ベトナムはサパでこの原稿を書き始めたのだが、どうにも寒くて仕方がない。一昨日ハノイからこの街に到着した瞬間の寒さからして違う。中国国境にほど近いこの北ベトナムの街は標高1500メートルほど。緯度的には中国の海南島やラオスのヴィエンチャンあたりと大して変わらないのにもかかわらず、朝晩の霧の凄さはどうだ。部屋の中でも息が白くなる。田舎町でリゾート気分に浸りながら一筆・・・などと思っていたのに、夜は寒くて全く体が動かない。今午後4時を回った所なのだが、それでも手がかじかんでうまくないのである。冬の中国やチベットの寒さは覚悟していたから何とかなったのだが、ベトナムの12月にこんなに寒い所があるとはとすっかり不意打ちをくった気分である。あー寒い。
さて、前回の続きである。ミャンマーからタイに帰った俺達はバンコクの都会っぷりを再び堪能する事となった。居並ぶコンビニ、和食店、日本書店。タイではほとんど値段交渉なども必要ないので、その気になれば一言も交わさずに買い物が出来てしまう。旅の有難みという点ではまったくなっちゃいないのだが、この安穏さが長期旅行者を虜にし、またタイから出てゆけなくなる人種を生み出すのだろう。それではミャンマーはミンガラドン国際空港からタイのドンムアン国際空港に着いてからのお話を。
バンコクの午後5時過ぎ。早速ドンムアン空港から常宿のホワイトロッジに向かったのだが早速マヌケな目に遭ってしまったのだ。空港からダウンタウンに出るためのエアポートバス、というのがあるのだが、これを乗り間違えてしまったのである。そのバスには1〜4番と行き先別に番号が振られているのだが、それはまあ問題なかったのだ。何しろ2度目なのでいつもの路線4(うろ覚え)のチケットをさりげなく買い、その4番のバスに悠々と乗り込んだのであった。間も無く出発。国際線ロビー前から国内線ロビー前へ。ここまでは普段と同じである。が、しかし国内線ロビーを前にして、俺達以外の乗客は全て降りてしまったのである。???。車中に残されたのは掃除婦のおばちゃんと空港職員のお兄さんだけ。それでも誰も何も言わないので乗っていると、バスは再びUターンして国際線ロビー前へ。運転手がタイ語で何か言い出したので仕方なく降りると、そのバスの脇腹には「国内線⇔国際線 無料バス 4番」とか書いてあるではないか。それでは永久に着かないわけである。これで俺達の「明るいうちにバンコク市街へ」という野望は潰えたのであった。ヤンゴンで出会ったM嬢と手を振り合ってお別れしたのに同じ所に戻される愚。
気を取り直して正規のバスに乗る。バンコク名物の夕方の渋滞は相変わらずで、バスは市街に近づくにつれスピードを落として行ったのだが、ミャンマー帰りの俺にしてみればそれが新鮮だった。暗くなるにつれ輝きを増すネオン。流れるヘッドライト―。ミャンマーをバカにするとかそうしたつもりは一切ないのだが、やはり夜の煌々としたライトには安心させられる。バスがワールドトレードセンター前に着くと、そこには切迫感のない土産物屋台が並び、欧米人オヤジとタイ人の姉ちゃんのカップルがブラブラ歩いたりしていた。そこからBTS(バンコク高架鉄道)に乗り換えれば宿はもうすぐである。
宿に着いた頃にはもう辺りは真っ暗になっていた。見知った顔のフロントのお姉さんは現地語で元気に挨拶してくれる。もう4度目のチェックインなので値段交渉も部屋の下見も必要なし。何階になるかは運次第だが、長旅の中でのこの安心感がたまらない。しかし、彼女はウチの妻にこう問いかけるのだった。「仕事は何?どれくらい休みなの?」大変痛い質問である。バンコクには俺達と似たような境遇の旅行者は掃いて捨てるほどいるはずなのだが、彼女の質問はあくまでピュアだ。そして核心を突いている。3週間おきにきっちり同じ宿に戻ってくる外人に対する疑惑の念が感じられる。で、面倒になった妻はこう説明したのだった。「1年間お休みなんです」・・・彼女はいったいどう感じたのであろうか。裕福な日本人?それとも日本に居場所のない日本人?まあ毎回きちんと金を払う上客なのだからこちらが恐縮する必要はまるでないのだが、何となく居づらい雰囲気になってしまったのも事実である。
今回のバンコクでの行動予定としては3つあった。(1)ラオスのビザを取得する。(2)いい加減ボロくなり果てた服を買い替える。(3)読み飽きた本を古本屋でトレードする。以上3点。観光するつもりなどハナから無し。あくまでインドシナのコンビニエンスシティーとして利用し倒そうというつもりだった。
翌日に早速向かったのはMBKセンター。バンコクの渋谷とも呼ばれるサイアム・スクエアーに隣接する商業ビル。中は区画ごとに個人経営の店がぎっしり詰まっていて、さながら秋葉原のラジオ会館(あそこほどゴミゴミはしていないが)といった趣である。ここには衣料品をメインに、アクセサリーや化粧品の類の店が多くあり、それから携帯電話店やら電器店やら床屋やら金行(華僑系の貴金属店)やら映画館やらスーパーやらファーストフードやらと、とにかく手に入らない物は無いのである。俺は早速妻の見立てでカーゴパンツとシャツ、そしてポシェットを買った。総額4600円余り。高いとお思いかも知れないが、そう。確かに高い。路上や露店市場、或いはタイ以外の第三国で買えばもっと安く上がるはずである。しかしバンコクで服を買う理由もまたあるのである。曰く、センスが段違い。俺にセンスを語られたくないという読者諸兄のご意見も尤もなのだが、やっぱり何だかバンコクで売っている服と他の国や都市で売っている服とでは何かが違うのである。口で説明するのはとても難しい所なのではあるが、まあそういうもんだと思いねえ。かくして俺は両膝の抜けたジーンズと生地のすっかり薄くなったシャツ、そしてすっかりすり切れたネパール製のポシェットから卒業出来たのである。日本人があまり小奇麗な恰好をすると狙われやすいというのもまた事実だが、それまでの俺は物売りも近づいてこないほどの見窄(みすぼ)らしさだったのである。これくらいの贅沢(?)は勘弁して頂きたいのである。
