2003年8月22日。折からの雨に濡れながら、俺達はカルカッタのシアルダー駅に到着した。郊外列車の切符売り場はまあ相変わらず混んでいる。親切なのか、それとも下心からか、片言の英語で切符の買い方を指南してくれるオヤジ。はたまた堂々と、当然のごとく喜捨を要求する物乞いたち。そこにはもう70日以上にも亘って慣れ親しんだインドの光景があった。彼らをいなしながら、俺達は来るべきバングラデシュの光景に思いを馳せる。そう、俺達がこれから買うのはバングラデシュへの国境行きの切符だったのである。ここカルカッタから80キロ余り、バンガオンという街が今回の目的地。インドとも一旦お別れだなぁ・・・という感傷がそこにはあった。
インドには何故か女性優遇席というのが発達している。バスの前の方には「ladies only」の表示があるし、列車には「ladies coach」。そしてこの列車の切符売り場にも「ladies
counter」があるのである。まだまだ男性優位なインド社会ではこうした公共の交通機関から女性を守ってゆこうという思惑があるようで、がら空きのそれら女性枠を見るたびに不思議な心持ちにさせられていたのだが、今回は周りにいたオヤジの助言もあって妻にladies
coachに並んでもらって切符を買ったのである。おかげでとてもスムーズに事が運んだのだった。ちなみに切符売り場の場合は連れが男性でも関係ないらしい。最初からこうしとくんだった・・・。インドには随分長い事居たのに誠に勿体ない。
そんなこんなで、それからもホーム番号を出鱈目に教えられたりしながらようやく目的の列車に乗り込む事が出来たのだが、どうも様子がおかしかったのである。インドの郊外列車というのはいわゆる近距離を走る自由席専用の列車。皆様の予想に違わず、そうした列車には人が鈴なりになっているわけなのだが、俺達の乗り込んだシートの周りは妙に空いていた。列車を何両も見送り、数百メートルも歩いて乗り込んだのだから当然と言えば当然だったので、俺は別段気にせずに出発の時を待ったのであるが・・・臭いのである。ウ○コの臭いがするのである。だが、しかしである。困った事にウ○コ臭いのもまたインドの日常。道端の公衆トイレからはきっついアンモニア臭がするのは当然だし、牛糞の臭いは日常茶飯事。インド全体を除臭するには一体何本の「消臭ポット」と「ファブリーズ」が必要になるだろう?俺はこれまた気にしない事にして、走り出せば勝手に治まるだろうと思っていたのだが・・・臭いのである。走り出そうが雨が降ろうが。おかしいな、と思いながらもしばらくは身を任せていたのだが、俺はふと床に置いたザックの位置を直して絶句した。そこには何と産みたてホヤホヤの人糞様が鎮座ましましていたのであった。慌ててザックの底を確認すると、とりあえずは異状なし。悪運の強さに感謝しつつ、俺はそっと近くの席に移ったのである。中国の列車では人尿攻撃を喰らったものだが、さすがは悠久のインド。スケールが違いすぎるぜ・・・。
それからの旅路はひたすら「その席に座るヤツがいるだろうか?」という観察に費やされたことは言うまでもない。そこら中にウ○コが落ちている国の人々は、案外この事実も平然と受け入れてリラックスした旅をエンジョイしちまうんじゃないかと俺は危惧していた。・・・果たして列車は次の駅に近づいていった。窓越しに珍しく空席を発見した人が喜び勇んでその席に近づいてくる。しかし、全員がウ○コの存在に気付くと「ヒャッ」と小さな声をあげて飛び退いてしまうのだった。停まる駅停まる駅でこのドラマは繰り返されたのである。終いにはその席のそばに陣取ったオヤジが「そこ、ウ○コあるよ」と教えている始末で・・・。貴重なインド列車の空席はこうして最後まで孤高の存在でありつづけたのであった。インドでどうしても列車の席が欲しい時は、コレだな・・・。
そうしている間にも列車は市街地を抜け、車窓の景色を田園模様にどんどん塗り替えてゆく。ヤシの木と、地平線まで続く水田。南インドでもヤシだらけの景色は見たものだが、ここベンガルの景色は水田が基本になっている為に建物さえなければいかにも「日本の夏」といった趣。ウ○コと顔の濃い人々さえなければすっかり日本しているのであった。
そんな列車に2時間揺られて、俺達はバンガオンの駅に着いた。これまで見慣れたターミナル駅とは違い、周囲には何もなし。小さな雑貨屋と食べ物屋が点在する、何の変哲もないインドの田舎町だ。ここからバングラデシュに行けるという理由がなければ、外国人は間違っても来そうにない。そんな街。それでもそんな思惑を知ってか知らずか、インド名物のリクシャマンがさかんに声を掛けてくる。この駅から国境までは3キロほどか。しかも交通手段はリクシャーしかない。俺達はありあまるリクシャーを尻目に昼飯を喰い、足元を見られながらあるリクシャーに乗り込んだのだった。
やたらとパワーのないオートリクシャーからはインド辺境の景色が見えた。駅を離れれば案外栄えている街の様子、相変わらず派手なクラクションを鳴らして走り回るインド製トラック、果てにはインド初の「手を上げての」ケンカまで目撃してしまい、何だか最後に貴重なものを・・・と思っている間にハリダスプルという所に着いたのである。ここがインド側最後の地点で、ここの国境ゲートをくぐるとバングラデシュ側の街・ベナポルとなるわけである。今回はインド・ネパール間とは違い緩衝地帯が短いので自力で歩いて国境を渡る事が出来る。俺達はリクシャーを降りるとインド側イミグレに入ったのだった。
