ヴィエンチャンの午後7時。俺達は欧米人ツーリストが満載された韓国製バスでハノイへの道のりを進み始めた。そのバスはヴィエンチャン市街の各ゲストハウスを巡回して客を拾ってゆくもので、価格は25ドル。所要時間は26時間ほど。まあ1時間1ドルといった感じなのだが、値段の割には貧相なバスであった。車内には韓国語の広告がそのままになっており、シートもずいぶんくたびれた感じ。路線バスそのままなので床下の荷物庫などもなく、後方の席には座れないほどの荷物が山積み。こうした国では1時間の道のりであれば50円程度というのが相場なので割高なのだが、やはり国境を越えて他国の首都まで乗り換えなしで行ってくれるというのは頼もしい。誰もがそう感じているのか、このバスは毎日毎日盛況の様子である。
ヴィエンチャン市街が段々と遠ざかる。もともとさほど大きくない街なのだが、夜景を見ていると急に大きな街に見えてくるのが不思議である。今まで知らなかったレストランを発見したり、意外なほどのイルミネーションで飾られたホテル群を見ているうちに急に惜別の念が湧き始めた。ヴィエンチャンには延べ6日いたのであるが、1国の首都を語るのにはやはり短過ぎる時間である。また来るかどうかは別にしても、こうして1国を離れる瞬間には淋しさがつきまとう。小渋滞をくぐり抜け、30分ほどでバスは漆黒の闇の中を走り始めた。
欧米人ツーリストはとにかく陽気というか、アクティブというか、一時も黙っている時が無い。黙っているかと思えばウォークマンを聞いているか持ち込んだ菓子を食べているし、とにかく始終どこかで話し声が聞こえてくるのである。車掌が車内の明かりを消せば騒ぎ出し、トイレに行きたいという主張もしっかり、はっきりである。われわれ日本人がメシも諦めて、トイレも諦めてじっと我慢の子でいる時、彼らは自分の欲求に正直に生きているのだ。まあそのお陰で俺達も便乗してトイレに行く事も出来たのだけど、こうして欧米人と旅をしていると文化の違いというか、個人主義というか、どこかの評論家がしたり顔で語っている事を実感できるのである。まあ彼らは世界共通語の英語を臆する事なく操る事が出来るから、というのが最も大きな理由かもしれないが。
2時間ほど走って、最初の休憩。バスはラオス側最後の夕食のためにドライブイン風の食堂へと立ち寄った。残っているラオスキープを数えながら、ラオス最後の麺を食べる。味ははっきり言って中の下といったところだったが、この国での最後という部分が調味料なのである。余談になるが、こうした長距離バスが止まるドライブインの食事というのは味の良いものが多い。ネパールでも、インドでも、ミャンマーでも・・・。そういう所は決して旅行者向けではない、地元民向けの粗末な店が多いのだが、何故だか普通の店よりもウマイ気がするのである。恐らく、居並ぶ通り沿いの店から運転手が自分の好みで行く所を厳選しているのだろう。とすれば俺達はまさに地元民オススメの店に行かされていたわけで、それならばウマイのも納得だ。それだけにこのラオス最後麺の味は悔やまれるのだが・・・。で、欧米人はこういう所のメシを断乎として食べない。断乎として、というのは言い過ぎだが、どこの国でも実際に食べ物を注文するのは少数派で、彼らは席についてもコーラを飲んだり、ビスケットをかじっている場合が多いのだ。これはもうネパールにいた頃から気付いていることなのだが、一体どうしたことなのだろうかといつも思う。彼らは移動中以外でも我々の愛用する地元民用の屋台や安食堂にも姿を見せないし、いかにも高い割に味のイマイチそうな旅行者向け食堂に入ってゆく。思えば屋台でぶっかけ飯や焼き鳥に食らいついているのって、日本人だけではないだろうか。俺などはその国に行ったらその国の味を体験しなければ意味がないと思うものなのだが、どうも彼らにしてみれば安心して食べられるのは旅行者向けの食事しかないようなのだ。
また話が逸れてしまった。休憩を終えると、バスはまた真っ暗な道を走り始める。日本の道と違い、この辺りの道は「国道何号線」という道でも街灯が無いのは当たり前である。頼りになるのは自車と対向車のヘッドライトだけ。お互いにハイビームで走り続けるのだが、行き交う車たちは文句一つ言わず平然と走り抜ける。クラクションも過剰に鳴らされるが、これはヒステリックなのではなく自衛の為なのだ。自分も免許を持っているが、とてもこんな道は運転する気にならない。アジアのドライバーたちは本当に逞しいのである。そして、そんなバスの中でも普通に眠れる自分が居る・・・。
午前3時前。バスの停まる振動で目を覚ますと、バスは再びドライブイン然とした所に停まっていた。ただし、そこはもう営業していない。トイレ休憩兼乗務員の仮眠休憩であった。ここではほとんどの乗客が目を覚ましてしまい、三々五々車外へと出て行った。辺りは一面の霧に包まれており、気温もかなり低かった。することもなく煙草を吸いつつ辺りを見回せば、看板がラオ語とベトナム語、そして中国語の3カ国語で書かれている。一瞬、もうベトナムに来てしまったのかとも思ったのだがそんな筈は無い。俺はベトナム行きへの手ごたえを確かめつつバスに戻り、再び眠りについた。
朝7時頃だっただろうか。対向車が増えてくるにつれてベトナムの国境に近付いてきた。アルファベットで書かれたベトナム語がやけに目に付くようになってくる。バスが停まり、全く案内の無いまま俺達はラオス側出国ゲートに歩く事になった。建物の中には地元民と旅行者が半々くらい。表示が全てラオ語の為旅行者は右往左往して大変な目に遭った。目立つ行列に並んではそこじゃない、と言われの繰り返し。ようやく出国審査のカウンターを見つけたのだが、ここでも要領の悪い役人がしぶしぶといった調子で仕事をしている。思えば一番愛想のいいイミグレはやっぱりタイランドのそれである。ああ微笑みの国。まあそれでも特に大きなトラブルも無くパスポートにはラオス出国のスタンプを貰えたのだが・・・。
その後、老越国境の緩衝地帯を500メートルほど歩かされる。その間の道路は泥濘の中で、淋しく建っている免税店が意外だった。こんな所に免税店なんかを開いておいて、客が来るのだろうか・・・。路傍ではどちらの国ともしれぬ人々が工事に励んでいる。
坂を上って行くと徐々にベトナム側のゲートが姿を現した。ラオス側と比べるとかなり立派な建物で、社会主義国ならではの入国審査の厳しさを思わせた。中に入るとすでに同じバスの乗客が審査を受け始めている所。陸路の国境で荷物をX線装置に通されるのは中国以来である。これが当然と思うか、はたまた意外と思うかは読者の皆様次第だが、もし日本という島国に陸路の国境があったとしたら、やっぱりするような気がするのである。でも飛行機とか列車などの密室に入るわけではないのだからいいような気もするし、ドラッグ関係はX線では発見できないだろう。でも銃とか武器系があるか・・・。(ちなみに中国では駅に入る時にこのX線検査を受ける!)