次にはラオスビザを申請することになったのだが、これがなかなか大変だったんである。隣国のビザを取得するにはその国の在外公館に行くのが王道。だがしかし・・・俺達の持っている地図にはラオス大使館が載っていなかったのである。住所だけは載っているのだが、一般の観光マップにはどこをどう探しても載っていない。トゥクトゥクかタクシーで行くしかないかと思いながら冒頭のお姉さんに聞いてみた所、ラオス大使館は遠いから自分で行くのは無理だ、ウチに入ってる代理店で取ったらどう、と言われる始末。で、お姉さんが代理店の人に訊いてみたところ・・・「カオサン通りに行ってくれ」とのお返事。いや、カオサンで簡単に頼めるのは分かってるんですってば。そこを何とか自力で行って安く上げるのがいいんじゃないですか。しかし訊けば訊くほどラオス大使館への道のりは遠い様子。以前もミャンマー大使館へ自力で行ったら何だか交通費がやたらとかかって結局代理店を通すのと変わらない金額になってしまった事を考えるとおまかせしてしまった方がいいのではないかという結論に達したのである。
そうと決まれば話は早い。俺達は前回ヤンゴン行きのチケットを買ったカオサン通りの旅行代理店(あまりに有名な日本人経営の店)へと赴き、ビザをお願いした。しかしこれが高いのである。15日ビザが600バーツ(約1680円)、これが30日ビザとなると途端に1500バーツくらい(うろ覚え、4200円ほど)になってしまうのだった。俺達は悩んだ。ラオス・・・実は始めは行く予定になかった国である。政情不安が噂されているし、年に数度は山賊が出て旅行者も構わず殺されるというスゴイ国。首都ヴィエンチャンだけちょこっと覗いて出て来ようとその時は思っていたので結局15日ビザをお願いして3日後の引き渡しを待つ事にした。
そこからは本当に何もする事が無かった。パスポートを預けてしまっているので他の街に出るわけにも行かず、目的(3)の古本屋めぐりも半日で済んでしまった。俺達は買った本を隅々まで眺め、毎日毎日懲りずにMBKセンターを冷やかして日々を過ごした。しかしそんな生活にもささやかな楽しみを感じられるのだから、我ながらたちが悪い。傍から見れば「暇なら帰って来ればいいじゃないか・・・」と思われるところなのだろうが、この街の栄えっぷりを見ているだけで、どこも観光しなくとも物凄い有難みを感じる事が出来るのである。何しろ路上に発電機がないのにそこここで電気を使いまくりなのである。それでいて停電が無い。何て素晴らしいんだ・・・インドやバングラデシュ、ミャンマーなどの国々では商売人は自前で発電機を持っているのは常識。それが停電になると一斉にうなりを上げるのが一種の風物詩となっているのである。そのひどい騒音は路上にいて話が出来ないほど。宿も変な所を取ってしまうとその音で眠れなくなってしまうのである。昼間電気が来ているだけで驚きという街も多いのだ。また、そうした発電機電源で充電池を充電してもイマイチ充電しきれないのも難である。恐らく規定の電圧が出ていないのだろう。部屋の白熱電球も暗くなったり明るくなったりしているし、そんな中でパソコンや充電器を使うのはかなりのスリルなのである。そんなわけで俺は電気の安定している国に来ると得も言われぬ解放感に浸るのである。
5日間のバンコク滞在のあと、俺達はまたしてもアユタヤーに向かう事にした。あまりタイを早く駈け抜けてしまうと予定している帰国時期まで時間が余ってしまうため、ここで少しブレイクといったところだ。タイという国は日本人であればビザ無しで1ヶ月滞在でき、おまけにちょっと隣国に出て、数時間滞在して戻ってきたりしてもそのビザ無し期間がまた1ヶ月付いてしまうのである。これを利用してちょっとカンボジアとかちょっとラオスとかを繰り返し、結果的にタイ国内に長期滞在している日本人も多いのである。ちなみにこれが韓国人になると1度の期間が3ヶ月になるそうである。何故なら韓国はタイからの労働者を公式に受け入れているからなのだそうで、これはなかなか考えさせられる問題である。タイ大好きパッカーとしては日本にも是非頑張って欲しいのだが・・・。
と、いうわけで俺達は先月に続き再びP・Uゲストハウスにチェックインした。何だか前回の旅と同じラインをなぞるのはつまらない様な気もするのだが、漫画本の魅力には変えられなかった。3日間をここで漫画喫茶しつつ、俺達はラオスにどのルートで入国するのか検討を重ねたのである。当然観光は無しで。
タイからラオスに陸路で入るメジャーなルートとしてはタイ北部のチェンコーンルート、もう一つはタイ東北部のノーンカーイルートの2つが挙げられるのだが、このどちらを選ぶかで今後の旅のルートが大きく左右されるのである。インドシナ半島の地図を広げて見てもらえばお分かりになると思うのだが、ラオスの首都ヴィエンチャンはタイ国境から極めて近い位置にある。ノーンカーイからならメコン川を渡ってしまえば1時間ほどでヴィエンチャンに辿り着いてしまう。勿論当初はそのルートをたどり、ヴィエンチャンとその近郊を見てまたタイに戻るつもりだったのだが、後に残っている国を考えてみるとそれは能率が悪いという事になったのだ。タイ→ラオス→タイ→カンボジア→ベトナム→帰国としてしまうと、もう殆ど見どころの残っていないタイで無駄に過ごす時間が増えてしまう。それから外せない理由としては、ベトナムOUTよりバンコクOUTとした方が帰国の航空券が安いという事が挙げられる。格安航空券市場が発達していないベトナムでは日本までの便が約500ドル(約55000円)ほどしてしまうのだが、これがバンコクであれば15000バーツ(約45000円)から買えてしまうのである。これは大きい。もう一つ言及しなければならないのは、冬の日本へ帰るための被服の都合である。中国・チベットまでは厳冬仕様で臨んでいた俺達なのだが、ネパール入りと同時にその装備を日本に送ってしまっているのである。その為現地で冬服を調達しなければならないのだが、何人かの旅行者の意見によればやっぱり服を買って帰るならハノイ・ホーチミンよりもバンコクの方が絶対に良いという話なのでこの点も見逃せない。・・・結局俺達はラオスも存分に楽しむ事にしてしまった。チェンコーン対岸の街ファイサーイからから南下してヴィエンチャンに至り、そこから国際バスでベトナムのハノイまで一気に移動。それから1ヶ月かけてホーチミンまで行き、また国際バスでカンボジアはプノンペン。それからシェムリアプでアンコールワットを見て、またまたバスでバンコクへ。そうすれば1月下旬にはバンコク発航空券がゲット出来てしまうという計算である。旅行者の行く所どこにでもバスは走るのである。実はここアユタヤーはそのチェンコーンに行くかノーンカーイに行くかの大きな分かれ道だったのである。