国境付近では多かれ少なかれ人々の顔が変わってくるものだが、この印バ国境ではそんな変化は全く見られない。元が英領インド、その後東パキスタン時代を経て1971年に独立したバングラデシュという国にはベンガル人が住んでいるわけなのだが、これはインドのウエストベンガル州にいる人々と同じ人種。これがヒンドゥー教とイスラム教に分かれて出来た国境なのだからそれも当然か。言語もウエストベンガル州と同じくベンガル語である。(バングラ=ベンガル人、デシュ=国、ベンガル人の国という意味だそうである)
インドの素っ気無いイミグレと税関を抜けて、いよいよバングラデシュ側に入国。するとまあ、何だか税関がやたらとフレンドリーなのである。「へー日本人か。結婚してんの?」「日本とバングラデシュはフレンドだからー。」とか、およそ他の国では考えられない雰囲気で通関が進むのである。この間、書類の記入も何もなし。最後に「手持ちの金を見せてもらう」と言われて少しドキリとしたのだが、税関マンは俺自身に札を数えさせ、ホー、1100ルピーと2000タカか。と言ったきり。「じゃ、しまっていいから」・・・一体何の意味があったのだろう?この後のイミグレも同じ調子で、俺と同じくらいの年配の男が片言の日本語でテンション高く迫ってきた。俺達はバングラデシュという国の不思議さとアバウトさにすっかり釣り込まれてしまっていた。
イミグレを出るとバングラ世界。目に付いたのは「HINO」のエンブレムを付けたトラックとバスである。インド側には全くなかったのに、国境を渡った瞬間にHINO、MITSUBISHI、TOYOTAのオンパレード。インド車がいきなり見えなくなったのだ。それから感じたのが人々の視線。かねてより聞いていたのだが、ツーリストがまだまだ少ないこの国ではビシバシと好奇の視線が刺さってくる。これがバングラの醍醐味だよと人は言うものだが、この好奇心にこれ以降何度も翻弄される事になるのである・・・。
さても客引きに付いてゆき、首都ダッカ行きのバスを待つ事になった。この間も人々の視線は外国人である俺達にくぎ付けである。4時間後・夜8時発のバスチケットを260タカ(1枚)で買うと、俺達は薄暗いバス待合所に通されたのだった。そこでは数組の老夫婦があてどもない時間を過ごしていた。俺達も早速空いているそこでボーっとしていると、様々な物売りがやってきた。グアバ売り、チャーイ売り、はたまた携帯電話掛けさせ屋・・・。そいつらに構っているうちにあっと言う間に時は過ぎ、バス乗車の時刻がやってきた。
運転席の脇になぜかレオナルド・ディカプリオのポスターが張ってあるバスはHINO製。シートもこれまでに乗ってきたバスとは異次元の座り心地で、快適な旅が出来そうな予感がした。ものの本によれば、この国の道路は各国の援助によってかなり整備されているのだという。これは後からの感想になるが、まったくその通り。なまじ自分で出来てしまう中国やインドよりもそうしたインフラがむしろ整っているように感じてしまうのは皮肉である。起伏の少ない道を日本車で走っている限り、日本の観光バスと同じ気分でいられるのは凄い事だ。
そんなバスが夜道を走り始めた。辺りは街灯一つない漆黒の闇だが、見える道路の周りはいたって綺麗。というのも、これまで見慣れてきた路傍の牛やら牛糞やら生ゴミが一切ないのである。顔は同じだがここはイスラム国。某インドと違って牛をバクバク食べてしまうからそうした弊害とは無縁だったのだ!宗教の事を云々する資格は俺にはないが、異教徒にしてみればやっぱり路上にウ○コは落ちていない方が有難いんである。
ダッカまでは6時間だと言う。夜8時発という事は・・・午前2時着?いきなり初めての国でこんな時間着という事に俺は戸惑ったが、乗りかかった船である。あまりに快適なバスの乗り心地に俺は船を漕ぎ始めていた。傍らの妻もそんな調子である。こういう寝方をすると大体1時間に1度は目が覚めてしまうのだが、午前1時頃、微妙な揺れに目を覚まして驚いた。何とバスごとフェリーに乗せられて川を渡っていたのである。さすがは川の国。今では大分橋が架けられたそうだが、やはり人々の主な足は船だと言う御託を思い出していた。
そして、バスは2時間余り遅れてダッカ市街へと入って行った。午前4時。人々がそれぞれ自分の目的地を指定して降りてゆくのを尻目に、俺達は弱り切っていた。バスやら何やらには終点まで乗ってゆき、宿は歩いて探そうと企んでいたのに、こんな早朝に放り出されては打つ手がない。車掌が気を遣って俺達に目的地を聞いてくるのだが、そんなものはあってないようなものだ。バスはどんどん乗客を吐き出し、ついには俺達2人だけになってしまった。うーん。逡巡していると、今度は車掌がこう切り出してきた。「朝6時20分まで休憩するから、それまでここで寝てていいよ(英語)」有難い。薄明の中、うっすらと見えるダッカの街をこれからどう攻めようかと考えながら浅い眠りに入った。
バスは再び動き始めた。どうもダッカ中心街にあるバス車庫に向かっているようだった。パッと見にはインドと変わらない朝の喧騒。手元にあるガイドブックの素っ気無い地図を頭に思い浮かべながらその町並みを見ている間に・・・バスはまったく訳の分からない車庫に入れられてしまったのだった。だが、バスの人は悪くない。俺達はただ目的もなくかの国を放浪しているだけなのだから・・・。
仕方なく、サイクルリクシャーを拾う事にする。というよりもバス車庫を出た瞬間にリクシャー5台と物乞い1名が群がってきて「拾う」という趣ではなくなってしまったのだが。インドでは利権目的で外国人に近付いてくるリクシャマンが非常に多かったわけなのだが、ここバングラのリクシャーはただただ好奇心のために多数が近付いてきてしまうのである。事実、リクシャマンは殆ど英語を解さない上に、ジーっと、ただただ見詰めてくるだけなのである。で、こちらが目的地を1台のリクシャーに申し付けるとどよめきが起きるのだ。インドであれば「俺に」「俺に」と袖を引っ張られて大変なことになるのであるが、バングラでは商売抜きでただただ「外人が見たい!」というピュアな魂が伝わってくるのが面白いのだ。
