朝起きると、何故だか懐かしい感覚に襲われる。どこからともなく聞こえてくる水の音。そして野性的な鳩の鳴き声。朝から角度の高い光が窓から射し込み、夕べから開けておいた網戸からは湿気を含んだ懐かしい匂いが漂ってくる。今日も今日とて、何を喰おうか、そればかり考える寝覚め。何が懐かしいのかと言えば、自分が小学生の時分の夏休み、そんな感覚に戻れるような街に俺はやって来た。そう。俺は今ヒマラヤ山脈を越えてカトマンドゥにやって来ているのだ。チベットでは寒さのために寝つくのも起きるのも一苦労だったのだが、ここでは自然の欲求通りに事が進んで行く。地元の人々の顔も、そして旅行者の顔もチベットのそれとは違って全く穏やかだ。まだまだ南国とは言い難い場所なのではあるが、日中の酷暑と朝晩の適度な涼しさは日本人にしてみれば十分南国なのである。
確かにチベットも旅行者を惹きつけてやまない場所ではある。チベット政教一致の象徴であったポタラ宮や、チベットでもっとも聖なる寺ジョカン。そしてラサ北方には世界一高所にある湖・ナムツォがあるし、遥か西には登る事さえ禁じられている聖山・カイラス山が聳えている。もちろんチョモランマを擁するヒマラヤ山脈も目の前だ。しかし、いかんせん場所がハード過ぎた。「秘境」の冠詞はダテではなかったのである。
俺達夫婦がチベット行きを目指してチケットを買ったのは格尓木(ゴルムド)の旅行会社。名目上、個人での旅行が禁止されているチベット自治区へ入境するためにはそこ格尓木でバスツアーに申し込むか、もしくは成都で飛行機ツアーに申し込むしかないのであったが、そこで俺達は英語の堪能なお姉さんにこんな説明を受けたのである。"It
takes 30 hours and the way is unconfortable." アンカンファタブルぅ?他の説明はロクに聞き取れなかったのだが、この単語を俺は聞き逃さなかった。まあ予想できることとはいえ、客にいきなりアンカンファタブルと断言するその態度に俺は打たれた。そういえばそこの事務所の棚には小型酸素ボンベが置かれていたし、高山病への注意書きなんかもあったような気がする。しかしそれでも格尓木などという、ある意味ラサよりも辺境の地に来てしまった以上、俺達は明日の出発を予約して1人1700元と、酸素ボンベ代28元を支払うしかなかったのである。
そんなこんなで俺達は旅行会社を出、出発に向けて様々な準備を整える事にした。高山病を防ぐためには脂肪分などを摂らずに炭水化物や葡萄糖を摂るべきだというのでバナナや飴を買い込み、酸素不足で呼吸数が増えることによる脱水症状に備えるために水も4リットルほど用意した。ものの本には1人1日5リットル飲めなどと書いてあるのだが、さすがにそれは現実的ではないということになって4リットルでやめにしたのである。それから男のガソリン・晩酌もその日はお預けとなった。宿酔でそんなバスに乗るのは自殺行為そのものである。(関係ないが格尓木には「男人的加油站(男のガソリンスタンド)」とかいう飲み屋があった。中国のユーモアセンスもなかなかイケてるのである)
かくして約束の翌日午前11時半がやってきた。俺達の泊まっているホテルのロビーに迎えがやってくるという話になっていたのであるが、それはもう当然の如く時間通りには来ない。いつでもどこでも、チャイニーズルールに慣れきってしまった俺達にとっては別に特別な事ではなかったのだが、初の峠越えに向けて緊張している身にとっては酷な事であった。水分を多めに取っていたので、トイレの近さが尋常ではなかったからだ。もう来るか、もう来るかと思いながら3度目のトイレに行き、結局11時30分になったところでツアー会社のオバチャンが現れたのである。
タクシーで連れて行かれたのは街の外れのバスターミナル。横文字で言えば聞こえは良いが、だだっ広い未舗装の荒れ地の上に小屋がちょっとと申し訳程度の招待所が建っているだけの淋しい所だ。そこでオバチャンは言ったのである。"Twelve