ルートは決まった。ほぼ前回と同じルートになるのはアレなのだが再びチェンマイを目指す事になる。アユタヤーの宿をチェックアウトし、意気揚々とバスターミナルに向かう俺達。朝10時のバス停には既に欧米人のバックパッカーの姿もちらほらあった。カウンターのお姉さんにチェンマイ行きの旨を告げて待てば、8時間後にはチェンマイに着いている、ハズなのだったが・・・折り悪くもその日はタイ全土で祝われるロイクラトーン祭の最終日。実家に帰るのだか何だか知らないが、普段は余裕で乗れる長距離バスが軒並み満員だったのである。1日に5本ほどあるバスを1本見送り、2本見送りとしているうちにすっかり昼下がりになってしまったのである。これはマズイ。よっぽどバンコクまで戻って予約を入れようかと思ったのだが(バンコク―アユタヤー間はバスで90分である)周りのタイ人はどうせダメだと言う。あれだけ居た欧米人パッカー達もいつの間にか消えている。どうしたものか・・・。夜行覚悟で粘り続けた俺達なのだが、そこに現れたのがタイ人女子大生。俺達があまりに長時間バス停に居るのを見かねて声を掛けてきてくれたのだったが、彼女の言によれば取りあえずナコーンサワンまで行けという。どうやら彼女もそこに向かうようだったので便乗する事にした。タイ中部の街ナコーンサワン。行っても何があるという所でもなさそうなのだが、地図上での「○」が大きいからそこそこの街なのだろう。その程度の理由で知らない街に行くのもまたオツなものである。
バスは見慣れた道をどんどん進んでゆく。ミャンマー辺りと比べ、これが同じ乗り物かと思うほどにタイのバスは快適だ。車体もベンツやスカニア(サーブ・スカニアのことか?)だったりするから侮れない。思わずウトウトしていると、僅か3時間ほどでその街のバスターミナルに着いてしまった。しかし、どうしようという宛ては全く無い。観光客が来る所でも無く、アジア名物の客引きも皆無だった。すっかり夜になっていたので弱り切っていたのだが、先程の女子大生(英語全くダメ)が手招きをして着いてこいと言う。着いて行ってみればそこはバスの待合所。すっかりこの街で泊まるつもりでいたのだが、どうやら彼女はチェンマイ行きのバスを探してくれているようだった。俺がそこで荷物の番をしている間、妻と彼女が何処だかに出て行った。どうせこの時期だから今日のバスは取れないだろうと思いつつ、近くにいた猫とじゃれつつ待つ事5分ほど。妻と彼女は見事21時発のチェンマイ行きの切符を持って戻ってきた・・・。有難やタイの女子大生。バンコク辺りで見るイケイケ女子大生とは一味違う彼女はタイ名物の女子大生制服を身につけてはいたのだが、上着には何故か日本の高校生みたいなジャージを着ていたなぁ・・・。しかし言葉も全く通じないのにここまでしてもらって、父ちゃんもう涙も出やしない、ってこのネタ分かる人はまだいるんだろうか。ずっと書いてるけど。
果たして翌日午前4時過ぎ、俺達はチェンマイの人となった。本当なら昨日の午後7時には着いている予定なのであったが、もう近頃の俺達にしてみれば驚くには当たらない。着いた当日に観光に走り回らなければならない人種とは違うのである。早朝なのにホテルの客引きが居るのに驚きつつ、俺達はソンテウで市街へ。するとどうだろう。例のロイクラトーン祭の余韻からか、朝5時にもなろうという時間なのに屋台が並び、人々が酒を飲んでいるではないか・・・タイの祭り恐るべし。ロイクラトーンとはクラトーンをロイする、つまり灯籠を流す祭りなので川沿いで行われるのだが、あまりの盛り上がりに思わず唖然とした物である。当然そんな時間帯に宿のレセプションが開いているはずも無いので俺達はターペー門というところで立ち往生となったのだが、その間にも謎のタイ人にビンごとビールを勧められたりしたのである。
2度目となるチェンマイでも一切旅行らしい事は無く、俺達は偶然部屋にあったNHKワールドの映るテレビに釘付けだった。インド・ムンバイー以来2度目の快挙だ。特別高い宿に泊まったわけではない(250バーツ)のだが、さすがは日本人の集まるチェンマイである。折しも衆院選(だっけ?)の前後。山崎拓落選に笑い、田中真紀子当選に溜め息であった。こういう時には1時間延々と流れる市況情報なんかもじーっと見てしまうから我ながら不思議である。ソニーの株価もNTTの株価も俺なんぞには全く関係ないにもかかわらず日本語であるというだけでひたすら見てしまう猿状態。まだ妻と2人旅だからいいようなものの、これが一人旅だったらどうなるかと思うと同時に、1人で半年、1年と旅を続ける人の根性に脱帽である。
俺の知る限り、タイにはアイススケートの出来る場所が2ヶ所ある。1つはバンコクのワールドトレードセンターの最上階。もうひとつはチェンマイのセントラルデパートの最上階。どちらの存在も以前から知ってはいたのだが、わざわざ熱帯でスケートなんかしなくても・・・という理由で放置していたのである。しかし今回は妻の強い要望と、あまりのヒマさ加減についにチャレンジと相成ったのである。何を隠そう、俺は日本でもスケートなどをした事は無いのである。それがタイでデビューというのだから末恐ろしい。