そんな1台のリクシャマンに適当なホテルの名前を告げてみる。・・・分からない。それではと中央郵便局の名を告げると、「わかった」と勢い良く走り出した。一番若そうなヤツを選んだからなかなかのスピード感である。朝6時半のダッカ市街はまだまだ空気も澄んでいて、WHOが世界一大気汚染のひどい街と認めた(らしい)ことの片鱗も感じられない。これならインドと全然変わらないんじゃないか・・・などと思って居る間にリクシャは目的地に到着した。しかしである。ここいらにホテルが何軒かあるはずなのだがどうにも見当たらない。一体どうしたことだろう?またも途方に暮れていると、こんな早朝なのにもかかわらずアフリカンの男が流暢な英語で話しかけてきた。「Whatユs
you want?」英語を解さない人々の中では渡りに船である。俺達は「チープホテルだよ、チープホテル」というと、すぐ目の前のホテルをあっけなく教えてくれたのだった。するとそこが、他でもない俺達が向かおうとしていたホテル。やっぱり世の中は狭い、とまたも実感させられたのである。
バングラデシュにはどんなホテルがあるのか、それこそ行ってみなければ分からなかったのだが、インドのそこら辺の安宿よりもよほど快適だ、と言うのが印象である。バングラにはツーリスト専用のホテルというのはほとんどなく、地元や隣国インドの商人向けの「商人宿」然とした宿が多いのである。そうした宿は貧乏バックパッカー向けではないから、勢いドミトリーもないしファンと水シャワーくらいは約束されている。電話が置いてある場合も多い。(実際にかかるかどうかはまた別だが・・・)バングラと聞いてもっと壮絶な世界を想像していたのだが、下手なインドの宿よりも綺麗な宿に泊まり続ける事が出来たのである。まあインドよりちと高めなのが何だが。その宿はセミダブルが270タカ。シャワーとファン付きである。(1タカ=約2.2円)
宿にザックを降ろすと、俺達は早速早めの朝食を摂ろうと周囲をウロウロしだした。チャーイ屋、甘味屋、カレー屋・・・。主なラインナップはインドとさして変わらない。ただ違うのはインドと違って「肉」を前面に打ち出している所だろうか。たまに「NO
BEEF」と大書してあるヒンドゥー教徒向けの店もあるにはあったが少数派。魚のカレーも楽しめそうだった。しかし、早朝だったのできちんとした店はまだオープンしておらず、俺達は仕方なくバングラ式チャーイ屋でチャーイと軽いビスケットを食べるしかなかったのであった。茶葉を牛乳と一緒に煮込んで作るインド式チャーイと違い、当国のチャーイは紅茶は紅茶でブラックのまま入れ、注文に応じてそれにコンデンスミルクと砂糖を入れて作る方式だ。んー、コレはコレなのだが、チャーイはインド式の方が旨いかも。そして宿に戻った俺達は夕方まで寝直したのであった・・・。
新しい国に来たらまず何よりも大切なのが、観光よりも何よりもまず周囲の土地勘を掴むことである。リクシャーやタクシーに乗って一通りの観光スポットを回りきってしまうのも一案だが、周りの様子も分からないうちにそうした移動を繰り返すと知らぬ間に遠回りなどされて散財してしまう事が多いからだ。それに、市場などで細かい買い物をして物価の様子を知る事も出来る。外国に長い事いるとすっかりこちらは地元感覚になってしまうものだが、知らぬ間にソフトにボラレて居る事も多いのだ。そんなわけで翌日から俺達はひたすらブラブラ過ごす事にした。
ダッカの街は、思ったより広かった。そしてここが世界最貧国だとはにわかに信じられないほどの繁栄ぶりを見せていた。またもクルマの話になるが、110系マーク2やRXム7は当たり前、乗用車はインドの首都を走っているモノよりも全然キレイ。悪名高いオートリクシャーもCNG仕様に漸次入れ替わっているようで、新車もかなり走って居たし、タクシーにはきちんとデジタル式メーターが装備されており、実際にメーターを使って走ってくれるのは感涙モノだった。インドのタクシーには泣かされたからなぁ・・・。車外のミラー側にあるアナログ式のメーターを倒してくれないのは当たり前。価格は全て乗り手の気合いと運転手の機嫌と渋滞の具合で決まるインドタクシーとは雲泥の差である。それから先にも述べたがウ○コが落ちていないから道路がキレイ。まあ時には生ごみ溜めのようなところにぶち当たるのだが、それでも臭いも蝿の数はインドより少ないのだった。・・・んー、豊かさって何だろう。まあ当然のこととして物乞いもいるのだが、カルカッタ辺りの物乞いより悲愴感が少ない。「何だ、バングラっていい国じゃん!」という意見で俺達は一致したのだった。
オールド・ダッカを歩いてみた。川沿いに広がるダッカの中心地。腰巻き(ルンギ)を巻いた男達、ブルカ(ムスリムの女性が被るベールですな)の女達。インドのようで居てそうでない町並みはやはり新鮮だった。確かに工業製品の不足は感じたのだが、野菜、肉類の種類と量は圧巻。特に河川国バングラデシュの象徴である川魚はどこでも手に入る感じだった。コイやイリッシュ(日本語で何と言うかは知りませぬ)、川エビ・・・。魚介類がどんどん視界に入ってくるのは南インド以来。こいつは旨そうだと騒ぎながら練り歩いたのである。カメラをちょっと取り出したら好奇心旺盛なベンガル人にたちまち取り囲まれて記念写真を撮らざるを得なかったのには驚きだったが・・・。