noon."あーそうか、12時か。いよいよ緊張の度合いを高めながら俺達はその時を待つ事にした。待合小屋の中は20畳くらいの空間で、そんなだだっ広い所なのにイスは壁際にほんの数席。それなのに何故かそこには誰も居なかったので腰を下ろしていると、自称バス運転手(普段着だから全然分からない)という中国人のオッサンが近付いてきてやたらに話しかけてくる。中国の人はこちらが中国語を全く解しないと分かっていてもひたすら中国語でまくし立ててくるから凄い。そんな時には迷わずペンと紙を渡してやる事にしていたのだが、この時もその例に漏れず大筆談大会が始まったのだった。どこから来た、どこへ行くのか、あんたの名前は、ともう中国国内で何度繰り返したか知れない話をしているうちに約束の時間が来たのだが・・・誰もバスに乗り込もうとしない。どのバスも出発する気配を見せない。その運転手氏に訊いてみれば「満席にならなければ出発しない」との事。路線バスが満席にしたいために何度も同じ所をグルグル廻るのには遭遇していたが、こんな長距離バスでも同じ事をするなんて。またもチャイニーズルールに翻弄される俺達。結局午後2時になり、俺達は車中の人となった。
午後2時の日差しはあまりにも強く、これから始まるチベットへの旅を予感させるものとなっていた。格尓木に列車で来る時にも感じた事だが、中国西部の街は少し離れるとすぐに砂漠になってしまう。地理には詳しくない俺なので説明が足りなくなってしまうのだが、名も知らぬ高山がはるかに見え、その手前はまさに荒涼たる砂漠。否、土漠と言った方が良さそうな茶色く乾いた土ばかりの景色がひたすら広がって行く。一方バスの中の景色はと言えば、寝台バスと言えば聞こえはいいが、普通のサイズの路線バスの中に無理矢理縦3列の横になれる席が作ってあって、それがしかも2段式になっているのである。これが犯罪的に狭い。60人くらいは詰め込まれただろうか。しかも俺達はその一番後ろの横1列・5人雑魚寝シート(仕切りなぞは全く無しの、2×2メートルほどの空間だ)の上段になってしまった為、もう身動きひとつ取れないわ後ろだから揺れはひどいわでもう始めからアンニュイ気分たっぷりだったのである。しかもそれが運転手3交替で30時間ノンストップだというのだから気が遠くなる。野戦病院がそのまま押し込められて移動しているようなものだと言えようか。そのバスの脇腹に「豪華巴士」と書かれてあるスパイシーな皮肉は乗った事のある者にしか分からないだろう。
それでもバスは進んで行き、「世界の車窓から」も真っ青な景色を見せつけながら第1の休憩地点に着いた。しかし、幅60センチほどの通路を地元の人々がトイレや食事を求めて降りて行くのを見ながら俺達はすでに疲れ果てていた。夕方5時過ぎのことだったろうか。それでもまだこの時点での疲れというのは高山病によるものでも、乗り物酔いによるものでもなかった。ただただ青蔵公路の道の悪さと中国人の傍若無人さに酔ってしまっただけだったのだ。周りの人口密度が減ったのを見計らって小便に行き、方便面(ふぁんべんめん、インスタントラーメンのこと。中国製は結構侮れない味がする)を買って車内に戻る。この時点ではまだまだいけそうな気がしていたのだが・・・。