トゥクトゥクでセントラルに着き、早速最上階へ。ボーリング場と映画館も同じフロアにあるという相当大きな建物なのである。で、受付で80バーツ(うろ覚え)を支払って入場。タイらしからぬ冷気に目を覚ましてみると、そこでは何だかやたらと巧い地元民がスイスイ滑っていた。んー、タイにこんなにスケートの巧い人がいるとは。驚きつつも剣道の小手的臭いを放つ貸し靴を履きながら妻が言うには、「氷の状態はイマイチ。でも日本じゃこんなに空いてるスケート場なんてないわよ」との事。スケート事情の全く分からない俺にはちっとも分からないのだが、まあ有難い事なのだろう。
さっそく氷上へ。とりあえず立つ事は出来る。妻のひいき目か知らぬが、どうも初めてなのに立っていられるのは偉いのだと言う。うーん、そうなのか。しかしいくら押しても引いても周りのタイ人のような滑走っぷりにならないのには参った。だが、旅行中の身である。ここで大けがをしてはシャレにならないのでゆっくり歩きつつ80バーツの元を取る為に動き回る。周りの視線が痛い。本当に、何だか知らないがここに来ている地元民は皆やたらと巧いのである。ただでさえ目立つ外国人なのに、もし彼らがこの日本人がスケート初体験だと知ったら・・・。そう思いながらしばらく経ち、妻の肩に手をかけて少しずつペースを上げて行ったのだが・・・。やっぱりコケました。俺は尻を打っただけで済んだのだが、妻の方は尾てい骨の辺りを打つ重症。あまりの痛みとショックに貧血状態になり、それから30分ほどはスケート靴を履いたままリンクでうずくまっていたというていたらくで・・・。やっぱりタイくんだりまで来てスケートなぞするもんじゃないですな。結局妻の腰痛はラオスを出るまで治らなかったのだよ。お好きな方は割安で楽しめるんで是非是非。
そんな腰痛の思い出を残しつつ、俺達は次の街・チェンラーイへと向かった。ここからがやっと見知らぬ街だ。チェンマイからバスで3時間余り(うろ覚え。今回こればっかりだな)。ミャンマーにもラオスにもほど近い、タイ最北端の県都である。ここから行くタイ・ラオス・ミャンマーの3国境が接する場所、所謂「ゴールデントライアングル」へのツアーが定番になっているのではあるが、俺達はまあ地味に、市内に点在する寺院などを見つつ残り少ないタイの時間を堪能した。ここでは偶然にも?日本人経営の宿に当たり、俺達は備え付けの日本語書籍を読んだり、話したくて仕方なさそうな日本人オーナーを適当に躱しながら過ごした。この旅の間に、もう数十人単位の日本人と出会ったものだが、なかなか日本人に対する「間合い」は難しいと感じているのである。日本国内に暮らしていれば誰でも初対面の人にいきなり話しかけるなどという事はあり得ないのだが、海外に居るととりあえず日本人が気になって仕方がないのである。日本語が話したいという基本的な欲求は当然の事、韓国人にも香港人にも見えるあの人は誰?という疑問から誰彼構わず「こんにちは」と言うことになってしまう(向こうから話しかけられることもかなりある)のだが、お互い海外に浸っていたい時間というものがある。で、反対に日本人が恋しい時もある。どちらともなく会話を始めて、挨拶だけで終わってしまう人。夕食を一緒に食べる人。はたまたメール交換を始められる人・・・。全ての日本人と仲良くする義理もないのであるが、何となく日本人的感性からすると、こうした出会いは大切にしなければならない、でも何だか気恥ずかしい・・・。日本人っぽい人を見ると何となくむずがゆい気持ちになってしまうのは、海外に出た事のある方なら共通の気持ちだろう。
そんな事を考えながら、俺達はついにタイ・ラオスの国境の街チェンコーンに到着した。チェンラーイからバスで2時間ほど。いかにもタイの田舎という景色の中、ときに奇岩や尖った山などが見える道のりである。着いてみればまったく鄙びた街で、国境独特のワクワク感―交じり合う2国の人々や、国境で繰り広げられる貿易の景色―が全く無い。昼間だというのに人気(ひとけ)もまばら。商店の類も木造の粗末なものが多くなり、なかなかの趣である。とは言ってもタイの事。電気が来なかったり電話が無かったりする事は無いので御安心を。
この国境には橋は架けられておらず、人々は両国のイミグレーションを行き来する渡し舟で往来している。対岸はフエサイという名のラオスの街になる。俺達が到着したのは昼過ぎだったから、同日のラオス行きは諦めてこの街で1泊することになった。この街自体には全く見るものはない(強いて言えば、メコン川を挟んで間近に見えるラオスの景色があるが)のであるが、そうしたニーズに応えて数軒のゲストハウスが抜け目なく営業している。俺達はそこで暫く飲めなくなるであろう生の牛乳を楽しみつつ、先達が残して行った「情報ノート」に目を通したりしたのだった。各国の宿にこの手のノートがあるものだが、まあ大抵はその国内や近隣国の移動手段やら両替レート、お薦めの宿に穴場観光スポットの話で占められている。しかしここの情報ノートは一味違った。何だか大麻の話が多いのである。曰く、「ここの宿の主人と吸ったボン(大麻タバコを回し飲みする事をボンというらしいが、「回し飲み〜」は不明。一人でやってもボンなのだろうか?ちなみに梵と書く事もあるようだ)は最高」「ラオスの葉っぱは本当にモノがいい」「ラオスではヒマだったのでずっとキメてました」等々。この旅ではしばしばこうした話や売人に出会ったものだが、ここまであからさまに大麻の話ばかり書いてあるノートは初めてだったのでのけぞったものだ。そうか。ラオスの葉っぱはそんなにいいのか・・・。その類には手を出さない俺達にとっては関係のない話ではある。しかし、こうまで葉っぱ葉っぱと言われてしまうと、まだ見ぬ売人の群れに辟易してしまうのであった・・・。