まぁ、暑い中での話である。日ごろより美白へのこだわりを見せている妻は日焼け止め塗り直しタイムに突入した。日本から1ダースも持ってきた日焼け止めの1本を取り出し、通りの隅で塗り始めたのだが、これがスゴイ結果を呼んでしまったのである。次第に集まってくるベンガル男達。始めに1人、そして2人・・・と集まり出し、しまいには7,8人がこちらを遠巻きにして見守っているのである。いや、何が起きたと言うわけではないのである。どうせ言葉も通じないし。しかしまあ、日焼け止めが珍しいのか、それとも外人女が顔面に何か塗っているのが珍しいのか、ひたすら男達に見詰められながら日焼け止めを塗る妻は強ばっていた。本当に、あの黒い肌と白い目のコントラストで見詰められるといつファイトを仕掛けられるのか?という気持ちになってしまうのだったが、実際は見詰められていると何かと便利な面もあったりするのである。道も聞けるし、便所にも連れて行ってくれるし、まあ便利なのは便利なのだが、こう暑い中で用もないのに見詰められても・・・。向こうも飽きてきたようで最後の方では3人くらいに減ったのだが、「本当に外人って珍しいんだなぁ」との思いを新たにしたのだった。
結局ダッカでは観光らしい事はまったくせず、俺達は3日を過ごしてチッタゴンに向かう事にした。ダッカ第2の都市。外国貿易の窓口となる主要な都市だ。バングラデシュにはイギリス植民地時代に作られた鉄道が走っているのだが、旅行者にとっての利用価値は低いと言えよう。主要都市に立ち寄る事は立ち寄るのだが非常に迂回して行かねばならないし、本数も1日10本ほど。時刻表のシンプルさには涙させられる?そんなわけで俺達はインドと同じく国中を縦横無尽に走り回っているバスを利用する事にして、バススタンドに向かったのだ。
インドのそれよりも混迷を極めるバススタンド。砂ぼこりの中秩序なく並ぶバスと、地名を絶叫する客引きたち。バスに乗らないくせにウロウロしている子供と老人、その間を頭に商品を載せて歩く行商人。犬はうろうろ物乞いはうろうろ。インドに長い事居たからさしてカルチャーショックは受けなかったものの、初海外がバングラ(そんな人がいるのかどうかは知らんが・・・。)という人だったらきっと居たたまれないことだろう。こういう時はもう流れに任せるに限る。俺達はほぼ無言のまま客引きについて行きチケットを買ってバスに乗り込んだ。ダッカに来た時と同じく日本製バスだ。こんなスタンスでうまく行ってしまうのが不思議に心地よい。
何故だか竹の棒でバスの車体をビシバシ叩く集団を横目に見ながらバスは出発した。ダッカの渋滞は一筋縄では行かない。何しろ、北海道の2倍ほどの面積に1億3000万人(?)だかが住んでいる国である。もう溢れ出んばかりに人を搭載した車が路上を満たしているのだ。まあ急ぐ旅ではない。和製バスの乗り心地に身を任せていると、いつの間にかバスは田園地帯に入っていた。ベンガル人は米を食べる民族である。良く整備された水田が地平線の彼方にまで広がり、その間を縫って無数の沼がある。人々はそうした沼や川に杭を立て、その上に板張りの住居や店舗を構えている。時たま通り過ぎるバザールから聞こえてくるのはアザーン。イスラム教の祈りの合図だ。とはいっても後聞きになるが、ここバングラはハードコアなイスラム国とは違い、礼拝の時間だからと言って街に人っ子一人居なくなるという事はない。酒も闇では手に入るそうだ。
そんな景色が再び街に変わってきた。6時間後のことである。チッタゴン郊外には船舶解体所から運ばれてきたエンジンやら船舶部品のガラクタ屋が多く、ここから街に入るのだという事を知らせてくれる。そして、街に入ってしまえばそこにはダッカと変わらぬ街の姿があった。高層ビルこそ建っていないが、人の数にまたしても圧倒される。俺達は終点で降ろされると、車掌の強い勧めで目の前にあったホテルに投宿した。
そこにはやたらとフレンドリーなフロントマンとルームボーイが居た。久々の外国人の来訪に浮き足立つ彼らは、もうバングラで何度繰り返したか知れない質問を俺達にぶつけて来た。「結婚はしているのか?」「仕事は何だ?」・・・特に、結婚しているか否かはバングラ人にとっては非常に重要な事らしい。未婚の男女が同室するなどとんでもない、と言う考え方があるようだ。同様に、女性の一人旅もこの国では厳しいそうだ。女性一人だと泊めてくれない宿もあるそうで・・・。それからこの国では、宿帳に父親の名前を書かされる・・・何故だ、何故なんだ。そんな疑問をよそにフロントマンは俺達のファミリーネームが同じなのを確かめると、安心した面持ちで部屋へと案内してくれたのだった。
ダッカの時よりもいくぶん広い部屋。4畳半ほどしかない部屋と比べればこちらはもう快適そのものである。いくら安宿に慣れきっているからといえ、狭い部屋は気が滅入る。窓がなかったりしたら最悪だ。その点でこの宿は合格だったのだが、ボーイが煩かった・・・。部屋に入るや否や、やたらとチャーイを薦めてくる。取りあえずは着いたばかりで空腹気味だったので頼んだのだが、それ以降3日間、朝な夕なにドアを激しくノックしながら攻めてきたのである。勿論狙いはチップ。ただでさえ市価より高いチャーイなのに、さらにそれと同額のチップを払わされるのではたまらない。「Iユm
poor man!」貧乏を売り物にするのはいかがなものかと思い、なるべく注文には応じなかったのだが、総額では結構なチップをむしりとられてしまったのであった。大体、英語が出来るというだけでかの国では立派なのである。そういう輩に限って自分の貧乏さを精いっぱい伝えてくるのには頭が痛かった。もっとも、英語が話せない人々もそういう思いを抱いているには違いないのだが・・・。
チッタゴンでもダラダラモード。この先コックスバザールへ行く事が決まっていたせいもあるが、この国の町場の刺激たるや、それ自体が観光アトラクションに匹敵するものだから飽きない、という理由もあった。ちょっと店の前を通りすがるだけで「ボンドゥ!ボンドゥ!!(友達)」と叫び出す人々。外国人と話したくて仕方のない人たちがしきりに繰り出してくるアヤシイ英語。「Are