俺達が時間のかかる審査に追われている間、バスの中では乗客の荷物検査が行われていたようだ。(皆、大きな荷物はバスの中に残していたのだ)俺達が審査を終えて外に出てみると、バスの中から乗客の荷物が全て出されて地面に置かれていた。で、問題になったのが俺のノートパソコン入りのバッグ。盗難防止の為に本体にワイヤーロックをかけ、さらにそのワイヤーの端をバスの背もたれの把手に別の鍵で止めておいたのだが、これが外れないので揉めていたらしいのである。それはそうだ。盗まれないためにそうしているのだから・・・。と防犯効果を確かめた所でバスに入ろうとすると、何故か役人に止められる。自分のバッグだから自分で取りに行く、と言うにも関わらず役人は妻の方に取りに行けと命ずるのである。俺の外見って、そんなに怪しいかしら・・・。まあでも、妻に鍵の暗証番号を教えて一件落着。だが、2つ付けている鍵のうちの1ヶがこれ以来調子が悪く、先日遂に壊れてしまった。無茶苦茶しやがったなぁ・・・?
まあそんなこともありつつバスは再び走り出す。国境付近は未舗装の山道で先が思いやられたのだが、山を降りるにつれどんどん綺麗な道が姿を見せる。屋根に赤旗を立てた建物に数回停まるといよいよ中国以来の社会主義国家に来たのだなあという実感が湧いてきた。道路沿いにはいかにもなスローガン看板もちらほら見え、いかにも「赤い国」的な風情である。
しかし、このバスの運転手は元気過ぎるのか、あるいは密かに何か喰っているのか。朝9時を過ぎても11時を過ぎても朝食を摂る、ということをしないのだ。いらだつ乗客。しかしバスに乗り始めてもう13時間が経っているから、もう皆怒る気力もなくうつらうつらしていた。時折バスは停まるのだが、それはヒッチハイクで乗り込もうとする地元民の為だったり、或いはトイレ休憩の為だったり。謎だ・・・。結局朝食兼昼食を摂ったのは午後1時のこと。そしてそれからも20分ほどの休憩を数回取りつつ、バスはハノイに向けて驀進して行ったのだった。
いくつもの小さな街を通り過ぎ、ヴィンという街で数人の欧米人を降ろしたころにはもうすっかりベトナムの景色に目が慣れていた。水田時々街。そして川。亜熱帯〜熱帯に属するこの国はメコン川の恵みに育まれているという点で近隣のラオスやタイ、カンボジアと同様なのだが、やはり社会主義というのは凄い。景色がいかにも中国風なのである。何と言うか、こう、行儀のいい景色。歩道までしっかり舗装された道路に過剰とも思える道路標識。どの店も殆ど同じサイズの看板を掲げ、人々はみな同じサイズのバイクで往来を行く。建物の作りにも個性が少ない。中国と違うのは飲食店のテーブルが歩道にどんどん進出している点と、歩道が殆どバイク専用の駐車場と化している点だ。これにはベトナム滞在中本当に難儀した。人が歩く為の歩道が体のいいバイク置き場になってしまっているのはまだしも、それに路上食堂や路上ペンキ屋、路上鉄工所に路上床屋に路上耳かき屋などが加わるから歩道を真っすぐ歩く事が出来ないのだ。しかたなく歩行者は車道に出てゆかなければならないのだが、これが怖くて仕方がないのである。これは裏を返せば、モータリゼーションの進む中国に比べてベトナムはまだまだバイクの国だということだろう。
そんな事を考えつつ日が暮れた。今度は晩飯の心配である。到着時間は午後7時か8時と言われているからこれは微妙な問題だ。まあ運転手の機嫌次第なのだが、どうせなら勝手の分からない夜の街に自分で出るよりは移動ついでに済ませてしまいたい、と思っていたのである。そこへなぜか謎の停車。白いランドクルーザーから降りてきた警官がバスを停めて乗り込んできたのである。まあラオスでも兵士が乗り込んできたから別に今更驚くにはあたらない事だったのでその時は気にしなかったのだが、それから2、30分走ると何故かバスは消防署のような所に入って行った。運転手と車掌はカタコトの英語でディナーだ、というのだが、絶対そんな風には見えない場所なのである。アヤシイ・・・。しかし、疲れていた俺達に降りない理由はない。ディナーであってもそうでなくても、そろそろ外の空気を吸いたいと思っていたところなのだから。
5〜6名ずつ、6畳ほどの部屋に通された。楕円形のテーブルが並び、その上には急須と湯飲みが置かれてあった。おっ、本当にディナーかも。などと思っていると、件の警官がお茶を入れてくれたのである。それにしても周りを見れば制服の警官ばかり。一体目的は何なんだ?いぶかる我々にそのうちの一人がカタコトの日本語でこう言ったのである。「ワタシ、コウアン、デス。 トウナンアジアノ・・・云々 テロガ・・・云々、 チュウゴクカラキマシタカ・・・云々・・・」何の事は無い。ただの公安によるパスポートのチェックだったのである。しかし、その日の朝にイミグレを通り、ただまっすぐハノイに入ろうとしているのにパスポートチェックとは厳重である。ここでも社会主義っぽさを見せつけられた次第である。ちなみにこの公安氏、外国語は日本語しか出来ないらしく、俺に英語に訳して他の旅行者に伝えて欲しかったらしいのだが・・・俺にそんな余裕がある筈はない。彼の日本語も相当ブロークンで聞き取れなかったし。そうそう、ベトナム語での公安はcong
anと書くんである。武器はvu khi、注意はchu y(正しくは声調記号が付くのだがここでは表示できないし、俺もうろ覚えである)。中国語の影響が伺えて興味深いところだ。