翌日である。快晴の下、俺達は朝10時頃にはタイ側イミグレーションに到着していた。欧米人が3割、そしてタイ人・ラオス人が7割ほどの比率であったか。タイに別れを告げるべくパスポートを係官に渡して待つ事しばし。俺の最近の顔は髭が余りにも伸びまくり、パスポートの写真とあまりに違ってしまっているのでパスポートを行使するたびにドキドキなのであるがここは問題なく通過できた。カウンターのすぐ側は河原になっていて、すでに沢山の人を載せていた。40バーツ(うろ覚え)を払って早速便乗する。国境を行く船としてはあまりに粗末な木舟なのだが、わずか300メートルほどの旅である。水面に手が届くその船で5分すると、俺達は早くもラオスの土地に足を踏み入れていた。
ラオス側のイミグレで入国カードを書く。ビザに不備も無く余裕の入国である。そういえばここでも税関は全くフリーだった。タイ側では律義にも税関を探し出して目の前で待っていたのだ。周りの現地人に「行かなくてもいいよ」と言われたのだった。相変わらず陸路の国境ってヤツは・・・。あまりにのどかな国境の景色に思わずリラックスしていると、間髪入れずにボートの客引きが集まってきたのだった。
この国境からラオス入りした人は大体2つのルートに分かれる。ひとつは北東に進んで山岳地帯を目指すルート。そしてもう一つは今まさに渡ってきたメコン川を下ってルアンパバーン(ルアンプラバンとも書くが、本稿ではルアンパバーンに統一する)に至るルート。俺達は先述のとおり後者になるのでボートに乗らなければならない。しかしどいつもこいつもどこの国でも、イミグレの目の前で客引きをするのはやめていただきたいと思うのだがいかがなものか。ゆっくり考える猶予というものが欲しいのである。どこに行っても入国直後は勝手が分からないものだ。それを利用しようという魂胆が見え見えで腹立たしい。
しかしそれでも(!)俺達は値段交渉の末、1台のボートに乗り込む事となった。ルアンパバーンに行く船には高速船のスピードボート、川の流れに身を任せるかのようなスローボートの2種類があるのだが、俺達はあえてスピードの方を選んだ。値段はスピードの方が当然高くなるのだが、スピードがまさに全く違うのである。かたや6時間、かたや1泊2日。このスピードの秘密は後述するが、急ぐ旅でも無いのにスピードを選んだのは偏に妻の乗り物酔いのひどさゆえである。11時過ぎ、スピードの船着き場には旅行者が大挙していた。嗚呼ラオス。危険な国とはいいながらかなりの賑わいようである。すっかり冒険者然とした恰好の人あり、バンコクあたりからそのまま出て来てしまったような人もまたあり・・・。何だか緊張して損した感じなのである。しかしまあ油断は出来ない。危ないのは陸路での移動と言われているのだから。
何だかんだで1時間ほど待たされた後、俺達はそのボートと対面することとなった。幅80センチ、長さが10メートルほど。屋根も何も無い素朴な木舟に、中古車から外してきたと思しいトヨタのエンジンがムキダシで搭載されている。アジアではエンジンムキダシは当然の事とは言え、船に搭載されているのはトラクター用の中国製エンジンが常であった。が、ここではいきなりトヨタである。エンジンヘッドのツインカム16バルブの文字がまぶしい。何だかこうなると金が無いんだかあるんだか良く分からなくなってくる。ふと川面に目をやると、そのボートが堪え難い大音響とともに疾走してゆくのが見えた。ものの本によれば時速80キロ出ているのだという。乗客は全員ライフジャケットにヘルメット。数年に一度は浅瀬や岩にぶつかって投げ出される人もいるというから侮れない。売店でご親切にも売られている耳栓を買い込んで、俺達は静かに覚悟を決めていた。
かくて進水の時である。短いマフラーから発せられる爆音とともに船は進み始めた。数分後には最高速度に達したのであろう、物凄い風圧が襲ってきた。ヘルメットの風防がなければ眼鏡も飛ばされかねない勢いである。折角のメコンの景色を一気に流してしまうのは確かに名残惜しいものではあったが、このスピードとスリルは案外快感であった。河辺には大きな岩がごろごろと並び、山には緑が豊か。この間人影は多く見えたが民家はほとんど見られなかった。メコン川といえばいかにも雄大な流れを想像するものだが、この上流の景色は実に起伏に富んでおり、流れも結構早い。まだ侵食されていない野性味ある岩が立ち並ぶ景色を見ていると、確かにいつぶつかってもおかしくはないと感じた。素朴な木舟には椅子のクッションもないのであったが、そのことすら十分に紛らせてくれるスピードであった。
途中1度の休憩を経て、ルアンパバーンに到着したのは午後5時過ぎだったか。メコン川の水面に映る夕陽を旅行者が次々にカメラに収めるのを見ながら、俺達は河原から続く堤防を登り始めた。と、そこには早速トゥクトゥクと交渉を始める欧米人旅行者の姿があった。どうも値段が高いようで、随分揉めている様子。タイではこんな値段だったぞ!と言い張る欧米人に対して、ここはラオスだ!と叫び出すドライバー連。事実、この国のトゥクトゥク類の値段はタイに比べて1.5〜2倍である。旅行者は皆、ラオスに入国したばかりであったから構わず値切りに入っていたものだが、結局はラオスプライスにさせられていた。俺達はその欧米人の努力の成果に便乗である。やはり世界共通語の英語を操る連中は強いのであった。それにしても最後までラオスのトゥクトゥクは高かったなぁ・・・。
すっかり暗くなった市街。すんなりと250バーツの宿(ラオス国内では普通にバーツとドルで支払いが出来るのだ)にチェックイン。これがまたとても綺麗な宿で、ツインベッドにホットシャワー付。ラオスの宿をミャンマーやバングラデシュ程度に考えて居た俺達にとって、この経験はラオスの印象をすっかり覆してくれた。バイオレンスでハードボイルドな、バックパッカー風情など受け入れない国―入るまではそう思い込んでいたのだが、どうやら欧米人の間ではすっかりポピュラーになっている様だった。事実、ナイトマーケットには欧米人旅行者で溢れていたし、欧米人好みのカフェや宿が林立していたのである。流石は街全体が世界遺産になっている街だけのことはあった。インターネット屋も当然のように店開きしていて、ネットをすっかり諦めていた俺は3度ビックリである。スピードはそれなりなのであったが、どこの店でも日本語環境が整備されていて結構使えたのである。電気が来ておらず、冷たいものの飲めない国だという噂もあったのだがそんなことは全く無く、雑貨店にはタイ製のジュースや牛乳、ポテトチップスにチョコレートが平然と並んでいた。印象的にはミャンマーくんだりよりも余程進んでいる。