you made in japan?」俺は製品じゃない。「What is your mother country?」これも初めて聞いた時は面食らったが、言わんとする事は分かる。しかし、何よりも面白いのは、こちらも向こうも二の句が継げないという事である。向こうが知っている英語はそれだけ。英語で話しかけてくるからには少しは出来るのだろうと思いきや、彼らは「Japan」という答えを聞いただけで満足げに、それからこちらを見詰めるだけなのであった。うーん。そしてさらに素晴らしいのは「だからこれを買え」と言わない所である。インドでは話しかけてくる人間全てに警戒しなければならないが、ここバングラではそんな心配は全くなし。商売人もそこらの子供もみんなが商売抜きで外国人の登場を珍しがってくれるところが和やかで良いはないか。
しかしそれでも、ちとスレてしまった輩は存在する。この二日後に訪れたコックスバザールでの出来事である。ここコックスバザールはミャンマーにほど近い海岸の町。ミャンマー系の少数民族も住んでいるエスニックな街なのであるが、ここのリクシャマンには要注意である。世界一長いという砂浜目当てに内外から人が集まってくるせいか、言い値がいきなり高い。そして目的地に送り届けた後もしっかり待っていて、「次は何処に行く?」とくる。いいなりにしていると結構な散財をしてしまうことになるわけだ。そういうのはホテルやゲストハウスの前にたむろしている場合がほとんどなので、少し歩けば素朴ないい人間にあたるわけなのだけれど・・・。インドよりヌルイからと油断していると悔しい思いをするのだ。
それにしてもコックスバザールは良い所だった。世界地図にも小さいながら載っているバングラデシュ東端の街。先にも書いたがミャンマーにも近いので少数民族の人々とも出会う事が出来るのだ。しかしまあ、モンスーンの最中でずっと天気が悪かったのは心残りなのだが・・・。特にオススメなのはこの先にある「モヘシュカリ島」。本土からモーターボートで30分ほどで行けるこの島には少数民族の人々が沢山住んでおり、ミャンマー式仏教寺院が見られる。そして島いちばんの丘の上に立つヒンドゥー寺院からは島全体は勿論、遠くコックスバザールの様子まで360度のパノラマが広がるのであった。そこでは子供達と共に子ヤギと遊び、一緒に記念撮影をした。片乳丸出しの老婆が片手を出しながら喜捨を迫ってきたのにはビックリだったけどな・・・。
それにしても、この島に入った途端に起きた出来事はバングラの旅の中で最も衝撃的だったのである。リクシャマン同士の熾烈な闘いである。本土ではさほど揉めずに乗り込めたサイクルリクシャーなのであるが、この島では少ない外国人観光客は貴重な収入源らしく、もう俺達の姿を見るなり10人ほどのリクシャマンが群がってきて大騒ぎ。「OK!OK!!」「COME ON!」と皆が力いっぱい自分のリクシャの座席を叩いてアピール。で、そのうちの一台に乗り込んだのはいいのだが、何故だかドライバーが次々に替わるのだ。大勢に追いかけられながら進むリクシャー。そのドライバーズシートをめぐって大の大人たちが次々に押し合いへし合いして覇権を競っている。まあそれだけなら笑って見ていられるのだが、次第にその争いはエスカレート。3人目に切り替わったリクシャマンがリクシャーを進めようとしていると、ちょっと進んでは他のヤツが自分の足を車輪の下に入れてブロック。で、また口論が始まって暫くするとまたブロック。で、また口論。それを数回繰り返すと、今度は何者かが俺達の乗るリクシャーの車輪の虫ゴムを抜き取って空気を抜くという荒技を披露。何とかすぐに食い止めたので完全には抜けなかったのだが、俺達はもう「ここで他のリクシャーに移ったら、血を見る・・・」絶叫とバイオレンスの中でそう思っていたのだ。本気で殴り合いになってたからな・・・。汗だくになってリクシャーを引くメインの男は口げんかの最中にもこちらを見て「ノープロブレム」と言ったものだが、とても見ちゃいられなかったのである。幸い、島に来る時に2言3言支わした地元の人が気付いて止めてくれたからいいようなものの、それまでに15分ほどもケンカに付き合わされてしまったのであった。ピュア過ぎるぜ、バングラ人・・・。結局彼に2カ所程案内させて総額60タカほど。地元民はこれよりかなり安く乗っているのには違いないが、俺はそのバトルに勝ち抜いた彼をむしろ称賛する気持ちで気持ち良く払ったのである。
そんなコックスバザールには何故か3泊もしてしまった。その海岸と、モヘシュカリ島以外にはまったく見る所のない街。しかし何かと不便なバングラデシュにあって、いくらかでも観光地化が進んでいるそこは意外と居心地が良かったのである。宿の目の前には雑貨屋があるし、エビカレーの旨いレストランも徒歩3分。何よりホテル間の競争が激しいので、「えっ、こんな部屋に?」というような宿にリーズナブルに泊まれるというのが嬉しかった。事実、チッタゴンのホテルと同じ値段(350タカ)なのにテレビ付き、美麗ツインベッド付というのは大きなアドバンテージである。テレビ・・・。まあ見ても言葉は分からんし何なのだが、色々な国のニュースやらテレビコマーシャルやらを想像しながら見てみるのは絶好の暇つぶしなのである。そのなかでもお国柄が出るのがコマーシャル。バングラやインドのCMはやたらとスパイス関係のCMが多いので妙に納得だ。この宿でテレビを見ていたら、同じ会社の同じスパイス(タイガーブランド・チョッポティマサラだ。名前まで覚えてしまったわ)CMが7回以上連続で流れていて、「このまま放送終了までこのまんまなんじゃないのか?」という事があった。それは例外としても、シャンプーやらスパイス、そして冷蔵庫なんかのCMはよく見られる。日本のように菓子類や飲料のCMは少ない。あとクルマのCMも滅多に見ない。
