恍惚コラム...

第202回―アジア篇 第2回

 まあ、どこでもインターネットに接続できるという事自体がまだまだ幻想に近い状態なのかも知れないが、中国も段々奥の方に入ってきてそのことを切実に感じている。アクセスポイントには繋がらない、ホテルの部屋から市内通話ひとつするにもいちいち押金(デポジット)を支払わなければならない・・・。この文章だっていつアップされるかも分からないのに書いている状態だ。誰かに見せることを前提にしか文章を書けないのは悲しい事だが、見せる事が叶うか叶わないかも分からない状態で書く文章というのもこれはこれで切ないものである。

 つい先日まで西寧にいて、まあ遅いながらもサクッとパソコンをモジュラージャックに繋いで掲示板に書き込みが出来てはいたのだが、そこから蘭州に移動すると、いよいよ市内通話にもデポジットが要求されることになったのである。ご承知の通り俺は中国語は出来ない、またホテルの従業員も片言の英語しか話さない、そんな状態で謎の日本人が市内通話をしたいなどと言い出すのは中々に勇気が居る事である。本気になればねじ伏せて繋がせることも可能だったのだが、手持ちの人民元の少なさと滞在日数の少なさから諦めてしまったのである。で、西寧。チベット族と回族の人々が中国とは思えないエキゾチックさを演出している街なのであるが、ここの宿も「0」発信で市内通話可能といいながら出来ない。で、何とか怪しい中国語を駆使して開通させるも、この街にある2カ所のアクセスポイントのいずれにも「認証不可」で撥ねられてしまう。今までにも鄭州や西安で10回程度同じ番号に接続してやっと繋がった経験をしているのでまだまだ序の口なのだが、今度はちょっと違うのだ。今までの繋がらない状態というのはモデムの音が妙に濁っていたり、またその音がやたらと長く続いた後に接続が切られる状態だったのだが、今度は澄んだ音がして、すぐに「ユーザー認証中」のメッセージが出るのに「認証不可」。俺は遠く西寧の地で、松田優作演じるジーパン刑事の最期の言葉を思い出していた。「なんぢゃこりゃぁぁあ〜」もしかしてプロバイダから契約を解除されたのではとも思ってしまう。いかに自分がネットに依存した生活を送ってきたかということを嫌というほど感じさせられているのだ。ブロードバンド万歳。暫く接続できないようであればCDーRにでも焼いてスガワラ氏にでも送ろうかなと思っている今日この頃なのである。ちなみに当地ではまだまだ街の看板に「ISDN128K!」などと書いてある状態で・・・。

 さて、そんなこともありつつ、今度は先日遭遇した偽札事件のお話をひとつ。「パチ物天国」とも言われるここ中国。「Pansonic」「NICE(NIKE)」「D−Shock」「Nantian(National)」などを俺も目撃して大分のけぞったものだが、ついにお札のパチ物を掴まされてしまったのである。子供銀行券じゃあるまいし、本当に偽札を、まだ1ヶ月もいない旅行者が掴んでしまうこの国の深さには恐れ入る。

 西安に着いたのは3月の6日。中国で旅行者が両替を出来るのはホテルのカウンターを除けば事実上「中国銀行」だけなので、俺達夫婦は到着の翌日に西安のそこで1万円を人民元に両替した。もう5〜6回は両替を経験したので手慣れたものだ。で、その日は何も起こらず。西安の城壁を散策して、夕方には地元の食堂で炒飯と麻婆豆腐。その後、小さな商店で100元札を出して「釣りが無い」と断られたりした。しかし、である。その翌日に入った「超市(スーパーマーケット)」でその事件は起きたのである。もともと偽札の多いこの国では高額紙幣(100元と50元札ですな)を渡すとピンピン弾かれたり、あるいは表面を丹念に撫で回されたりして大分疑われるのであるが、その超市のお姉さんは俺の出した100元札を一瞥して「NO!」と突き返してきたのである。訳も分からず放心状態の俺達夫婦(ちなみに中国語で「放心」というと「安心」という意味になってしまうようだ)を見て、彼女は真券との違いを説明してくれた。言われるままに毛沢東の肖像の肩の部分を俺も撫でてみると、偽札との違いは明らかだった。真券にある印刷の凹凸が偽札には全く無く、左に入っている透かしも何だかウサンクサイのである。困った。しかしそのお姉さんはその偽札を突き返したきりで、俺達は別の小額紙幣で支払いを済ませたのだった。