翌朝から市内観光を開始したのだが、この街はとにかく狭いのである。16世紀ものの寺院が80近くある古都なのであるが、主な寺院は1日あれば見切れてしまった。傾向としてはやはりタイ系である。黄金の仏像にやたら傾斜の付いた屋根の景色にははっきり言って食傷気味の俺達はダラダラモードだ。市場を見、博物館を見、街いちばんの山頂にあるパゴダからの景色を楽しんだのだが、どうにも盛り上がらない。あまりにも緊張が緩んでしまったせいか、あるいはルアンパバーンの居心地があまりに良過ぎたせいか。時間というのは快適な街であればあるほど長く感じてしまうものである。メシを喰うのに何十分も歩き、ミネラルウォーターのある店を探すのに一苦労・・・そんな街ほど逆に「居がい」があるものだが、ここルアンパバーンは全くそれらの正反対だったのであった。
それで俺達はルアン最終日、思い切ってトゥクトゥクをチャーターして地酒作りの街と洞窟、そして郊外にある滝を回ってもらう事にしたのだが、これはなかなか良かった。ラオス式米焼酎(?)のラオ・ラーオ作りの村では村人が実際に酒造りをする現場を見、メコンのほとりに忽然と現れた洞窟寺院を見学(日本人のツアーが来ていて多少煩かったのだが)。そしてシメには森の中に突如現れるセーの滝・・・本当にエメラルドグリーンの水を湛えた美しい所だった。でもそこにもやっぱり欧米人が水着持参で訪れていて、極小ビキニにモッコリパンツの姿で泳ぎまくっていたのには正直萎えたが・・・。
ラオスもやはり麺の文化圏である。インドシナ半島でこれまでにミャンマー・タイの麺に挑んできた俺達なのだったが、ここルアンパバーンで食べた「フー」と「カオピヤック」、「カウソエ」の味は特筆しないわけにはゆかない。これを執筆している時点ではすでにベトナム麺も食べている訳なのだが、どうもラオス1位の座は揺るがないようだ。これらの麺は魚のダシに米麺、と言う点では諸国の麺と変わらないのだが、何と言っても麺が生の讃岐うどん風なのが強かった。腰のあるうどん風の麺は日本人泣かせのシロモノである。他の麺は確かに米麺である事には違いないのだが、どうにも細過ぎたり、四角かったり、はたまた平たかったり固かったりでしっくり来ないのである。そこへ行くとラオスのこの麺は適度な太さ、丸さとも合格である。で、これを素うどん風にかけ麺で食べるのが「フー」、煮込みで食べるのが「カオピヤック」、かけ麺に辛味肉そぼろを掛けて食すのが「カウソエ」というわけ。いずれのメニューにもライムや万能ネギ、ライムにコリアンダーがたっぷりと付く。各種とも屋台で食べれば5000キープ(58円ほど。1キープ=約0.0116円、2003年11月現在)。この値段もステキだ。これらの麺はカウソエを除きラオス全土で食べられるのであったが、他の土地のものはどうも麺が乾麺でいただけなかった。アジアでウマイ麺を食べるなら是非ルアンパバーンへと申し上げておこう。
それからラオスという国は所謂ゲテモノ喰いでも密かに有名である。俺達はその噂を聞いて何度も市場に通ったのだが、売られている食材にはなかなか粋なモノがあった。川魚や牛、豚は当たり前の事ながら、カエル、リス、コウモリ、普通の小鳥や昆虫がそれに混じって普通に並んでいるのである。中でも圧巻なのはリスの薫製。毛をむしられたリスがエビぞり状態になったものがいきなり露天で売られているのはなかなか大迫力である。僅かに残った毛とやけに白く残った歯がリアルで居たたまれない。それでも地元の人は真剣に品定めしているのだから、きっとウマイものなのに違いない・・・試さなかったのだけど。
次の街にはポーンサワンを選んだ。シェンクアン県の県都であり、ここの郊外には「ジャール平原」が広がっている。ジャールとはフランス語で壺という意味。フランス植民地時代に名付けられたその名の通り、先史時代のものとも言われる壺が平原にただただ転がっているという不思議な土地である。その壺は棺桶だとも、酒造りの樽だとも、はたまた神がもたらしたものだとも言われているのだが、未だに真相ははっきりしていないそうである。ここもまたラオス観光には欠かせないスポットであるようだったので、俺達はバスで9時間の道のりを往く事にしたのだった。
ラオスの幹線道路は案外整備されていて、韓国製の中古バスもスイスイ走る。「KOREA INTERNATIONAL SCHOOL」の文字もそのままのバスには地元民が7割、我々も含めた観光客が3割ほど。スクールバスだけあって背もたれは低く、いわゆる普通の路線バス風情だったのだがなかなかの乗り心地である。しかし、なまじスピードが出るだけに連続するカーブでは横Gがもの凄く、とても「寝る」などとは言えない感じなのだが・・・。途中で子供を轢きそうになったり、突然鉄砲を持った兵士がヒッチハイクで乗り込んできたり、欧米人のお姉さんが下痢気味らしく何度もバスを停めたり(?)の他はすべて快適な旅であった。地元民でもかなり車に酔っていたが・・・。