そこで30分ほど足止めされて、時刻はもう8時をまわっていた。出発から26時間。26時間級の移動はインドのチェンナイ(マドラス)―ジャーンシー(カジュラホ寺院群の最寄り駅)以来である。先程の公安氏の言によれば、警察署からあと5キロとか言っていたが・・・。再びバスに乗り込む。折からの雨に、疲れはもう最高潮だった。で、しばらく走ると今度はある宿の客引きが乗り込んできてさかんに宣伝を始めた。このバスがどこかの宿と提携している何て話は聞いていないが・・・。乗客全員にパンフレットが配られ、値段の説明やら立地の良さなどをしきりにアピールする男。これはもう催眠療法と同じである。今、疲れ切った我々にリーズナブルで送迎付の宿を斡旋する事は、お年寄りに日用品をあげて羽毛布団を買わせるよりも簡単だ。
町外れの妙な場所、バスターミナルでも何でもないような所にバスが停められると、乗客の殆どがその宿の用意したバスに乗り換えていた。もちろん俺達も乗ってしまった事は言うまでもない。そこからはバスで20分ほどで、雨のハノイ中心街に辿り着いたのだった。一網打尽に捕らえられた宿は1泊10ドル。ベトナムの宿は少し高いと覚悟はしていたので驚かなかったのだが、その部屋の装備に驚いた。テレビ、エアコン、冷蔵庫にバスタブ・・・。こんなフル装備は中国以来である。もしかして、これが社会主義国家の標準装備なのか!?公立の機関ではロクな思いをしない赤い国だが、ホテルの快適さは買いだと思う。それにしても、それなりの価格は負担しなければならないのだが。その晩は閉まりかけた食堂でサッと夕食を摂り、すぐに寝る事にしてしまった。
翌朝目覚めてみれば、宿は結構な立地にあるらしかった。ドアを開けた瞬間に襲いかかる喧騒。車の数を圧倒的に凌駕するバイクの流れ。そしてその中を行く天秤棒の物売りたち。今までにも人まみれ自転車まみれという都市の景色は目にしてきたが、ここまでバイクばかりと言う景色はこれが初めてである。老若男女―まさに中学生くらいの少年から、70がらみの老女までもがロクに信号も守らず、ヘルメット無しで疾走しているのだ。恐るべしベトナム。そしてまたも驚かされるのは、その間を横断する歩行者の度胸である。彼らは別に手を挙げるでもなく、数十センチのすき間を悠々と渡ってゆく。まさに「よけない方が悪い」とでも言わんばかりにバイクで溢れる道路を渡っているのだった。俺達は初め、まったく道路を渡る事が出来ずに閉口してしまったものだ。何しろハノイの歩行者用信号は早い。何が早いと言って、青信号が赤信号に変わるのが早過ぎるのである。事前の青の点滅なしに一律5秒で赤に変わってしまう信号と言うのは始めて見た。どんなに幅の広い道路でも5秒。もう数時間のうちには俺達も余裕で信号無視をするようになってしまった次第。
ベトナムは細長い国である。1ヶ月でくまなく回ろうと言うのが土台無理なのである。が、しかし急がねばならない。そこで俺達はハノイに着いたらすぐにサパという街に行こうと計画していた。ベトナム北部・中国国境にもほど近いその町は少数民族の宝庫で、毎週末には彼らが集まるマーケットが開かれるというのが呼び物である。そこには多数のツアーが出ており、俺達の泊まった宿のスタッフもしきりにそれを薦めて来るのではあったが、当然の如く自力で、列車で行く事にしたのは言うまでもない。
宿からハノイ駅までは徒歩40分。「乗れば絶対にボラレる」シクロや、「メーターを倒してくれない」タクシーは断乎拒否してひたすら歩いた。街の景色は先述のとおり赤い。バイクの数が尋常でないという以外、中国にいるような錯覚覚えてしまう。北ベトナムということで華人の血も濃いのだろう、行き交う人々の顔はいわゆる東南アジアのそれではなく、中国的な凛々しさを持っている。服装も何だか中国風。路傍の洋品店を見れば中国製のものばかりだから、これも仕方ないだろうか。オカズを並べる食堂や、はたまた超近代的な「ハノイタワー」なぞを横目に見ながらハノイ駅に辿り着いた訳である。
駅の中は案外閑散としていた。列車の本数が少ない為、発着時以外はのんびりしたものである。常に切符を求めて人が並ぶ中国や、訳もなく人がゴロゴロ寝ているインドと違って随分落ち着いた印象である。が、切符売り場だけは違った。俺達は外国人用切符売り場の前で職員が売り始めるのを待っていたのだが、職員が来た途端、地元民が我も我もとたかり出し、結局後回しにされてしまったのである。うーん中国状態。やっぱり、ベトナムの人も並ばないんだ・・・。赤い国には「並んだら損」的な雰囲気が蔓延している。スーパーのレジも割り込み上等だし、列車の切符も当然の事ながら、バスの乗り降りにまでこのハードボイルドなルールを適用されるのはいかがなものかと思う。誰にでも平等に機会がやってくるのが社会主義ではなかったか?そんな事を思いながら、俺達はラオカイ(サパへの最寄り駅)への切符を手にしたのだった。
ハノイ3日目の夕刻、ハノイ駅へ。この国も中国と同じく、人はホームで待たせずに待合室で待たせ、列車が来る30分前にその列車のみの改札を始めるという方式である。例によって俺達は改札の1時間前には到着して辺りを伺っていた。切符を買う時の苦労と比べ、こちらの待合室はなかなか快適である。なぜって、人数よりも椅子の方が多いから・・・。これはここいらの国にして見れば全く画期的な事である。インドでは地面に座るのは当然だったからもう感激至極。逆に言えばこれはあんまり列車が頼りにされていない証左とも言えるのだが、旅行者的には大歓迎である。寝台を取らなくても、列車はバスの倍の値段がかかるのである。ちなみに寝台を取ってしまうと、値段は飛行機の半額。そのため俺達はベトナムの殆どの行程を「ソフトシート」なるグレードで移動したのだった。このシートは十分にリクライニングできるもので、夜行にも不足はない。