そんな微妙な思い出を後にして、俺達は再びチッタゴンに向かう事にした。地図でご覧になって戴ければ分かるように、バングラデシュという国はグルッと一筆書きでルートを作るのがなかなか厄介なのである。本当は後述するランガマティに直行したいのだが、いいルートがちょっと見当たらなかったのである。コックスバザールの北東にそこは位置しているのだが、チッタゴン丘陵部を回るルートはちょっと外国人には難しい。山岳民族とベンガル人の間での内戦が近年まで行われており、治安が不安定だからである。まあそのランガマティと言う所もちょっと不安定なのであるが、そういう所には最短距離で往復した方がいい。そんなわけで俺達は再び、性懲りもなく例のボーイのうるさいホテルの人となったのである。
ランガマティ。人造湖カプタイ湖のほとりに少数民族が住む山あいの街。これだけでいかにもという感じがするのであるが、俺達はそこへ行くバスの予約を取りに行って驚いた。「パーミッションがなければチケットは売れん」パーミッションっすかー。そんなに仰々しい所だったとは。俺達は思わず2の足を踏んだのだが、ここで旅程を変更してはせっかくのバングラビザ(20日間)が余ってしまう。俺達は道もおぼろげなリクシャーに乗せられて、DCオフィスという所に連れて行かれた・・・。というよりもリクシャマンと一緒に迷ったといった方が相応しい。何軒もそれらしき役所に行くのだが、「ウチじゃない」「ウチでもない」のたらい回し。「ランガマティと言う所は本当に踏み入れちゃいけない土地なのかもしれねいなぁ・・・。」と思っているうちに、リクシャーは何となく、バングラ人民の団結によってそのオフィスにたどり着いた。
応対に当たったのは30代半ばの知的美人。日本にはNGOがらみの仕事で行った事があるとかで、頼みもしないのに流暢な英語で(仕事はそっちのけで)ヒロシマ、ナガサキ、キョウトについて語ってくれた。話は変わるが、バングラ人の間で広島・長崎はとても有名である。もちろん原爆が落とされた土地として。中には「広島はもうデッドなんだろ?今はもうないんだろ?」と不届きな事をいう輩もいたのだが、とても陽気に見えるバングラ人が戦争の話題になるとちょっとシリアスになるのは驚きだった。ごく私見だが、やはり70年前後の独立戦争が尾を引いているのだろうか・・・。それはさておき、俺達はそのオフィス公認のパーミッションを手に、再びバススタンドに向かったのである。
が。バススタンドで再び問題発生である。何でも「この用紙にはスタンプが押してない。よって無効であるからもう1回言ってこい」何ですとぉー。もう1回リクシャーで迷えと言うのか。しかしいくら言っても無駄。結局再びDCオフィスに行かされる羽目になったのである・・・。でもそこでの知的美人の答えは「スタンプ云々は関係ない。同じ用紙をランガマティの当局にファックスで送ってあるのだから」との事。ハァ?もはや中国並みのお役所センスに翻弄されながら再びバススタンドに行く俺達。「オフィサーはこれでいいって言ってるから何とかしなさい」と言った所あっさりOK。意味分からなすぎ。そもそもこのパーミッション制度自体2年くらい前にはなかったそうだし・・・。
果たして俺達は翌朝のバス車中の人となった。ほとんどが平地の国であるバングラデシュにあって、そのバスはいくつもの峠(と言うほどではないが)を越え、一種ネパール的な景色の中を進んでゆく。川主体の景色から山主体の景色へ。秘境っぽさの割には僅か2時間半で俺達はランガマティの人となったのである。途中警察による検問があり、2度ほど下車させられて例のパーミッションのチェックを受けたがもちろんパス。良かった・・・。旅行者の中には知らずに来て追い返される人も居るらしいのである。でも少数民族の人々はかなり日本人にも似た顔立ちをしているから、もしかしたらフリーパスで通ってしまった日本人もかつて居たかも知れない・・・。
ランガマティには1泊しか予定していなかったので、宿でダラダラしている暇は無かった。午後1時の到着、昼飯はまだ。しかもその昼飯は湖に浮かぶ小島でのレストランで取る事にしていたから大変だ。だがしかし、俺達がチェックインするや否やホテルの人がこう言ったのである。「この村の外に出ますか?」「はぁ?」「だから、ボートに乗ったりしますか?」「はい」「じゃあ、警察の許可がいるからまずそこに行って下さい。場所は・・・」何だか面倒くさい事になってきてしまったのである。パーミッションさえ取れば良いと思っていたのに、その上ボートに乗るにもパーミッションが居るとは。見た所、何の変哲もない平和な村なんである。にもかかわらずこの厳重ガードぶりは尋常ではない。俺達はおとなしく警察に行く事にした。
警察では、「日本人か。とりあえずここで待っていてくれ」と30分以上も放置プレイ。警官が周りを忙しそうに立ち歩いていて、この一観光客がボートに乗りたいからという理由で来ているのがいかにも場違いな雰囲気だった。まあ全くバイオレンスな雰囲気とかはなかったのだけれども、なかなか放置プレイには最適な場所だった。それでも粘り強く待っていると、「パーミッション」という紙をくれるものだとばかり思っていたのだが「準備が出来たので外に出て下さい」という。で、俺達は訳も分からず近くにいたリクシャーに乗り込んだのだが、何とライフルを持った警官2名が一緒に乗り込んでくるではないか!?うーん。でもまあ、港まで案内してくれるのだろうと思う事にして、リクシャーを進める事にしたのである。