他に全く見どころの無い街なので2泊の短期決戦だ。地元の人々もそれを心得ているようで、街のバス停に着くや否やカタコトの日本語を話すガイドマンが徹底マーク。俺達は相変わらず直前まで宿の事など考えていなかったので、とりあえず彼に付いてゆくことに。宿自体は5ドルほどの地味な宿でこれといった印象はないのだが、チェックイン直後からのツアーへの勧誘はかなりウザかった。お約束の日本人との写真に、日本人に書かせたツアーの紹介文。ウザすぎる。こういう所に来る日本人はなぜこうした商売目的で使われると分かっているのにこういう事をしてしまうのだろう?俺なら絶対に書かないのだけれども・・・。一通り聞くふりをして、どうやり過ごそうか思案する俺達。が、そこに現れたのがフランス人女性のソフィーである(カタコトの日本語もイケた。最初だけしか日本語使ってくれなかったけど)。彼女は別の席に座って別のガイドの勧誘を受けていたのだが、突然「英語話せる?」とこちらに水を向けてきたのだった。狙いはただ一つ。ツアーの参加人員を1人でも増やして、割り勘で安く上げようという魂胆だ。英語はイマイチだが、考える所は俺達も同じ。ふたつ返事で受ける事にした。するとあれよあれよと言う間に欧米人達が集まってきて激しい値切り交渉が始まったのである。彼らは英語に間違いがないだけに実に強気である。俺達はそれを黙って聞いているのみ・・・。押し切られるラオス人ガイドに同情すらしてしまう。
翌朝、俺達は1人7ドルでツアーに参加する事となった。件のソフィー本人は折り合いが付かずに他のツアーに入ってしまったのだが、情けない事に今回も欧米人に便乗しまくりの俺達。一人1,2ドル程しか儲かってはいないものの、この点に執着する欧米人パッカーの執念は驚嘆に値する。それに引き換え、多くの日本人パッカーが金でカタをつける方向に行ってしまうのは本当に苦しい事である。我々は・・・?面倒な所には行かない、歩ける距離なら歩く、日本語使いには気をつける、の3点を実践して無駄な金を払わないように努力しているところ。
ジャール平原。広い範囲に石壺が点在しているところなのだが、それが特に密集している所をめぐるツアーであった。幹線道路を行き、看板を目印に折れると道は一気に悪路へと変わる。平原といっても緩やかな丘陵地帯である当地は進むごとに違う表情を見せてくれる。ポーンサワンの中心部から30分ほどで、その第一の見どころである「サイト1」に到着した。するとどうだろうか。本当に、人為的に作られたとしか思えない高さ80〜140センチ、直径100センチほどの石壺が見渡す限りに点在しているのだった。その並び方は全く無秩序で、壺自体の人工さ加減とは対極をなしていた。これは確かに面白い。参加者は皆思い思いに写真を撮り、辺りを散策していた。まあこれもサイト2,サイト3と進むにつれ段々参加者の間に飽きが来ていた点は否めない。何しろ最初に最も数の多いサイト1を持ってくるのはいかがなものかと・・・。これから行かれる方へ。ジャール平原はサイト1だけ見ればお腹一杯です。
そして、俺達は噂の山賊街道(?)国道13号線を南下する事となった。ラオス国道13号線。最近の外務省「海外安全ホームページ」から引用しよう。「バンビエンからルアンプラバン県シェングンへ至る国道13号線及びその周辺地域:「渡航の延期をおすすめします」「同地域では、2003年2月以降、国道13号線を通行する車両等に対する襲撃事件が連続して発生しています。(イ)2003年2月6日午前8時30分頃、バンビエン市北方6kmの国道13号線上において、通行中の路線バスやピックアップトラック等の車両が次々とライフル銃による銃撃を受け、外国人3名を含む12名が死亡、26名以上が負傷しました。(ロ)同4月20日午前6時頃、ルアンプラバン南方約80kmのプークン郡付近の国道13号線上において、通行中の路線バスが銃撃を受け、少なくとも11名が死亡、30名以上が負傷しました。(ハ)同7月25日午前、カシー郡南郊の国道13号線上において通行中のトラックが襲撃を受け、ラオス人2名が死亡、3名が負傷しました。つきましては、これらの事件の発生背景等について明らかになっていませんので、治安情勢が改善されない限り、同地域への渡航は、目的の如何を問わず、延期することをおすすめします。」
この(イ)の件は旅行者の間でも噂になっており、皆が一応怖がってはいたのだが、結局周りに(欧米人も含めて)空路にしようという人は皆無だった。それはなぜか。まずは、我々が低予算命のバックパッカーだという点が一つ。地元のラオス人に聞いても「今は大丈夫だ」という点がもう一つ。後聞きになるが、あれは交通事故のようなものだと言っている在住日本人も居た。で、俺達も結局陸路。ポーンサワンのバスターミナルには朝7時前から欧米人がうようよいて、人間考える事は皆同じだという事が良く分かった。
で、結局出発。一応「安全だと噂されている」VIPバス(とは言っても値段が1〜2ドル程しか違わず、僅かに水とクラッカーのサービスが付くだけなのだが)に乗り込むと、お約束通りの給油タイムだ。アジアのバスは何故かどこの国でも客を満載してからガソリンスタンドに行くのは何故なんだ・・・!13号線はラオスの主要都市を結ぶ幹線道路だけに、道はすこぶるきれい。バスはどんどんスピードを上げ、見える景色はのどかそのもの。物々しい点はと言えば、道端にやたら兵士が立っていることと、バスに入れ替わり立ち替わり兵士が乗り込んでくる点。しかし道のりではバスの残骸と思しきものが残されていて、その上に兵士が乗っかっているという光景も見たし、この後ヴィエンチャンに着いてから人に聞いた話ではこの道のりで刺殺体を見たという人も・・・!これはバス襲撃事件と関係あるのかどうか分からないのだが、とにかく恐ろしい道のりである事は確かだった。この旅で3本の指に入る難所である事は間違いない。
しかしそれでもバスは無事次の目的地、バンビエンに到着。首都ヴィエンチャンからは4時間ほどの気楽な観光地で、ここ数年で随分整備されたのだという。ここはルアンパバーン以上にどうしようもなく欧米化された街で、目抜き通りには無数の「PIZZA」の看板が並び、インターネット屋ももちろん完備。どう見ても供給過剰なゲストハウスが立ち並び、あたかも米軍基地周辺のような景色が広がっていた。もうここまで来ると、ラオスが旅行しにくい国だというのは完全に嘘になる。宿も3ドルからツインがとれて、その気になれば何でも食べられるこの街を見ていると何だかいいような悪いような、昔のラオスを旅した人に申し訳なくなるような気持ちになってしまう。ちなみにこの街での見どころはまたしても洞窟、そして「ラオスの桂林」と呼ばれる尖った山々である。元気な人にはトレッキングやカヤッキングも用意されているが、俺達は当然無視である。