いよいよラオカイ行きの列車に乗り込む。12両程の気動車なのだが、列車は東欧製の古いヤツ・・・としか思っていなかった俺はすっかり裏切られた。照明が煌々と灯り、寒いほどの冷房が効いている車内はまさに旅のオアシス。日本に居ても列車にはそう乗らない俺にしてみれば新幹線並みの待遇と思えるシロモノだった。ベトナム鉄道侮るべからずである。発車してみると即座に物売りがやってきたのだが、これがまた今までの「私営」物売りではなく「公営」の制服を着たオジサンオバサンがワゴンを引いてやってくる。豪華だ・・・。ワゴンに載せられた中華風お粥の味も絶品で、俺達はすっかりベトナムにハマりつつあった。
そんな快適な列車の旅を終え、ラオカイ(ここは中国の河口という国境と接している街である)着は朝6時。ものの本によればここからバスが出ているというのだが、朝6時ではどうにもならないだろう・・・と思っていたのだが、予想通りと言うべきか否か、しっかり客引き様がご営業ましましていらっしたのである。「チャイナ? サパ?」そんな客引きを4人抜き、5人抜きしているうちに駅の出口にさしかかってしまったのだが、何とそこには朝っぱらからしっかり制服を着用されたいかにも権威のありそうなサパ行きバスチケット売り場が・・・。さすがは力を入れて観光地化している土地である。サービスが良過ぎて困ってしまうくらいなのだが、これじゃ私営の客引きは商売上がったりだよなと思いながらチケットを買う。すると、バスは今すぐ出るというではないか。寝ぼけた体を引きずって、荷台にザックを押し込めた。
サパの街には1時間半ほどで到着。正確な標高は不知だが相当に寒い所だ。吐く息が白くなるなんて、チベット以来。緯度的には沖縄あたりより南なのにこんなに寒いとはけしからん。すっかり熱帯モードに入っている体にはこたえるものがあった。そのバスはある中級ホテルの中庭に停められたのだが、俺達はそこに群がる(といっても2人だけだったが)客引きの名刺を見ながら1泊5ドルの宿にチェックイン。看板もロクに出ていないアヤシゲな宿だったのだが、ベトナムの宿にはこういう一見民家風な所が多いので気にせず投宿したのだ。で、この値段でホットシャワーとテレビが付いている。ベトナムの宿はなかなかにホスピタリティーに溢れているではないか。
サパはいいところだ、といろいろな旅行者から聞いていた。俺達が手に入れたガイドブックは古いものだったから、宿も数件しか載っていない。さぞかし鄙びた風情の秘境チックな所なのだろうと思っていたのだが・・・。行ってみれば件の少数民族氏は徒党を組んで外人を捕まえては土産物を売りつけてくるし、街にはネット屋やら洋食屋やら土産物屋やらがずらりと立ち並んでいる。15分も歩けば抜けてしまうような小さい街なので規模は大した事ないのだが、こういう民家よりも観光関連の施設の方が多い街というのは見て疲れ、居て疲れるものなのだ。やっぱり6年前のガイドブック(タイにて入手)じゃマズかったか・・・。ネット屋があってもいい。ホテルが立ち並んでいてもいい。でも少し歩けば普通に市民の生活ぶりに触れられる・・・。これが旅の醍醐味というものだと思うのだが、こういう街でそういう楽しみ方は出来ず、高い飯屋に入り高い土産物を買うしかないのである。嗚呼。街を歩き始めて数十分。俺達は宿を3泊も取ってしまった事を後悔し始めていた。やっぱりハノイからツアーで1泊2日、というのが丁度いい感じなのである。
悪口ばかり書いてしまったが、そんな街の中心にあるサパ市場、ここに毎日通うでもなく行かされていると、日々の変化に気付く事が出来て面白い。あのオバチャン昨日と同じ野菜売ってるんじゃないかとか、今日はシメたての犬肉が入ったなとか、そういう小さな変化を楽しむには長くいるしかないわけで、これもまた痛しかゆしと言った所である。
サパ3日目。俺達はその小さな街を歩き尽くしてしまったのだが、まだ見ていない所があったのである。街の外れから山に続く道。そのゲートには「ヒストリカル・ストーン・ゾーン」と書いてある。こんなもの誰にも聞いた事はなかったし、勿論俺達の古ガイドブックにも載っていない。もう他にすることは何もないのだ。よし今日はHSZで楽しもう!などと思いつつ門番に聞いてみると、「5000ドン(1ドル=約15000ドン)。村まで歩いて2キロ」とおっしゃる。2キロか・・・まあ歩けない距離でもないかとその道を行く事にしたのであった。最初は綺麗な舗装道路で、黒モン族のお姉さんを見つつ余裕のウォーキングであった。しかし、この余裕も長くは続かない。旅が長くなるにつれ、何分で何キロ進んだかという勘を身につけた俺なのだが、いくら歩いても村も見えないし、それっぽい岩も見えないのであった。次第に道は悪路になり、沢に阻まれる場面も出て来るようになった。しかしそこは暇人の成せる技である。1時間、2時間・・・と歩き続けるうちに、どうもいかにもそれっぽい景色が見えてきたのである。俺達はずっと断崖の道を歩いてきたのだが、その谷あいに広大に広がる段々畑。その間に民家が点在し、いかにも観光写真に出て来そうな景色が見えてきた。ああ、ベトナムにもこんな景色があったんだ・・・。建物に建つ赤旗や看板のベトナム語を見なければ日本の景色と見まごうばかりである。が、しかし相変わらず岩は見えてこない。HSZを標榜しているのに岩が見えないのはおかしいと妻は憤慨するのだった。気付けば欧米人を載せたツアーのジープが何台も俺達を追い越してゆく。疲労しきったところにそれを見るのは皮肉以外の何者でもない。やはり、ガイドを付けなければ行けない所なのか・・・。大体HSZなのに「村まで2キロ」というのが分からないし・・・。結局俺達は片道2時間半を歩き、どこが目的地だか分からないままに戻ってきたのである。道の途中にしっかり囲われた曰くありげな岩が1つあったのだが、それがHSだったのか・・・?これは未だに謎である。ネットで調べてもみたのだが何の事だか全く不明。強いて言えば山々が岩っぽいと言えない事もなかったしな・・・。