バスはさらに高度を上げて行く。中国西部・しかも標高4000メートルあたりでの日差しは夜8時を過ぎてもまだまだ明るい。やっと夕焼けらしくなるくらいだ。案の定、その頃妻は一言も口をきけない状態になっていた。乗り物酔いとも高山病ともつかぬ症状だ。俺は俺で、腹は減っているのに全くどうしようという気も起こらない。バスに乗る前に呑んだ酔い止めのおかげか、うつらうつらしながら微妙な眠気に襲われていた。その時である。バスがやけにスピードを落としたかと思うと物凄い揺れが俺達の身体を浮かせた。周りの地元民も声を上げて驚いている。隣の中国人は天井にしたたか頭を打ち付けていた。そう。乗った時から気になっていたのである。バスの天井の穴に。これで謎が解けたというものだ。この穴はみんな乗客の頭で開けられたものだったのだ!一応テープで補修はしてあったものの、天井のランプシェードなどはボロボロになっていた。ああ、これがあと何度続くのだろうとは考えたものの、もう乗り掛かった船。どうしようもないのでバスが遅くなった時には身構えるようにしたのだが、結局これは最後の最後まで続いた。俺も妻も何度か天井にぶち当たった。
かくして日は落ちた。地元民は何だかポリポリ物を喰ったり余裕で煙草をふかしたりしているのだが、俺達はもうひたすら「いかに眠るか」そればかり考えていた。妻はビニール袋を握り締めて臨戦態勢。高度と夜間の冷えが容赦なく襲ってくる車内。時折他の乗客がバスを停めて用足しに行ったりしていたのだが、尿意に打ち克つ悪心が俺達にはあった。しかしそれでも慣れてくれば眠れるもので、1時間寝て15分くらい起きる、その繰り返しをしていたのである。深夜になるとバスの内窓と天井の梁が凍り始め、外の景色なぞも全く見えなくなっていた。まあどうせ見えたとしてもそこは明かりの全くない砂漠。あんなに憂鬱な夜はなかなか過ごせるものではない。
午前6時頃。凍った窓越しに日が差し始め、その光で俺は目覚めた。しかし、である。バスはエンジンを掛けて5メートルほど進んでは止まり、また進んでは止まりを繰り返していた。「ああ、これが噂に聞くバスの故障か」と納得して再び眠りに落ちたのだが、1時間後に目覚めても、そのまた1時間後に目覚めても周りの景色は全く変わっていない。はぁ?3人の運転手がエンジンルームを開けて何やらいじくってはいるのだが全然駄目。周りの客の中には怒り出すものも出て来た。しかし、その人にしたってそんな所で放り出されたらまったく為す術がないのである。何を隠そうそこはタング峠。チベット自治区と青海省の境目にある標高5200メートルの峠だったのである。富士山プラス1400メートル。とにかく呼吸が辛い。空腹のせいか、はたまた乗り物酔いのせいか吐き気がする。しかし、バスが直る前にトイレに行っておかねば―俺は廊下で寝ている奴等を掻き分けてその5200メートル世界に出て行かねばならなかったのだ。何と14時間ぶりの排尿だったのである。膀胱はすでに水風船並の緊張感を湛えていた。
バスを降りた瞬間に眩暈が襲う。しかし高所の寒気が気付けとなり、何とか倒れずには済んだ。しかし、そんな俺の感情をよそに、そこには物凄い景色が広がっていた。「山」という漢字の起源を思わせずにはおかない見事な山と、その背景にある濃紺の空。そして道路脇には霜が降り、高さ2〜3センチほどの青草がずっと広がっている。そこに放つ、濃縮され切った尿。凍るかと思ったがそんなことはなく、見事な湯気を立ててチベットの大地に吸い込まれて行った。ふと見ると、後ろからは中国製トラックの東風号が。どうやら自分たちのバスを見かねて助けに来てくれるらしい。俺が車に詳しい人間だったらな、と悔やみながら俺は再び寝台に戻ったのである。
それから1時間ほどすると、バスは何とか復調してチベット最初の都市・アムドに向かって行った。都市とは言っても崩れかけたレンガ造りの建物が申し訳程度に「商店」「餐庁」の看板を掲げているくらいで、少し走ったらまた砂漠に逆戻りといったカンジの寒村である。バスはそこで朝食休憩を取ったのだが、まあ地元民の元気な事!俺達2人以外はみな大挙して食事に出かけてしまった。尋常じゃない・・・。中国人の食欲には本土でも驚かされていたが、まさかこんなバスに15時間も揺られた後で、しかも標高4800メートルのここアムドでも遺憾なく発揮されるとは・・・。俺達はもう数えきれぬ程の飴を舐めて何とか餓えを凌いでいるというのに!