この街ではひたすら脱力して過ごした。洞窟はなかなか良い所。しかし2度行こうと思うかどうかは・・・?と、いうわけで俺達は出会った日本人と飲んでみたり、ひたすらネット屋に入り浸ったりしていたのだが、そこに現れた日本人、通称H氏の話はなかなか凄かった。Hから始まる通称のこの男性の事を知っているラオス通過者は数多く、これを書いているベトナムにも「彼に会った」という人が居たのだが、彼の素性にまつわる話は旅行者の間でも噂が噂を呼ぶ状態になっているのである。彼について分かっている事は、「電気関係のフリーのエンジニアである」「ラオス人相手に金貸しをやっている」「世界数カ国に愛人がいる」「ラオス北部山岳地帯に愛人がいる」「今の正妻?とはヴィエンチャン近郊の村に家を持って暮らしている」「日本人の妻とは別れている」「日本で上尾市に住んでいた事がある」等々。彼はそんな生活の中、一時の安息を求めてラオス各地を旅しているのだが、どうも愛人の縛りにあってラオス国外に出る事は禁じられているらしい。というか女がいるならそこに居ればいいのに・・・?そこで色々な街に滞在しては日本人バックパッカーを捕まえてこうした武勇伝を聞かせたり、はたまた彼独自のラオス人脈を駆使してそうしたバックパッカーを少数民族の村にホームステイさせたりしているそうなのだが、どうも、何かこう、ウサンクサイので、ある。決して悪い人ではなさそうなのだが、ラオスの桂林を見ながらそうした話を3時間近く聞かされるのはなかなか微妙な体験だった。彼ほどの人にはまだお目にかかっていないが、タイにもこういう人種がいるので要注意、である。
そんなバンビエンに3日滞在し、俺達は首都ヴィエンチャンへと向かう事にした。早朝7時のバスに乗り込み、前日の睡眠不足のお陰ですぐに眠りについたから到着はまさにあっという間。2ヶ月に1度は爆弾テロが起きる(!)タラート・サオバスターミナルに到着すれば、あっという間に客引きに囲まれた。飯を食うから、と巧妙に客引きを巻き、フーを喰いながら宿を考える。相変わらず高いトゥクトゥクに乗り込んで15分ほどで、俺達はこれから5日間滞在することになる宿へ辿り着いた。
チェックインするや否や、一人の日本人がロビーへとやって来た。もう何だかラオスに来て以来5人目?いや9人目?の日本人である。旅行先としてはまだまだマイナーなラオスではあるが、それだけに旅行者の行動範囲が限られている。だから日本人密度は必然的に高くなってくるのだ。で、彼は俺達の国籍を試すように「こんにちは?」と声を掛けてくる。俺達も「こんにちは」と返事。聞けば、彼は某国立大学の博士課程の学生さん。大学では文化人類学を研究しており、今は大学の研究プロジェクトのためにラオスに滞在しているのだという。日本とラオスを行ったり来たりでなかなか大変そうだ。日本に彼女を残してきているのだそうで、この辺も夫婦バックパッカーには実感できない苦労っぷりだ。その宿にチェックインして以来、彼と意気投合した俺達は毎日のようにビアラーオ(ラオス唯一の国産ビール)を飲み、近所の市場で買ってきた総菜を喰っては色々な話をしたものである。
ヴィエンチャンの町自体はとても小規模なものだ。いろいろな所に書き尽くされていることではあるが、高層ビルの類はほとんど無いし、どんな国でも首都には取りあえずあるデパートもここには無い。見どころとなる寺の類も殆どが街の中心にあるのですぐに見てしまえるし、あるガイドブックの言をそのまま借りれば「貧相な首都」この一語がまさに相応しい街だった。ベトナムビザの申請のために早めに入らねばならなかったので結局5日居てしまったのだが、そのうち2日は本当に全くする事がなかったのである。
しかし、その何も無さが気持ちいい街でもあるのである。旅行者に必要なものは大通りに出ればすぐ見つかるし、旅行者の気持ちをくすぐる生ジュース屋も安くてウマイ。スターフルーツやドラゴンフルーツのシェイクなど、日本でのその果物1個の値段を想像するだに恐ろしいものが5000キープで飲めたりする。またADSLを引いているネット屋もあったりして、ベトナムに渡る前の小休止にはうってつけではあった。夕刻にはメコン河畔に出る。観光客相手に店開きしている屋台に毛の生えたような店を選んで腰をかければ目の前に夕陽が見える。小舟が行き来する光景を見ながら飲むジュースは場所代が加算されてかなり高めだが、夕陽狙いの外国人で結構賑わっていたりする。どうにもヒマでたまらない時にはラオス最大の市場・タラート・サオへ。蜂の巣をそのまま持ち歩く蜂蜜売りや、ご当地のビデオCD店なんかを冷やかしていればあっという間に時間が過ぎてゆく。
ミャンマーで出会った日本人はこう言っていた。「ラオスには何も無かった」と。確かに何も無かったのかも知れない。正直、他の国よりも「これぞ!」という見どころに欠けるのは否めない。しかし、いまいちメジャーになりきれない理由を個人的に考えてみるのだが、それは不思議と思い浮かばないのだ。治安状況を抜きにすれば、豊かな自然と人の良さ、物価も安いし食べ物も悪くない。内陸の国だから行きづらいのか?それならネパール辺りとて同じ事。タイの続きと思われてしまう?それは確かにあるのかも知れない。しかし、2週間の滞在ではあったがラオスはなかなかどうして濃い思い出を残してくれた。それは何よりも、地元の人々と各国の旅人が残してくれたものなのかも知れない。そう思いつつ、俺達はヴィエンチャン―ハノイ行きのバスに乗り込んだ。
2003年12月9日 ベトナム ハノイ Tu Linhホテルにて
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