、市内の名所をブラブラと回る日々だった。カンボジアのビザは1ヶ月あったのだが、治安の面とアクセスの都合から、1都市1週間で、プノンペンと後述のシェムリアプだけに行こうという話になっていたから至ってのんびりである。一部が公開されている王宮を見に行ってそのゴージャスさに驚いたり、国立博物館の遺跡モノに感じ入ってみたり、あとは地図の隅っこに載っているようなマイナーな市場を攻めたり・・・である。

 こうしてブラブラしていると、次第に飽きてくるのが正直なところである。前にも書いたが、仮にも自分の意志で、仕事を辞めてまで長旅に出ているのだから「飽きる」などという言葉は禁句である。が、しかしこの頃になると2人してその「飽きた」という言葉を口にするようになっていた。旅に飽きるのか。街に飽きるのか。自分に飽きるのか。その日の気分や時間によってその比率は違ってくる。朝寝を貪って、10時過ぎに起きた瞬間には旅に飽きているし、慣れてしまった道を歩けば街に飽きている。そして長い夜。バンコクで仕入れた古本を3遍も繰り返して読んでしまえば自分に飽きる。そんな時、脳裏に浮かぶのは仕事のこと、これがやはり最大のトピックである。飽きないためには、母国で、母語を使いながら、時間を費やして仕事をする。これが人間にとってもっとも飽きない事なのではないかと、俺はこの長い旅の間に改めて思う。アジアの国々では、もうどうしようもないほどヒマそうに見えて、実は仕事をしている人々にどこでも出会うものだが、そんな彼らは自分をヒマだとは思っていないようなのだ。あちこちの宿で、「あなた方はいいわ、私は仕事があるからどこにも行けない・・・」とスタッフに言われるのだが、俺達にしてみれば彼らの仕事はとても楽に見えて仕様がないのである。カウンターにテレビを持ち込み、デッキチェアで(時には床で)昼寝して、客が来たら適当に応対して・・・。これが失礼な物言いなのは自分でも分かっている。しかし、こんなに体を休める形での自分本位な「仕事」は日本の慣習の中ではあり得ない。店員というものは客が居なくてもレジに立っているべきものだし、タクシーの運転手が後部座席でゴロゴロしながら客待ちするなんて絶対にあり得ない。だがしかし、彼らにとっては紛れもない職業。それで食べて行っているのである。少なくともここでこうしていれば客が来てお金を使ってくれる。これが仕事でなくて何と言うのか、と彼らの態度は物語っている。ゆっくりと、あくまでゆっくりと流れてゆくアジアの時間。その中に無職の身を投げ出してみる時、俺は改めて仕事の楽しみと効果を思うのである。

 シェムリアプに着いたのは予定通り1週間後の事だった。プノンペンの宿が出しているバスで6時間ほど。他でもない、あのアンコールワットを擁するこの街はカンボジア最大の観光地であり、着いた瞬間から旅行者向けの商店や旅館ばかりが目に付く。ここまでの道のりで目にした農村の様子とは180度違うこの景色に、俺は早くも違和感を覚えていた。街の外れまで行けば庶民の暮らしはあるのだが、中心街には中華・インド・コンチネンタルの各種レストランが建ち並び、土産物専用の市場まである始末。アンコールワットの凄さは分かるが、何だかこう、こういう町並みを見ていると高校の文化祭の模擬店的儚さを感じてしまうのは俺だけではないはずだ。

 宿を決めて街中に繰り出せば、トゥクトゥクマンから盛んに声がかかる。何しろこの市街地からアンコールワット遺跡群まで14キロもの距離があるのだ。当然、外人と見ればすぐに声が掛かるというもの。俺達は完全絶対に自転車で行くと決めていたので関わらなかったのだが、いったいいくらくらいするものだったのだろうか?