再びバスは走り始める。30時間か・・・それならば夕方6時にはラサに着くな、と俺達は信じていた。でもバスが4〜5時間止まってたから、着くのはやっぱり10時くらいになっちゃうかな?などと考えたりもした。しかし、同じような道のりを同じように進んでいるのに、バスは夕方6時を過ぎてもそれらしき動きを見せない。俺達は再び車窓の夕焼けに付き合う羽目に陥ってしまった。10時。11時・・・。そのバスは時に40時間とか、後から知った事だが70時間までかかるということだから覚悟はしていたのだがやはり落ち着かない。11時を過ぎると地元民はまた寝付く始末。こいつら今夜もここで明かす覚悟なのか?と思いながらまんじりともせずにいると、窓の外に建物らしきものが見えてきたのである。街なのか?それとも高層ビル?喜び勇んで窓に額を押しつけると、何とそれは星。山の稜線や地平線ギリギリにまで星が見えるなどとは普段考えもしないから、それらが普段見慣れたマンションの灯のように見えてしまったのである。冷静に考えればこんな所にビルなどあるはずがない。しかし俺はそれでガッカリするでもなく、星の綺麗さに気を紛らわせて貰ったのである。
星ではない人工光源を見たのは深夜1時30分の事。見慣れた水銀灯ランプの街燈を懐かしいと思うのは俺がか弱い文明人だからか。ともかくも36時間の時を経て俺達はチベット自治区の区都ラサに到着したのだった。乗り合いバスに乗せられはしたが、一応「ツアー」という体裁になっていたのでそこには既に迎えが来ていた。「夜10時から待ってたよ」というガイド氏の皮肉の意味を考える間も無く氏のランドクルーザーにザックを押し込み、一路宿へと向かったのだった。
通されたのは、チベット人居住区の端にあるドミトリールーム(4〜8人程度の大部屋)。すでにネパール人青年が1人寝ていたので、俺達は移動の疲れもあってすぐに眠る事にした・・・かったのだがそのネパール氏が起きてしまい、英語で一生懸命話をしなければならなかったのが辛かった。大体、初対面の外国人と話す事なんてたかが知れているんである。「どこから来た」「いつまで居る」「仕事は」・・・。とても人の良さそうな青年で、むげにするわけにも行かなかったからきちんと話はしたのだけれど、ああいうハードな夜の英会話はプールでフレンチ(写真部用語事典参照)よりキツイ。
そんなこんなで15日に亘るチベット暮らしが始まったのだけれど、素敵な寺、素朴な人々を楽しむ前に克服しなければならなかったのが高山病だ。俺の場合、「病」と呼べるほどではなかったのだが、やはりちょっとした階段がキツイ。普段何気なくしている動作でも急にすると息が切れてしまうのである。そして食欲もなくなる。もともとチベット料理に旨い物はないと聞いていたので初日はまず中華料理屋に入ってみたのだけれど、その中華のボリューム感が尋常でなく感じられるのである。煙草もなかなか喫う気にならないし、2〜3日はずっとゴロゴロして過ごさねばならなかった。その後慣れてきてからも、3階以上の階段を上ると息が切れるわ、少し走っても息が切れるわでかなり体力を消耗したのである。これからチベットに向かわれる皆様には慎んでご愁傷さま、と申し上げておこう。しかしそれと引き換えにして余りある景色が見られる事は約束できる。
それからはまあ普通に寺を見たり見なかったり、引きこもったり飲酒したり喫煙したりしたのだが、やはり辛かったのは朝晩の寒さだ。以前からこのコラムでも言っているとおり、俺は自称南国人なので寒いのには大反対。チベットも早く出ようと言っていたのである。温度計などは持っていなかったので正確な気温は分からないのだが、大体夜の10時を過ぎると気温は1度前後になっている(はず)。俺達が泊まっていたのは暖房なぞ望むべくもない安宿(50元、ツインで)だったので、最初はこの寒さに慣れるのに苦労した。下半身にはもも引き、上半身には厚手のセーターで寝付こうとするのだが顔面が寒い。室内でも息が白くなるその寒さの中で最初の2,3日は何とか寝ていたのだが、あるとき妻がこう言ったのである。「アルミの水筒を湯たんぽにしたら?」蓋し名案である。日本で普通に暮らしている時には分からなかった湯たんぽの有り難み。それから暫くは水筒と添い寝した俺達なのであった。