 この状況に怒ったのは俺の妻だ。「使えない札を返されても困る!」「中国銀行は何をやってるのか!」と。そんなわけで話をつけようと俺達は翌朝早速両替をした中国銀行に行ったのである。しつこいようだが言葉がうまく通じない中での交渉だ。「おたくで両替した札が偽札だったんですけどー。」「いや、ウチじゃない」この問答を20回ほど繰り返したと思いねえ。結局銀行の係員はまたもその札を回収することもなく、さりとて代わりの真券をくれるでもなく、俺達はしぶしぶ引き下がることにしたのである。が、銀行のドアを開けると目の前にはちょうど放置自転車を回収中の警察官が!妻は早速偽札を見せながらこの窮状を説明に入った。警察官は目の前の銀行を指さして「こっちに行け」と言うのだが、ここでは話にならないから何とかしてくれという意志を何とか伝えようとしばらく筆談を続けたのである。まわりにいた警察官5人が俺達を取り囲み、何だかすっかり俺達が罪人のような雰囲気になりつつあった。「本署に行けば日本語が分かる奴がいるから来い」と言われたようなのだが、俺達はその日の正午までに宿をチェックアウトしなければならなかったので「我要離飯店12:00」と書いて見せると警官はその宿の名前を聞き、そのまま何だか良く分からないがとにかく警察車両に乗らなければならない雰囲気になったので乗ったのである。宿で荷物を引き上げてから取り調べか?そんな緊張感の中、俺達2人と警官5人を乗せたトラックは走り出したのである。

 日本でも経験した事の無い警察車両への乗車。まあ、警察車両とは言っても自転車の撤去に来ていた車だからただのトラックなのだが、ドアには思いきり「公安」と書かれてあって緊張感を煽った。しかしその内装はと言えば、一応無線機が装備されてはいるものの、ダッシュボードの上には無造作に中国歌謡のテープが置かれていて、カーステレオからは別なテープの音楽が大音量で流されていた。その他は普通の中国製トラック。警察官も大声で何か談笑している。緊張しているのは俺達だけで、何だか段々笑いが込み上げてきてしまった。そんな中を車はクラクションを鳴らし、サイレンこそ鳴らさなかったがマイクで何か叫んで一般車両を蹴散らしながら進んで行ったのである。そう、この国での公安の権力は絶大なのだ。

 ほどなくしてその公安トラックは宿に着いた。色々周りから言われているのだが、どうせ意味も分からないので俺達はニヤニヤしている警官連を尻目にすぐさま部屋に行き、荷物をまとめてロビーに戻ったのである。ああ、これから警察に行かねばならないのかと思いながら。しかし・・・、戻ってみればあれほどいた警察官はおろかトラックさえ見当たらない。助けを求める視線を周りの人々に送ったのだが、回りも全然気にしていない。宿の門番に訊いても駅の方を指さすばかり。もしかしたら駅の方で警察官が待っているのかと思って行ってみても、圧倒的な人込みの中にそれらしき人は見当たらなかった。結局、と言うべきか、当然、と言うべきか。俺達は銀行に続き、警察にも放置プレイに遭ってしまったのである。手元に偽100元札を残したまま・・・。中国恐るべし。

 結局、その札はまだ財布の中に入れたままである。当然真券とは混じらないようにしているのだが、話の種にと思ってそうしているのである。昨日(3月17日)に格尓木(ゴルムド)に着いたのだが、ここで出会った日本人旅行者にこれを見せたら大変感激された。「本当にあったなんて!」と彼と彼女は驚き、慌てて自分の100元札を確かめていた。俺達より旅慣れている人たちに偽札識別法を教えるささやかな喜び。それを100元で買ったと思えばまあいいか、と思える今日この頃なのである。しかし・・・やっぱり1500円返せゴルァ!