 カンボジアの西部に、トンレサップ湖というカンボジア最大の湖がある。ここから発するトンレサップ河はプノンペンでメコン河と合流してメコンデルタに至るという、まさにカンボジアの水系を代表する物なのだが、俺達は遺跡観光の前にそこに住む水上生活者の村を見に行く事にした。トゥクトゥクでもない、ただバイクに3人乗りさせてくれるというだけのバイクタクシーを3ドルで雇って湖岸へ。市街の道はきれいだが、段々外れてゆくに従って道も家もみすぼらしくなってゆく。「日本にはこんな道はないだろう?」と英語で訊く運転手に生返事をしていると、今度は日本語で、「ここら辺のウチ、ビンボービンボー。」と言い出した。どこの国でも水辺には貧しい人が住んでいる。土地がないからかどうかは知らぬが、道路から板を渡して水中に杭を立て、その上に住んでいる人たちの集落を通り過ぎると異様な臭いが鼻をついた。カンボジア独特の、韓国からの援助物資と思われる古着の山で市が立っている。もう蝿も寄りつかないような川魚の臭いと、増えてゆく人口を抱えきれなくなった河川のヘドロの臭いは船着き場に着くまで止む事はなく、俺達は水上の人となった。

 お約束の中国エンジン搭載ボートには船頭と妻と3人きり。走り出すとすぐに水上生活村の様子を見る事が出来た。水上でありながらその家々には蘭の植木鉢で飾られるものあり、発電機とアンテナを付けてテレビを見るものあり、しっかりと冷蔵庫まで置いてあるものまである。もっとも大多数は廃船の上に小屋を載せたような家なのだったが、こんな所にも貧富の差がはっきり現れているのだなと思った。土産物専用のハウスボートや、ワニを養殖して観光客に見せている物まであり、地上がそのまま移植されている景色であった。しばらく走って広い所に出ると、船頭が「ここいらはベトナム人の集落だ」と教えてくれた。しかし、そう言うと船頭はボートのエンジンを切って俺達ににじり寄ってくる。嫌な予感がした。やっぱり、土産物店やらワニ見せ屋に連れて行かれるのか・・・?

 案の定、「ボート代に含まれてるのはここまでの往復だけだ。ワニの養殖場に連れて行くがどうか?」と訊いてくる船頭。実はここまでで、ほんの10分しか経っていない。謀られたのか、否か。何もない湖のど真ん中。でもこういう事態には慣れきっている俺達である。正規の船代は胴元に持って行かれ、船頭自身はこうやって小銭を稼ぐしかないのは分かり切っている。俺達は仕方なく5ドルだかを払い、さっき見たワニ屋に行く事になってしまったのである。バイクタクシー屋は往復で雇っているので、あまり早く戻るのも癪だった。

 その、もう建物と呼んでも良いワニ屋は2階建てで、ご丁寧にも埠頭まで付いているゴージャスぶり。やる気のない中国顔の姉さんと、いかにもクメール人といった顔立ちの兄さんが待ち受ける店内には氷で満たされた水槽に地上の数割増しの値をつけたジュースが並び、どこにでも置いてあるような土産物が満載だ。ウザい・・・。問題のワニの生け簀を見たのだが、はいはい、ワニね。ワニですよね、としか感想しか持てないシロモノ。ほとんど動かないので全く面白くなかったのだ。しかし船頭の方はこれで俺達から5ドル貰える事が確定したのでホクホク顔だ。勝手知ったる他人の家状態で、檻に入れられたニシキヘビを勝手に取り出しては自分の首に巻き付けて遊び、今度は俺達の首にもどうだと誘ってきた。モトを取ろうとご相伴にあずかる事にしたのだが、これは結構面白かった。ビニールを思わせる質感と冷たさに、俺達はやっとモトを取ったかも、という気にさせられたのだった。湖の方を見ると、俺達と同じ境遇の?旅行者が続々と船に乗って沖へ出てゆく。あー、観光地だねぇ。これから訪れるアンコールワットへの期待を萎えさせながら俺達は帰路に着いた。