それからチベット、と言った時に思い出されるのは「ヤクバターの匂い」である。ヤクとはチベットやネパールの高地に棲息する牛の一種なのであるが、チベット人はこの肉や乳を何にでも利用する(勿論その毛で織物もする)。そのバターに塩と茶葉を混ぜた液体を「バター茶」として愛飲するし、肉料理といえばまずヤク肉が出て来ると思って間違いない。それからこちらの仏灯(寺院で灯されるロウソクなどの灯)にもヤクバターを利用しているから、町中がそのクセのあるヤクの匂いで満ちているのだ。路地を歩いて、ふと民家の方から流れてくる風がヤク臭かったり、勿論飲食店に入ってもヤク臭、寺院に入ってもヤク臭。便所の中もヤク臭。始め慣れないうちは得も言われぬその匂いに閉口したものだが、ここネパールに来てたまにチベット人がその匂いを漂わせていると、何だか懐かしい気持ちになってしまうのである。これほど「国臭」のはっきりした場所というのもなかなかないのではなかろうか。強いて言えば羊にも似た味のするヤク肉。日本ではまず味わえないものなので、それはそれなりに貴重な経験が出来たと思っている。
チベットには多くの日本人旅行者がいる。否、アジアのどこの国にもいるのではあるが、宿泊事情、交通事情の不便さからかどうしても外国人の、しかも貧乏旅行者が溜まる宿というのは4,5件に限られてしまう。ネパールにタメル、タイにカオサンなど、アジア各国にそれぞれ著名なツーリスト街があるが、それらは街として余りに大きくなり過ぎ、同邦の旅行者同士がじっくり腰を据えて話すという雰囲気にはなれないのだ。だからいきおいチベットでは日本人旅行者同士の出会いが多くなる。ラサ滞在7日目くらいの頃だったろうか。ツーリスト向けの各国料理を出すレストラン・「TASHI2」にT氏が現れたのは。彼は神戸出身の医大生で、医師国家試験の発表までの1ヶ月の間を中国・チベット・ネパールで過ごすつもりだと言った。そのころ丁度ネパール行きへの道を模索していた俺達は早速氏のスケジュールを聞き、一緒に陸路ネパールへ向かう計画を練る事にしたのである。何しろ鉄道はないし、外国人の自由な移動も(一部の都市を除いては)禁止されているチベットにあってはランドクルーザーだけが主要な移動手段だ。(飛行機でもラサ→カトマンドゥの移動は出来るが1万4千円程度掛かってしまう)ランクルは1台いくら、という勘定をするから1人でも多い方がお得。俺達は同じ所へ向かおうとする日本人をこれほどまで有り難いと思ったことはなかった。
それから暫くの間は観光もロクにせず、旅行代理店捜しと同行者捜しの日々が続いたのである。何しろまだ3人。相場として3000元(45000円程度)は掛かるザンムー(樟木、中国のネパール側最後の都市)までの同行者があと2人は欲しい。俺達は安い旅行社を捜す傍ら、様々な安宿に同行者募集の張り紙をして機が熟すのを待っていたのだ。
そんなある日の夕方、俺達が泊まっていた宿のドアに英文でのメモが挟まっていた。オランダ人の女性2名が俺達に同行したいのだという。しめた、というわけでT氏を含む俺達3人はそのダッチギャルズが泊まっているという宿の部屋に向かった。しかし、夕食時だったせいか、彼女達は不在だった。俺達はメモを貼り返してとりあえず晩飯に出かける事にした。
その翌日の事。そのダッチギャルズが泊まっているホテルの中庭で俺達3人が今後の事について協議していると、いきなり愛想のいい白人女性、こちらも2人組が話しかけてきたのである。もう誰かれかまわず「ネパール行きませんか?」と話しかけていた当時の俺達は彼女達にも当然「Do