だが、しかしである。港に着くや否やその警官は勝手に船頭と交渉を始めたのである。俺はここに至ってこの構造を理解した。「許可」というのは他ならぬ、この武装ましましている警察官の護衛を頼む事だったのだと。「500タカだけど」という警官に着いてゆくと、その船は船頭1名と俺達2名、そして警官2名の貸し切り状態。怖過ぎる・・・。こういう国の警官は私腹を肥やすために何か変な事をしかねないからなぁ、と思いながらも、空腹と景色の素晴らしさにホイホイ乗り込んでしまったわけだ。単純なヤツ。
中国製東風(ドンフェン)エンジン搭載の小舟はゆっくりとカプタイ湖に滑り出して行った。あくまでも緑色の湖水。人造湖とは思えない植生の豊かさ。そして大方の日本人の想像を越える「湖」の広さ。前に座っているライフル警官さえ気にしなければまさに絶景であった。行き交う小舟には人や物資が満載されており、それを見ているといかにも世界ふしぎ発見、な趣である。レストランまでは20分ほどのはず。それまでこの景色を満喫する事にしようか。・・・しかし、である。船はあらぬ方向に進み始め、すっかり湖内1周ツアーの趣を呈し始めたのである。30分、1時間・・・。船は時折名所と思われる小島に停泊し、ご丁寧に警官がガイドまでしてくれる。・・・話が違うんじゃないのか?こちらはただレストラン往復を頼んだのに、向こうではすっかりこの日本人は湖が見たいのだと思い込んでいるようなのであった。500タカという異様に高い料金も、1時間半に亘る乗船時間もこれなら合点がいく。失敗だ・・・。朝飯も昼飯も食わぬまま、時刻はもう4時近く。妻はあからさまに不機嫌になっており、大声で目的地を確認してみたり、ふて寝に入ったりしていた。ああ何たる殺伐とした雰囲気。これじゃ景色も楽しめない・・・というよりも、俺は空腹の余り意識が朦朧とし始めていた。
結局昼飯兼晩飯にありつけたのは午後5時前のこと。微妙な時間にやってきた日本人を島のレストランの人は暖かく迎えてくれた。ここでの主要な民族である「チャクマ族」の料理を楽しんだのである。魚のカレー煮竹筒入り、そして小さなタケノコに肉を詰めて揚げたもの・・・。なかなか目新しく、日々のカレーまみれから一時解放と相成った。
その後もスコールに降られたり、船頭に払った500タカの分け前を警官がしっかり受け取っているのを目撃したりして何だったのだが、とりあえずこの村での目的は果たした次第。それにしても疲れる所だった・・・。
翌日。俺達は再びダッカに(14時間かけて)戻り、ここからのメインイベントである「ロケットスチーマー」乗船に向けて準備を始めた。これはバングラデシュで運行されている船で、ダッカ―クルナ間を27時間かけて結ぶものなのだが、これ自体が観光のメインイベントになるものなのだ。何しろ外輪船というところがそそるし、建造は70年前だそうだ。しかも1996年にインドで改造されるまで本当に蒸気機関で走っていたというから驚きではないか。それでもって、バスで行けば恐らく6時間程度で行けるクルナまで27時間かけて移動する。うーん、ロマンだ。大体外輪船なんて「トム・ソーヤの冒険」の世界ではないか。休日にあたって1日待たされてしまったのだが、俺達はある夕方、そのチケットを持ってダッカのショトル・ガット(港)に向かったのである。
夕刻のショトル・ガットには無数の小舟が浮かび、それを蹴散らしながら大きな船が行ったり来たり。バングラデシュ各地から集まった人々の喧騒はそれはもう堪え難いものだが、それでも人は小さな渡し舟にこぞって乗り込み、対岸の家路を目指している。まさに河川国・バングラデシュを象徴する景色ではないか。俺達は何の案内もなしにガットに行ったのでまずどの船がロケットスチーマーなのか分からなかったのだが、そこは親切なバングラ人が総出で教えてくれたのである。近付いてみると、まさにトム・ソーヤの船だ。ハックは何処に居る?そんな事を頭の隅で考えながら、目的の2等船室へ。3等船室はまさに蟹工船(ちょっと違うか・・・)。木製デッキの上に人々が持参したゴザを敷き込み、何かの避難所のような趣になっているのが凄い。でも軟弱な日本人は個室の2等船室で決まりだ。1等はちょっと高過ぎる。2等と言ってもそこには3等とはまるで別世界が広がっているのだ。シングルベッドが2台に扇風機、そして洗面台まで付いている。これが2メートル四方の中に凝縮されているのでちと狭いが、もっと壮絶な船内を想像していたのでまさに御の字である。
夕刻である。雨期の終わりのバングラデシュにしては珍しく夕焼けが見える。ゆっくりと滑り出した船内には揺れがほとんどない。今まで(といっても大した事はないが)乗ってきた船とは雲泥の差。川を走る船は揺れないと聞いていたが、こんなにスムーズだとかえって拍子抜けしてしまうのであった。それでもまあバングラ人のアツイ視線には晒されまくりだったのだが・・・。何しろデッキでゆっくりしていることが出来ないのである。次々に現れるバングラ人が話しかけてくるわ、わざわざ椅子を自分の方に近づけて「ここに座れ」と言ったり・・・。特に翌日に現れた姉妹にはほとほと困ったのである。こちらがデッキで佇んでいると、いつのまにか現れてこちらをじーっと見詰めている。お互い沈黙の時間が流れて、こちらは溜まらず船室に逃げ込むのだが、それでも追いかけてきて窓越しに、ドア越しにジーッと見詰めてくるのである。暫くすると飽きて行ってしまうのだが、また数時間経つと現れてまたジーッと、が始まるのだ。そんな彼女達を最初は船員が追い払ってくれたりしたのであるが、その内に船員までもがこちらに興味を示し始め、しまいには個室に入ってきて俺達のガイドブックを1ページ1ページ、全てのページにツバを付けながらめくっていったのにはもう怒りを越して驚きであった。この雰囲気はちょっと文章では伝わらないだろう。お暇な方はぜひこの船に乗り、バングラ人との楽しい交流を深めてみて頂きたいのである。いや、嫌いなわけじゃないのよ決して。でも、一部の旅行者はこうした経験からバングラ嫌いになってしまうようだ・・・。