 そんなシェムリアップの街から、いよいよアンコール遺跡群へ「自転車で」行く事にしたのは翌日からの事。一口にアンコール遺跡と言っても、「―群」という接尾語があるくらいだからその範囲はとても広大である。まずは、最も有名なアンコールワット。ここに行って、見るだけで半日は軽く掛かる。その先にはアンコール・トムという城壁に囲まれた遺跡群が控え、その城壁の周りにも12世紀モノの遺跡が数十ヶ所あるのだ。到底、自力で全部見切れるものではない。で、その遺跡群への入場券は一日券が20ドル、3日件が40ドル、この先に5日券(?)とか1週間券などもあり、期間が長くなるほどお得という触れ込みなのだがいかにも高い。知っていて来たのだから逃げも隠れも出来ないし、例のインドはタージ・マハルの様に外からだけ見て済ます、と言うわけにもいかないのだ。結局俺達は3日券を買う事にして、メジャーな遺跡だけを押さえるサイクリングに出る事にしたのだ。

 街中からは迷いようもない直線の道が続く。時々現れる国王の肖像の看板を見ながら郊外型の高級ホテルをやり過ごし、現地の人に道を確かめながら進んでゆくと、路傍の椅子に腰掛けた警官にこっちだと手招きされた。見るとそこには高速道路さながらの立派な料金所が出来ていて、旅行者や地元民ドライバーで混雑している。すると俺達を日本人と見抜いた係員が近づいてきて、棒読みの日本語で料金システムの説明に入った。「イチニチケンハ20ドル、3ニチケンハ40ドル・・・ハライモドシハデキマセン。」俺達は顔写真を彼に渡し、80ドル様を払ってチケットを手にした。3日券以上は転売や譲渡を防ぐために、顔写真入りでパウチされた立派なものである。そうよね、やっぱり譲渡したくなりますよねぇ・・・。しかし券面自体はさほど複雑なものではなく、いつかカオサン辺りで偽造モノが出回るんじゃないかと思わせるものがあった。

 そこからは道路が舗装の真っ最中で、砂利道を行かねばならなかった。実はそこからが遠いのである。中国製の自転車をガタガタ言わせながらの30分。するとアンコールワットのお濠にぶつかり、道は急激に良くなってきた。これが噂のアンコールワットか・・・でもこの時点では例の尖塔は見えない。そこを左折して回り込んでゆくと、屋台やらが随分騒がしい事になってくる。観光バスが多数停められた正門付近に辿り着くと、水を定価の2倍で売りつけたりする輩が現れてめでたく到着である。予想を超える外国人だらけの光景。参道には各国からのツアー客が列をなし、時折日本語すら聞こえてくる。ああ、やっぱりここもそうだったか・・・。こういう旅路で日本語を聞くと妙に恥ずかしいような気持ちになってしまうものだが、ここには日本語が満載だったのである。参道を歩いてしばらくするとトヨタ製のトラックが作業をしていたのだが、その脇腹には思いっきり日本語で「アンコールワット救済」とゴチックで書かれているし、その現地作業員は日本語で元気にあいさつだ。うーん、困った。恥ずかしい。日本人は挨拶を返してくれないと現地の皆さんは不思議に思うだろうが、シャイな日本人の事である。カンボジアくんだりまで来ていきなり聞く日本語にビックリしちゃってるだけのことなのです。どうかご理解くださいな。

 初対面のアンコールワットである。日本では一ノ瀬泰造(この字だったか)の映画をやっているらしいこの時期、こんなにイージーに来られていいのかとは思うのだったが、まあやはり12世紀の遺跡がここまで原型をとどめているのには感激である。壁面の至る所に彫られたレリーフ、そして窓の格子にまで施された繊細な造形。尖塔の上部に至る階段は登る事を拒否するような急斜面で、もしかしたらその苦労までがデザインされていたのではないかと思わせる。(この辺りの―タイ・ラオスも含む―クメール遺跡の階段はみな急角度で大変なのだ)そこからの景色がまた圧巻で、まず何よりもそうした時代にきっちりと四角四面で破綻のない塀を築いて40メートルもの塔を建てられたものだと思わされる。相変わらず遺跡とか歴史に弱い俺なので平板な感想になるのは勘弁して頂きたい。アンコールワットもさることながら、アンコールトムの中心にあるバイヨン寺院もまたオススメである。造形の複雑さや見た目のカッコ良さはこちらの方が上だというのが俺達夫婦の見解。ウンチクが足りなくて困る俺なのだが、メジャーな観光地で、解説書なども沢山ある所だから興味のある方は是非調べてみて頂きたいと思う。