you want to go to Nepal?」とやったのである。すると彼女達は「Yes.」その時点でまだダッチギャルズと連絡が取れていなかった俺達はすかさずそのイス○エリギャルズと翌日の晩飯の約束を取りつけたという訳だ。
しかし、である。翌日の午後8時に約束をしていたのだが、そのイス○エリギャルズは来ない。T氏も含めて3人、段々猜疑の念が湧いてくる。「そういえばイス○エル人ってマナー悪いって言いますからねぇ。他の国でもイス○エル人はそれ専用のカフェとか用意されてて隔離されてるって言いますし」ヤバい、と俺は思った。大体夜の8時という約束自体が非常識だし、彼女たちは自分たちの泊まっているホテルの名前さえ言わなかったのである!と、いうわけで俺達は30分ほど待ち、もう一度ダッチギャルズの部屋に行ってみたんである。するとそこには・・・件のイス○エリギャルズからの「夕べはお逢いできなくてゴメンナサイ」との張り紙が?!謀りやがったなこのユ○ヤ人め!最初から白人同士つるもうとしていたのがアリアリなのである。パレスチナに平和を!こんな些細なことから国際問題が始まるのかも知れないね、と俺達はしみじみ話し合ったのだ。この先イ○ラエル人には気をつけようと思ったのである。まぁ、人によるんですが。
振り出しに戻ってしまった俺達。T氏はまだ学生の身なので時間はもうさほど残されていなかった。どうするか。不毛な相談を続けている最中、俺達はそのイスラエリと出会ったホテルの中庭で出会ったもう1人の日本人に目をつけたのである。年の頃は20代半ば、いつもルーズリーフを持って何か散文詩のようなものを書きつけている彼を俺達は「ポエマー(本当はポエトと呼ぶべきなんだけどね)」と呼んでいたのだが、頼みの綱を失った俺達は恐る恐る氏に声を掛けてみたのだ。「んー、9日じゃ早いっすねー。」駄目か。まあ人の旅路を邪魔することはない、自分たちが少し多めに金を払えば済む事なのだと諦めてまたしばらく同行者を捜したのだが、これが全く捕まらない。様々な欧米の人々を始め、香港人、日本人を手当たり次第捕まえたのだが全然駄目。T氏の狙う9日まであと2日。俺達は何故かいつも宿にいるポエマー氏にもう一度アタックしてみたのである。すると、「えー、いいっすよ。」福岡出身だという彼は何事にも鷹揚な態度を取る人だったのだが、俺達の熱いアタックにどうやら反応してくれたようだ。これで4人。十分だろう。
丁度その頃、ネパールからやって来るチベットツアーのバスの空車に1人350元で乗せてくれるという話がさる旅行代理店からあったのである。但し、そのバスは5人以上でないと申し込めないのだと。しかし、どう考えてもあと1人集める猶予はない。俺達は流しで営業しているランクルを捕まえて価格交渉をしたり、そのバスにいくらか金を積んでもいいから乗せてくれという交渉をしたりしていた。その間に韓国人の夫婦が現れて「明日なんだけど一緒に乗ってかないか」という話も出たのだが、どう見てもランクル6人乗車はキツイので断ったりもした。とにかくこの頃は、この旅行中でもっとも気の急いた時期だった。俺達自身は時間に縛られない旅をしているのに、少しでも節約をしようとするとこうなるのである。まあ結果としては驚異的な安値でネパールに行く事になるのだが。
果たして俺達は4月9日の朝、「ランクル」車中の人となった。その旅行代理店が4名でバスを出す、という約束をしてくれたのに加え、何と当日の朝になってバスの代わりに何故かランクルがやって来たのである。しかも値段は変わらずこれは幸運中の幸運。どう考えても1800元・台以下には下がらないランクルを1400元・台で借りる事が出来た訳だ。ドライバーのチベット人・白馬多吉(パイマードーチー)氏(チベット人の名前にも漢字の宛て字が付くのだ。ちなみにチベット人に苗字はないのだという)もダンディーで穏やかそうな人だった(英語は殆ど通じなかったのだが、分からない方が途中で追加料金だとか面倒な事に巻き込まれなくてすむ)し、俺達は安心して中尼公路を往く事にしたのである。