 そんなわけで、今は中国西部の街・格尓木に来ている。掲示板とも大分ご無沙汰になってしまったので前回の鄭州からの経路をご紹介しよう。
 鄭州→(軟座列車7時間)→西安→(硬座列車13時間)→蘭州→(硬座列車13時間)→西寧→(軟臥列車16時間)→格尓木

 上海から延べ50時間余りの鉄路でここまでやって来たのである。ここ格尓木は標高2800メートルの新興都市。チベット自治区との交易の為に人工的に作られた印象のある街で、道幅はやたら広く、人気もまばらな中国的喧騒とは無縁の乾いた印象の街だ。現に高地のため空気もかなり乾燥しており、寝る前に洗面器に水を張ったり洗濯物を干したりしていないとすぐに喉をやられてしまう。日差しも空の色も全く硬質だ。西寧から格尓木に至る車窓の景色はひたすら砂漠。本当に砂漠だったのである。1時間に1度くらいは小さなローカル駅を見かけるのだが、一体そこで降りて何をするんだろうという疑問を感じるほどの荒涼たる土地。そんな中、突然人口12万といわれるこの街が現れたのであった。水と電気があって、野菜や果物も売っていて、誰もが携帯電話を掛けているのが不思議で仕方ない。西寧からは1本の道路で結ばれているが、どう見ても10時間以上(列車の方が通過待ちや車輌交換等で時間がかかる)はかかる場所なのだ。で、何故にこんな辺鄙な場所に俺達を含めた世界中のバックパッカーが集まって来るのかと言えば、ここが中国国内で外国人に唯一許された陸路でのチベット自治区への入り口だからなのである。公言はしていなかったのだが、妻はチベットに行く事がかねてからの念願で、行けるものなら行ってみたいとずっと言っていたのだった。しかし、標高3800メートル余り、夏でも雪が降るというその土地へ行くのはやはり容易ではない。そんなわけで中国に行ってから考えようと言っていたのだが、行きがかり上、というか、当然、というか、流れ流れてここ格尓木までやって来てしまったのである。恐らくこの1週間のうちにはチベット入りしている事だろう。

 そういう土地柄だから、先程書いたようにいろいろな旅行者と出会う事が出来る。俺達はチベット自治区の区都・拉薩(ラサ)帰りの日本人女性と、拉薩への道中、4000メートルの峠で高山病によるケイレンを起こして引き返してきたという日本人男性の話を聞く事が出来た。噂にはかねてより聞いていたが、ここ格尓木から拉薩へのバス道中では4000〜5000メートルの峠を数ヶ所超えねばならず、そこでは必ずと言っていいほど高山病に悩まされるというのだ。しかも26時間ノンストップのバスで。まだそれを経験していない俺達にとっては大変貴重な話だった。まあ予防できる症状ではないので、覚悟が付いただけなのだけれども・・・。それから逆にネパール側から拉薩を経由して格尓木までやって来た日本人とも飯屋で会ったのだけれど、ここの飯屋マズイよ(炒飯が石鹸臭い!)と言ったらすぐに違う店に行ってしまい、それ以来話を聞けていないのは残念だ。というのも、俺達は拉薩→ネパール→インドを目指しているから。でもネパールから陸路でインドの国境は越えられないという話もあり、その時にはとりあえずバンコクにでも飛んでゆっくり計画を練り直そうと思っている次第。バンコクには土地勘があるし、各国へのビザや航空券が手に入れやすいから。

 今日で、神戸から船に乗って丁度1ヶ月。もう何だか中国国内にいるうちはネットに繋げない雰囲気が濃厚で更新もままならないんですが、とりあえずまたアジアのどこかからお逢いしましょう。それではまた!

2003年3月18日 中国青海省 格尓木市 格尓木市政府招待所にて
 



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