サパよりもより多くの少数民族が集まるという街にバックハーというところがある。サパから車で3時間ほど。ラオカイまで1度戻ってから出直すと言う感じなのであるが、俺達はそこにツアーで行ってみる事にした。サパを早朝に出発し、そのバックハーに連れて行かれ、帰りにラオカイ駅で落としてくれる(で、ハノイまで列車で自分で戻る)という便利な現地ツアーがあるのであるが、この街はなかなか良かった。サパほどには開発されておらず、泊まる人もほとんどなし。まあ市の立つ日には街の外国人人口が2割くらいになってしまうところなのだが、ここはまだサパほどには毒されていない。花モン族、という派手な民族衣装を纏う人々が主になるこの街のマーケットでは家畜の市が見もの。子豚やら子牛やらヒヨコやらが市場の一角に設けられた広場で売りに出されているのだが、その家畜達が大騒ぎなのである。子犬が無造作にカゴに入れられて鳴いているのは当然として、生きたまま縛られる豚の鳴き声やヒヨコを手づかみで売りさばいている様子は、肉を食う人間として思わず反省させられてしまうものがある。この旅では肉があからさまに売られている景色を何度となく見た。そう言えばサパの街では犬の屠殺も見たし、各地の市場の1画では必ずライブで鶏を絞めている現場を見る事が出来る。スーパーで肉を買う、という事をもう10ヶ月以上もしていない俺なのだが、改めて途中の過程を省略してパック詰めを見る事の軽薄さを感じるのである。
再びハノイへ。流石は1国の首都と言うことで見どころは沢山ある。博物館各種、レーニン像、ホーチミン廟、その他もろもろ。俺達は何が何でもギリギリまで徒歩で移動する夫婦なので全ては回りきれなかったのだが、なかなか他の国とは違うアクの強さを見せつけられた。話題の犬食なぞも体験しつつ(黙ってれば分からない味です・・・)結局ハノイに延べ6泊して、次の目的地・フエへ向かったのである。
フエもまた観光地としては白眉であろう。ベトナム最後の王朝である阮王朝の王宮があるこの地は世界遺産にも登録されている。ハノイから例のソフトシートで11時間ほど(うろ覚え)。しかしそれにしても12月の北〜中部ベトナムは寒いし、曇りや雨の日が続いていた。ご多分に漏れず俺達がサパに到着した日も雨模様。チベットに居た頃来ていたインナーウェアを着込んだまま俺達は宿を求めてタクシーに乗る事にした。
雨のフエは、ハノイ並みの道幅を持ちながらも人影はまばら。車の台数も数える程しかない。ベトナムでは、ハノイ・ホーチミンあたりには自家用車を持っている階層が増えつつあるようだが一度そこを離れてしまうと走って居るのはバイクとバス、トラック類だけという景色がほとんどである。ハノイの喧騒を離れたのはいいが、何だかあからさまな経済格差に疑問を覚えたりもした。で、ホテルである。件の6年前のガイドブックを頼りに投宿したそこもまたフル装備。テレビに冷蔵庫、さすがにバスタブまではなかったが湯がドクドク出てくる豪華版だ。冬のベトナムで水シャワーはかなりキツイものがあるだろうからこれは歓迎だ。14インチのパナソニック製テレビではなぜかBBCの日本語放送が受信でき、サダム・フセイン拘束の報はここで知ったのであった。
早速雨のフエ旧市街へ、勿論歩いて向かう事にした。何しろ街全体が世界遺産。どんな物凄い景色が開けているのだろうと思いきや・・・やはりここもベトナムである。溢れ来るシクロマンの勧誘。いかにもボッタクリそうな路上土産屋。これは悪天候のせいだけではない。何だかこう、感慨が湧いてこないのである。美術博物館に入ってみたのだが、ここではいわくありそうな展示品の脇にバケツが置いてあって雨漏りを受けていたし、阮王朝の王宮にしても5ドルという大金を取る割には建物の殆どが基礎のみを残した廃虚となってしまっている。そしてそこではデジカメ片手の日本人ツアー客がガイドの制止を無視して写真をバシバシ撮っているという、何とも居たたまれない感じだったのである。いやはや、やはりツアーで、しっかりガイドを付けて行くべき土地だったのかも知れない。ここも。だから俺は決して皆様にこの街に行く事を止めはしない。ケチって自力で回ろうとして、本当に面白い部分に触れられないという経験を俺達は積み重ね過ぎてしまった。
フエを含めて、俺達はほとんど「旅行者向けレストラン」での食事をしなかった。路上のお粥屋やフォー(ベトナム式米麺)屋、あるいは裏路地のコム屋(coユm、ベトナム語で米飯という意味。数種〜数十種類のオカズを選んでご飯にぶっかけてもらう飯屋なのだ)、はたまた市場の隅の食堂エリア・・・。フエはつまらないつまらないと書いてしまった気がするのだが、こうした庶民の味には困らなかった事を付記しておきたい。ホテル脇のコム屋は本当においしい豚の角煮を出してくれたし、市場の隅で茹でタニシを食べていたら側の八百屋のオバチャンが何故かバナナをタダでくれたり・・・。金には大変にうるさいベトナム人が無料で物をくれたのは後にも先にもこれが初めてであった。それから牛肉しゃぶしゃぶ。名前はもう忘れてしまったが、2ドルほどでこれを出す店があっていたく感激したものである。しゃぶしゃぶといえばごまだれなのであるが、ここでは何と言うか、魚醤系の味つけと香草たっぷりで出て来るのだがそれもまたベトナムの味と言えるであろう。フエには何だか食べ物の思い出しかないな・・・。