船からの眺めは27時間ずーっと一緒。ヤシの木と民家と、そして時折立ち寄る港。単調といってしまえばそれまでなのだが、ここまで変化がないのは逆に偉大だと思わされてしまう。護岸も何もない河原ギリギリにまで家が建ち、人々が船を足がわりにしている暮らしぶり。これは決して都市部にいたのでは分からないバングラの暮らしなのだろう。狭い船室に閉じこめられて見るそんな景色は結構な贅沢のように俺には思われた。普通、こんな長時間の移動であれば「あと何時間・・・」と指折り数えてしまうのが常なのだが、ここでは逆に指折り数えて残念になってしまったのだ。どうせならこのままカルカッタまで戻してくれー。
翌日の夜9時に、無事クルナに到着。出来れば一路ベナポル(最初に書いた、インド国境の街)まで戻りたい所だったのだが、時間も時間なので仕方なく1泊することに。ここには外国人もしばしば来るらしく、壮絶なリクシャマン同士のバトルがあったのだが、乗ってみてビックリ。リクシャ代が異常に安いんである。1キロくらい乗って6タカ。おい。今まで街場で15タカとか20タカ払ってたのは何だったんだよ。ああやっぱりソフトにボラレて居たのだと確認しつつ、クルナの人々の素朴さに感謝した次第。
もう仮の宿と心に決めて、リクシャマンオススメの宿にとりあえずチェックイン。しかし、ここでまたヤヤコシイ事態にぶつかってしまったのである。「国境に行くんでしょ。明日?あー明日はストライキだからダメだねぇ」・・・。バングラ名物ホッタール(ハルタル)である。もともとはこの用語、あのガンジーが英国の偉い人来印の際に全ての商店を閉めて半旗を掲げたことに由来する由緒正しい戦術なのであるが、現代のバングラデシュでは野党が政権転覆を目指してしょっちゅう行っているのである。思えばチッタゴンでも1度ぶつかり、メシを喰うのに苦労したっけ。見ているとどうも最低限のメシ屋と薬局とリクシャーは営業していいらしいんだが、公共のバスや列車の類は全てストップ。自家用車すら走らなくなるのである。困った。こんな見るものもない街に立ち往生だ。まあ余裕を見て18日間で日程を組んだからビザ切れの心配はないものの、何だか最初から最後までバングラに翻弄され通しだったのである。
そして後は無難に逆ルートを通ってカルカッタに戻り、現在はバンコクにいるという訳。しかしバングラデシュ。出会う旅人旅人が含み笑いをしながら「バングラ、いいよー。」という理由が良く分かったというものである。何しろ、あの国には世界遺産にもなるような仏教遺跡などもあり(今回は行かなかったが)、普通の観光地になる資質を十分に持っているのであるが、人々のハートが熱過ぎてこちらが「観光」されてしまうのである。おかげで殆ど名所旧跡に行かなかったのに全く退屈せずに済んだ。茶をおごってもらったり、民家でゴチになったりも出来た。バングラデシュには娯楽が少ないから、という言い方で片づけることも出来ようが、テレビもあるし映画もある。外国人の目からすればその点、インドとの差は感じられない。では、何でこんなにバングラ人は外国人を熱く、そして騒々しく歓迎してくれるのだろう?投げやりな言い方になるが、これは皆様自身、かの地を訪れて確かめて頂くしかない。言葉は通じにくいが、親切な人々がかならずや不自由ない旅を約束してくれるだろう。それからインドに食傷した旅人がネパールに逃げるというのは定番コースだが、思い切ってバングラデシュに行くのも面白いのではないか。目先を変え、そして北インドでは貴重な魚カレーとヨーグルト(超オススメ)を食べに行くだけで十分価値があると思うのだが。日本人はビザ無料だし・・・。今、俺の中でバングラがブームになっている。
3年半ぶりのバンコクでこれを書いているわけだが、インドやバングラから来るともう全然趣が違いますな。高層ビルはボンボン建ってるし、昨年施行された禁煙・ポイ捨て禁止令で道端には全く!何も!落ちていない。歩きタバコもいない。タイ名物のトゥクトゥクはすっかり影をひそめ、新車のメータータクシーに庶民が乗っている・・・物価も随分上がった気がするし、東京以上にコンビニが乱立。ネットカフェでは400キロbps以上でADSL接続が出来るし、1日3000円以上ないと暮らせない感じ。他の国では(中国除く、宿代込み)2000円あれば問題なかったのになぁ。それでももう1週間居ますわ。快適過ぎて・・・怖い。
今現在ミャンマーのビザを申請中なので、それが降り次第スコータイ・チェンマイを回ってバンコクに戻り、それからバンコク・ヤンゴン往復チケットを買ってミャンマーに行く予定。多分来月の更新はお休みさせて頂くかと思います。ミャンマーではネットが出来るかとっても微妙なんで・・・。一部外資系のホテルなんかがメールアドレスを持っているようなんだが、それでも何かミャンマーにはプロバイダーというものがないような気がするのである。でもメルアドが存在するのなら然るべきところではネットに繋げるはずだし・・・。もしかしたら高級ホテルに行けば何とかなるのかも。まあそんな不安も抱きつつ、インドシナ半島の旅はまだまだ始まったばかりでございます。
2003年9月20日 タイ バンコク ホワイトロッジにて
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