そこからの道のりは格尓木→拉薩間と似たようなもの。違う点はといえば雪を頂いた山が多い事と、川が多い事。それから5000メートルの峠が1回で済むという事だ。これは大きい。バスとは違い、景色が手に取るように見える道のりを俺達は快適に旅したのだった。途中に何度も検問があり、その度にパスポートを見せられるのには閉口したが、ドライバーは「厠所」と言えば止まってくれるし、大型バスと違って天井に頭を打ち付ける事もない平和な旅だったと言えよう。それにしても延べ2日、18時間はかかるのだが、今までの中国硬座列車、そして格尓木→拉薩間の地獄っぷりに比べれば全然OK。今なら鹿児島→青森を高速バスで行けと言われても2つ返事でOKするだろう。
ラツェ(拉孜)の1人25元のドミトリーで1夜を過ごし、翌朝の9時30分ごろには中尼公路の最高地点・5200メートルの峠に着いた。ここにはピラミッド型の石碑が建っており、その周りにはチベット人が供えたチョルテンやカタ(聖なる場所に供える経文の書いてある旗や布類)が散らかっているというかはためいているというか。俺達はそこで便所がてら記念写真を撮ったりした。妻は乗り物のせいで気持ち悪いと言っていたが、前回のバス旅よりは全然マシな様子である。ヒマラヤ山脈は高く聳えているのだが、自分たちがもう既にかなりの高度に来ているためさほど高く見えないのが妙に嬉しかった。
それからも景色は次々に変わって行き、山あり谷あり。ある上り坂ではヒマラヤが全く見えなくなってヒマラヤよりも高所に来たような錯覚を覚えたり、ある下り坂ではドライバーがいきなり砂漠に向かってハンドルを切ってショートカットし出すなど、何度も繰り返すが「世界の車窓から」ライブバージョンという趣であった。
高度がどんどん下がって行く。午後3時頃の事か。高度計を欲しいなと思っていながら持って来なかったのが悔やまれるところだが、湿度と温度の差でその違いがありありと分かる。ふと見ると、不毛だった山々に少しずつ緑が見えるのが嬉しい。ある下り坂で車を停める。紫色のサクラソウのような花が路傍に咲き、すっかり木で覆われた山からは細い滝が落ちている。「水のある景色っていいですねー」とT氏は言った物だが、全く同感だった。お約束通り立ち小便をして、俺達はすっかりその景色をカメラに納めるのに夢中になっていたのだ。
結局、国境の街ザンムーに着いたのは午後6時前のこと。ドライバーに別れを告げて記念写真を撮り、地元の物売りの少年や両替人の勧誘を振り切っている間に国境越えの感傷などは吹き飛んでしまう。一同荷物を背負い、目の前にある中国側最後の税関に何となく、疲れを引きずりながら行ったのであるが・・・。「6時過ぎてるからダメ」・・・何ですと?実は俺達の間で、「国境って何時まで開いてるのかな」という話題はかねてより出ていたのである。ネパール時間じゃまだ夕方4時ですぜ?まだ15分しか超過していなかったので何とか懇願してみても、「すぐそこのホテルに泊まって翌朝10時に来い」の1点張り。今日中に国境を越えるつもりでいた一同は、すぐに「今度こそ中華料理の食い納めだ〜」と諦めてその宿にチェックインしたのである。
かくして翌朝。2日間のランクルの旅の疲れから回復した俺達はその緊張感のない税関に向かった。船で上海に上陸した時もそうだったが、飛行機での入出国に比べてサーフェスでの入出国というのは何て甘いのだろうと思う。日本人ならパスポートさえ見せればボディーチェック無し、X線検査も見てるんだか見てないんだか。その度に俺は「もっと煙草持ってくればよかったなー」「もっと酒持ってくればよかったなー」と思うのである。