フエ3泊の後、俺達はニャチャンという街へ南下した。統一鉄道に乗っていれば至極楽勝な道のりである。ベトナム中部から南部に至るその車窓からは時々海が見え、水田が見え、やっと南国に戻ってきた気にさせられた。夜9時のニャチャン駅に降り立ったのだが、その瞬間から空気が甘いのに気がついた。今までのベトナムは日本で言う所の11月程度の気候だったのだが、ここに来てやっと9月中旬くらいに戻ってきた気がしたのである。しかしまだまだ、南国ムードには程遠いのである。12月に来る方が悪いのだが、この時点で俺は早くホーチミンに行きたいという希望で頭がいっぱいになっていた。折角日本が冬の時期に東南アジアにいるのだから、何かこう、もっと暑い所に居たいではないか。
フエの宿の人の薦めるままに入った宿は町外れ。到着がかなり遅かったので比較検討するわけにもゆかず、15ドルのところを12ドルに値切ってチェックインしたのだが、ここはなかなか面白い宿だった。例の基本装備(冷蔵庫はなかったが・・・)は当然押さえてあって、後聞きになるが2000年の完成だと言うから相当に綺麗。そして面白いというのはロビーをはじめ、廊下一面に飾られたいかにもそれっぽい写真たちである。主に少数民族を題材にしたその写真たちはプロはだしで、一体誰が撮っているのだろうと思ったが案の定宿の主人。きちんとしたモノクロのプリントを見るのは久しぶりだったので思わずつたない英語でそのオヤジと話をしてしまった。良く見れば部屋の中の営業案内にも「Professional
photography service available」と書いてあったのだが、一体どんなサービスをしてくれるのかは最後まで謎のままであった。泊まり客のポートレートでも撮ってくれるのだろうか・・・?
ニャチャン。ビーチ以外にはこれといった見どころはない街である。で、今は12月。寒いのである。毎日曇りなのである。別にビーチに行っても泳ぐつもりはない俺達なのであるが、人っ子一人居ないビーチで地元民のヤシ割りやカニ採りを眺めているのはなかなか哀愁ただようものである。この街でも当然市場を押さえたのだが、さすがは赤い国だけあって品ぞろえは他の街と全く同様。いや、赤い国のせいではないのかも知れない。ミャンマーの時にも書いたと思うが、どうも俺達は市場を見過ぎてしまったようだ。そもそも市場は観光客の為にあるのではなく、あくまで庶民の暮らしを支える生活の場なのである。それを物見遊山の視線で見る事の間違いに俺は気付くべきなのである。確かに面白いところではある。見た事もない野菜や肉、そして各国からやってくる雑貨類を眺めるのはとても興味深い体験なのだが、段々と視線が実用的に醒めてしまうのが嬉しくもあり悲しくもある。
そこで俺達はまた食い気に走る事にした。ベトナムの甘味系は本当においしい。特に洋菓子は秀逸で、プリンやケーキ類はまず外す事がない。食べれば九割はハズすタイ・中国あたりとは雲泥の差で、ここにもフランス植民地の名残があるのかと思わされるお味なのだ。で、俺達はベトナムにいる間中プリンを食いまくった。味的には、勿論店によって多少の優劣はあるのだが全く日本で食べるカスタードプリンと遜色ない。それでいて1ヶ2000ドン(約14円)ほどなのだから食わない手は無い。俺達はある菓子屋に通い詰めて、時にはお持ち帰りまでしてプリンを楽しみまくったのである。それから、庶民の味として外せないのがフエの所でも述べたタニシだ。これは店を構えた飲み屋で出している時もあるし、はたまた天秤棒1本で勝負しているようなオバチャンが路上で売っている時もあるのだが、これはもう見つけると食べずには居られない味なのである。茹でたタニシを、爪楊枝でほじくりながら辛味ソースに付けて食べる・・・今すぐにビールが欲しくなるこの味はまず日本では味わえまい。値段もプリンと同じか少し高いくらい。タニシにも色々なサイズがあり、日本で金魚の水槽にくっついているようなサイズのものから軽く5センチはありそうなものまで様々。ビッグタニシは食べごたえも味も最高なのだがちょっとお高めである。そして、俺達はこの街でカエル焼き初体験も果たしたのであった。この国にはもう路上と店内の境界線がきわめて微妙な飲み屋が数多くあるのだが、ある夕方俺達は発見してしまったのである。皮を剥きたてのカエルが炭火で、他の豚やら鶏やらと一緒に焼かれているところを・・・。カエル食の話はかねてより聞いていた。日本でも食用ガエルと呼ばれる種があるように、カエルはアジアではけっこうポピュラーな食材なのである。これまで各国の市場に並んでいるのは見た事があったのだが、今まさに調理されている瞬間というのは初めて見たので即座に注文である。・・・結果、香草とライム、塩コショウで食べる焼きカエルは超絶品であった。コクのある鶏笹身を思わせる味だったのである。こんなことならもっと積極的にカエル食っとけば良かったなぁ・・・。
何だか食べてばかりの印象を残しつつ、俺達はニャチャンからバスで4時間ほど、中部高原の都市バンメトートへと向かった。この街自体には博物館が1つあるくらいで全く面白みはないのだが、郊外に点在する少数民族の村が呼び物なのである。