 俺達はそうして片道15キロの道のりを3日間通った。こんなに自転車を漕ぐのは高校生の時以来のことなのですっかり筋肉痛モードである。ここまでの旅で大分歩き慣れたはずなのだが、徒歩と自転車では使う筋肉が違うのだ。しかしおかげで夜はよく眠られ、だらけた旅の中でのペースメーカーとしての役割はてきめんであった。まあ、遺跡だけが売り物の街である。ここに来る金のない旅人はこうして運動不足を解消してゆくのが習わし?なのだろう。欧米人の余裕のありそうな熟年夫婦がサイクリングしている光景もまた珍しくない。それからこの街には日本人宿として有名な宿もあり、似たような感じの日本人によく出くわしたことも記しておきたい。そこには1000冊単位の日本の本が備え付けられており、沈没中の日本人が多数生息しているという。まぁ、行かなかったのだけど。

 カンボジアに2週間。居られるだろうかと思っていたのだが過ぎてみれば早いものであった。ベトナム料理にラオス風味を足したような料理。フランスパンサンドなぞをかじりながらまださほどスレていない人々の中で暮らすのは快適なものであった。カンボジアというと先述の虐殺の件や内戦の件が先入観としてついて回るものであるが、普通の旅行者として、普通に行ける所に行く分には危険はほとんど感じなかった。インフラの整備はまだまだこれからだろうが、どんどん外国人が訪れるにつれてそれも変わってくるだろう。カンボジア単体で行きたいか?と問われれば即答出来ない俺ではあるが、数々の歴史に染められたこの国を普通に個人旅行できる喜びを噛みしめるのは、訪れた者だけに与えられる特権かも知れない。

 そして俺はまたまたタイ・アユタヤーのPUゲストハウスに居る。シェムリアプを出て以来、バベット(タイ国境)→アランヤプラテート→バンコク→ナコーン・ラーチャシーマー→ウボン・ラーチャターニ→パクセー(ラオス)→チャンパサック→サワンナケート(タイ国境)→コーンケーン→スコータイ→アユタヤーとタイ東北部と南ラオスを経てやって来たわけだ。包み隠さず言えば、これはもう消化試合である。正直、東北タイ・南ラオスにこれぞ!という見どころはないのだ。(ファンの皆様ごめんなさい・・・)ただ、バンコクも快適だけど金がかかり過ぎるからねー、と言う理由で周遊してしまった次第。1年間という帳尻を合わせるためなのだが、これはこれでなかなか贅沢な体験である。それこそどうでもいい?街にフラッと行き、偶然の出会いを楽しむ。見どころがなければないで、一口では括りきれないこの広い国の地方差をじっくり感じる。そんな旅が出来るのもこの1年という縛りがあったればこそだ。

 さて、これでいよいよ旅シリーズも最後となった。執筆時点で、帰国まで13日。これをバンコク辺りでアップロードしてしまえば本当におしまい。旅先でパソコンを使い続けるのにはそれなりの苦労もあった。ある時にはコンセントのない宿に当たり、またある時には自家発電で電圧の弱い宿へ。そして移動中には重みに耐え、雨の日にはバッグが濡れて焦る。宿に電話線がないのは常識なので、CD−Rに焼いてからネット屋に持ち込む。それにしてもこんな薄手のノートパソコンが各国の悪路や高温低温、5000メートルを超える高度にまで耐えて陸海空を制覇して来られたのは偏に俺の普段の行いが良かったからだと言えよう(?)。ともあれここまで愛読して頂いた皆様に感謝しつつ、このシリーズを終わりたいと思います。まだ暫くは旅の話を書く事もありましょうが、本編はこれで〆。各国で出会った日本人・韓国人・香港人・欧米人の旅人の皆様、そして支えて下さった現地の皆様、そして最後に日本から応援して下さった皆様に心から御礼申し上げます。大変お世話になりました!

 以降、通常更新は落ち着き次第再開したいと思います。それまでは掲示板でCEOと遊んで下され・・・。
 
2004年2月5日 タイ アユタヤー PUゲストハウスにて


 

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