税関からずっと纏わりついてきた子供の指すランクルで国境線の友誼橋へ。30分程度の道のりだ。この間にも高度は500メートル程度下がるので、空気の密度は更に濃くなって行く。水。滝。日本の温泉地に来たかのような匂いと景色が俺達にいやがうえでも異国を感じさせた。車のナンバープレートは一言も読めないネパール文字になっていたし、ドライバーの話す言葉は明らかに異国のものだ。道路は中尼公路の続きなのだが、きちんと崖っぷちに柵が作られている部分にネパールの良心を感じたのである。(中国側はどんな崖、下が見えないような崖にも申し訳程度に赤く塗った石が置いてあるだけ。あんな道を無事に来られたのだから感謝せねばなるまい)
さても友誼橋に着いた。何を隠そう初めての陸路国境越えである。長さ50メートルほどの端の真ん中に赤と白の線が引いてあって国境を示している。まごう事なく跨ぐ。この瞬間に起きる2時間15分の時差。不思議の一言で片づけるには余りに惜しいが、不思議なものは仕方がない。国境などは人間の便宜の為のものでしかない事を実感できる一瞬であった。振り返ればそこには「中華人民共和国」の門が。ネパール側には特に何も無し。それが何とも言えないあっけなさでなぁ・・・。
そこからパジェロのドライバーと交渉開始。「ウチのクルマはいいよー三菱だよー」という文句と、税関からずっと着いてきた少年に乗せられて乗り込む事にする。カトマンドゥまで1人500ルピー、3時間の移動だ。何故だか助手席にはチベット人の僧侶も乗っている。もう当分車には満腹感で一杯だったのだが、後少しの辛抱、もう目の前にはカトマンドゥが待っている。暫く走る。小さな村々を横目に見ながら三菱の技術力に感じ入っていると、何故だか突然ドライバーが車を停め、前輪を見つめている。異変に気付いた俺達が車を降りて見てみると―前輪のドライブシャフトが折れてタイヤが思いっきり斜めになっているではないか。いろいろな車の故障を今までに見てきたが、これはどう見ても現場で修理する訳にはいかない雰囲気だった。ドライバーは、「国境まで戻って代わりの車を取ってくる」と行って、通りすがりのタクシーに乗って行ってしまった。車が故障したのは偶然にも民家の目の前。外国人が珍しいらしく、子供などはこちらを覗いて微妙な表情を見せていた。妻はその様子を嬉々としてカメラに納めている。まあ確かに余程のことがなければこんな村には来ないよな、と自分を慰めつつしばらく待つと、やって来たのはどう考えても1970年代製のトヨタカローラ。「値段はそのままでいいから、このタクシーに乗って行ってくれ」つーかむしろ安くするべきだろ、と思ったが、こんな所で放り出されたらたまらない。ドライバーと俺達4人、そして客引きの子供の6人を満載して、そのカローラは案外軽快に山道を下って行った。
3時間後。俺達はついにカトマンドゥの人となった。件の子供はホテルの客引きも兼ねていて、案の定タクシーはそのホテルの目の前で止められたのだが、まあ仕方ないということで暫くはそこに泊まる事となった。(これを書いているのは違う宿だが)寒くない国ネパール。寒かったチベット。もうあれ以上過酷な土地に行く事もないと思うと淋しいような、そうでないような微妙な心境だが、今はカトマンドゥでこれまでにない解放感を味わっている。チベットでは俺にしては珍しく肌荒れに悩まされたのだが、ここに来たらいつの間にか直ってしまった。やはり適度な湿度はいい。チベットのストイックさも魅力ではあるが、また歳をとってからでもいいかな、と思うのである。と、いうわけで暫くはネパールにいようと思いますんで、皆様ひとつよしなに・・・。
2003年4月17日 ネパール カトマンドゥ チベットゲストハウスにて
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