着いた瞬間から不穏な雰囲気が漂っていたのである。俺達を乗せたミニバスが街のバスターミナルに入るや否や、バイクタクシーマンが20人くらいの大群で群がってきたのである。が、しかしここは外国人にとってはかなりマイナーな土地なので彼らの英語力はほとんど皆無である。俺達も物凄く貧相なガイドブックしか持っていなかったからどこに、どの方角に向かえばさしあたって宿があるかも分からない。だがしかし、このカタコトだけで押し切ってくるヤツラに任せる訳には行かない・・・。俺達はしつこく付きまとう彼らを巻いて、バスターミナル側の屋台で昼飯にすることにしたのだった。
そのコムの屋台は1杯5000ドンだと言うので、俺は適当に3種のオカズを頼んだのである。その盛りつけはやけに気前が良く、いやー、外人の来ない街だから歓迎されているのだろうなどと思いつつその皿を平らげたのであるが、これが良くなかった。そのオバチャンは、「鶏もも肉を食ったから合計で10000ドンだ」と宣うのである。何ですと!皿に乗せられたものは全て食べるのが日本人の美徳である。5000ドンは安過ぎるとは思っていたのだが・・・。これにキレたのは妻の方である。日本語で延々とまくし立て、机をバシバシ叩いて大騒ぎだ。これを見ていたバイクタクシーマンが思わず退いてゆくほどの大迫力。しかし、こちらは5000ドンのお釣りをもらうつもりで10000ドン札を支払ってしまった後だったのだ。これで俺達の劣勢は決まったようなものである。もうどうしようもないのだが、言葉の殆ど通じない相手である。仕方がないので無言の抗議に出る事にした。食った後、1時間半ほどもその屋台で睨みをきかせつつ粘ったのである。暇人を相手にしてはいけないという事を知らしめるつもりだったのだが、効果の程は如何に・・・。思えばこんな経験も初めてではないのであった。ベトナムでは「食っている間にインフレが!?」という事がよく起こるのである。口頭で値段を確認して食べ始めたものに、あとから割り増し料金を請求される。十分値切った土産物の、支払いの段になって釣りを返さない。その度に妻が激切れ(バイオレンス寸前)しているのだが、なかなかベトナム人に勝つ事は出来ないのである。はっきり言ってインド人よりも中国人よりもタチが悪い、と言えよう。
ああ、この文章を読める、心あるベトナムの人よ。なぜ貴方は旅行者からこれ見よがしにボリ取ろうとなさるのか。世の中には定価と言うものがあり、スーパーマーケットという所では物に値札というものが貼られて売られていると言う事をご存知でない筈はないでしょう。物の定価という概念はなかなか難しいものではありますが、せめて同じ物はどんな人に対しても同じ値段で売るというのは仁義というものではありますまいか。誇り高いベトナム人民は社会主義を標榜し、今でもそれを守り抜いている数少ない国、人民であります。その主義をあからさまに外国人には適用しないというのでは世界からやって来る客人に顔向けできないのではないでしょうか。我々は確かに少し金を持っているように見えるかも知れません。確かに我々の使う通貨は貴国では5倍くらいの使いでのあるものです。しかし、日本に帰れば我々などは平均以下の暮らしをしているのです。それは欧米人とて同じ事だと思われます。
結局バイクタクシーマンの退いたそこには誰も残らず、俺達はバスターミナルから市街地までの道を、貧相な地図を頼りに2キロほど歩く事となった。人口の割にやたらとだだっ広い1本道は歩きやすいものだった。途中、現地語なので読めないのだが撮影禁止の記号がある建物を数軒見たのだが、気になるも読めないものは読めない。やたらと大きなホー・チ・ミンの肖像画が印象に残った。
英語が全く通じない安宿にザックを置き、街中を歩いてみた。小さな市場と、ロータリーには戦士像と戦車。ここはベトナム戦争の南部解放作戦が開始された街なのだそうである。いやはや、見どころが少ないとは聞いていたがここまで何も見るものがない街は久しぶりである。早めに例の少数民族系を見て抜けてしまわなくてはならないと思った。
しかし、ベトナム滞在の帳尻を合わせるべく、俺達はこの街でもじっくり過す事になってしまった。先程の屋台以外はそうボッては来ないし、馴染みの店が出来れば至極楽な街ではあった。またしてもプリンを食いまくり、ベトナム式鍋物をつつき、両替で苦労したりなんかしていれば時はあっという間に過ぎてゆくものなのである。
で、3日目。俺達はタクシーを雇ってブオンドン村という所に向かったのである。エデ族という人々が住む、象使いの村という触れ込みである。年代物のプジョーのタクシーを雇って(一日40ドル!!)行って見たのだが・・・。確かに象は居た。エデ族も居た。しかし、なぁ・・・。俺達にすっかりヤキが回ってしまったのだろうか?いい加減10ヶ月以上も遊んでいる俺達に対する神からの警告なのか?いや、その点を差し引いても40ドルの価値はまるでない村だったのであった。確かに象は居た。でもすっかり飼いならされて檻の中に居ただけだし、村の中もいたって整然としていて美し過ぎた。それから河原にいわくありげに渡された吊り橋が何ヶ所もあるのだが、これを渡った所が・・・本当に河原しかない。何だかキャンプファイヤーの翌朝みたいな切なさが広がっているのである。タクシーマンは全く英語を解さずにひたすらベトナム語を筆談で迫ってくるし、自分の昼飯代を俺達に払わせようとするし、道が工事中だからと約束していたある墓地にも連れて行ってくれず・・・。俺達はその度に食堂で電話を借りてドライバーの雇い主に電話をしなければならなかったのである。その雇い主は初め「彼には全ての金を払ってあるのだからこれ以上1銭も払わなくていい」と信頼感溢れるセリフだったのにこのていたらく。ガイドをきちんと雇わない俺達が悪いのか。きちんとツアーに参加しない俺達が悪いのか。それともベトナム自体がアレなのか。誰か教えて欲しい・・・。
気を取り直してホーチミン市へ向かうことにした。首都ハノイを凌ぐベトナム随一の商業都市。日本からの直行便はみなここに着く為、ベトナムと言えばホーチミン1都市だけ、というパックツアーなども多いようだ。ニャチャンから夜行列車に乗り、到着したのは朝6時過ぎ。中国とベトナムの列車では車内にいかにも軍歌調なBGMが流されることが多いのだが、さすがはホーチミン行きの列車である。ホーチミン市の市街地に入るにつれ「ホー・チ・ミンを讚える歌」と思われるオペラ調の曲が流れてきて流石と思わされた。中国の毛沢東と同様にホー・チ・ミンはベトナム革命の父なのだが、毛氏が中国ではさほど騒がれていない印象を受けるのに対してホー氏はベトナム国内で物凄い人気があるのである。駅にもホー・チ・ミン、路上にもホー・チ・ミン、一般民家にもホー・チ・ミン、まさにホーチミンだらけ、一体この旅で何度彼の彫像や肖像を目にした事だろう?何しろ紙幣の肖像は全部ホー・チ・ミンだし・・・。
ホーチミンに着いたら急に暑くなった。地図を見ると、ニャチャン辺りは山に囲まれているのに対し、この南部はすっかり平野地帯なのである。緯度はプノンペンよりもバンコクよりも南だとくればこれで暑くないわけはない。新聞の天気予報を見ると、最低25度、最高31度とある。来た来た、南国に・・・。俺の旅のイメージとはすべからく南国なのである。
ここでの見どころというか、絶対に外せないスポットとして戦争証跡博物館、というのがある。ハノイの軍事博物館が旧王朝時代の戦争や抗仏戦争、ベトナム戦争と幅広く展示しているのに対して、この証跡博物館はベトナム戦争でアメリカ軍が行った所業を主に展示している所である。兵器や当時の書類などは当然として、数々の戦場カメラマンによって撮影された写真が圧巻である。ロバート・キャパや一ノ瀬泰三、石川文洋氏などの有名どころによって撮影された写真は余すところなくリアルである。中でも米兵がベトナム人の首を並べて撮った記念写真や、そんな首を片手に笑ってカメラに収まる米兵の写真、そしてソンミ村虐殺事件の写真は見るものを戦慄させずにはおかない。その際に使われた兵器も不気味なくらいきれいに保存されており、中庭には米軍の使用した数々の戦車や高射砲、軽爆撃機等々が並べられている。修学旅行か社会の授業中と思わせるベトナム人学生の集団と欧米人観光客で込みあっている光景はなかなか複雑な心境にさせるものがあった。
もう、この証跡博物館を見てしまうとベトナムはお腹一杯だ、という気持ちになってしまう。ベトナム戦争が終わった年に生まれた俺なのだが、大体この戦争がどんなものなのかはサワリだけは聞いたつもりになっていた。共産主義を阻むためにアメリカが理不尽に挑んだ戦争―しかし、このアメリカへの敵意ムキダシの博物館ではそんな生易しい耳学問は通用しないのである。迫ってくるのはひたすら、そこで起きた人間の死、それだけである。そして300万人が死んだと言う事実を再確認してから街に出ると何だかもういくらボラれても片足のない物乞いが来ても「俺が悪かった!」という気分にさせられてしまうのであった。実際に自分が何もしていなくてもそんな気分になってしまう―運転中にパトカーが後ろから付いてくるような―のだった。おかげでその後数時間は全く無口になってしまった俺達なのである。
まあ、ホーチミンはそれだけの街ではない。これがベトナムかと思わせる大きな教会や、冷房ギンギンでブランド物売りまくりのデパート、そしてやたらと日本人慣れしていてウザイベンタイン市場等々・・・。俺達はビザを限界まで使い切るべくホーチミンで6日間を過したのであったが、何だかんだ言ってもホーチミンがベトナムで最もエキサイティングな街だったと言う印象である。何しろ、泊まらなかった街を含めれば8都市を回った俺達が、初めてベトナム名物生春巻きに出会えたのはここだけだったのだから・・・。でも、生春巻きは日本で食べる方がおいしいような気がしなくもなかった。屋台で作り置きのものしか食べなかったせいもあるかも知れないが、どうも何かジューシーさに欠ける気がしたのである。これからベトナムに行かれる皆様には是非きちんとしたレストランで食べて頂きたいと思うのである。
ベトナムは1ヶ月では足りない、と何人もの旅人に言われてからやって来たのだが、全くその通りの結果に終わってしまった。その気になれば1週間で南北縦断も可能なのだろうが、そうして過ぎてしまうには惜しい国である。何だかんだ言っても日本人の嗜好に合う料理(しかもこれが北部と南部で全く性格を変えるのだ)があり、ただ歩き回るだけで過ごせる路地が無数にある。またボッてくるベトナム人の存在あればこそ、買い物の真剣味が増して有意義なものになる。そして、まだまだ行きづらい沿岸部以外の街や、最南端の島などもある。俺達の1ヶ月8都市(実際泊は6都市)というペースは非常にゆっくりとしたものだったと思うが、これでもそれぞれの街を玩味するには不足なのである。余程ビザを延長しようかとも思ったのだがそれは高いので断念せざるを得なかった。散々ボラレたベトナムに今すぐ戻りたいか、と問われれば微妙なところであるが、いつかまた、フラリとホーチミン市辺りに現れたいような気がする、そんなマゾヒスティックな魅力を湛えた国なのであった。
2004年1月1日 カンボジア プノンペン キャピトル3ゲストハウスにて
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