ここ、中国にやって来たのはただ「船で行ける外国だった」という理由のみに他ならなかった。片道2万円、45時間の旅路。後になって知ったのだが、最近の格安航空券には往復3万円(!)なるものもあるそうなので価格的な有り難みはさほど感じられなくなってしまったのだが、それにしても2万円で大陸に渡れるという事は非常に有り難いことだと思ったのである。なにしろ無職、金は無いが時間だけなら売るほどある俺達夫婦にとって、船旅というのはいかにも似付かわしい。
実は、こうしたきちんとした客船に乗るのは初めての経験だったのである。今までにも観光地にあるアヒルの足漕ぎボートや、中学生の頃の林間学校で乗ったカッターボートなぞには乗った事があるのだが、1万トン余りの客船に初めて神戸港で対峙した時には正直言って圧倒された。ご存知の通り埼玉生まれの埼玉育ち、船なぞは殆ど眼前にしたことが無かったのである。それがいきなりこいつに乗って上海くんだりまで行こうというのだから大した根性だ。
乗船手続は神戸ポートターミナルで行われたのだが、そこはあまりに寂寞とした空間だった。1000人以上は入れると思しき広大な待合室に居るのはほんの4、50人。俺たちのようなバックパッカーあり、また大学生の短期留学の一団あり、また勿論帰国しようとする中国人もいて、そこはまさに無国籍な空間だった。曇天の寒い港。こんなところで生活用具1式を持っているだけで、傍目からすれば夜逃げに見えてしまうことだろう。勿論俺の頭の中に去来する曲は「冬のリヴィエラ」。これで決まりだ。
2時間以上待たされて、果たして船は定刻、正午ぴったりに出港した。はじめは淡路島やらの小島がたくさん見え、揺れもさほどない快適な旅だった。自動販売機で売られる150円の国産煙草に歓喜し、船内食堂の格安・本格中華料理に舌鼓を打ったりもした。2晩これで過ごせば中国だなんてまさに夢のようなことに思われた。
しかし、である。船が段々陸地から離れ、周りの景色もいよいよ水平線のみという段になるといよいよ揺れが襲ってきたのである。電車のそれとも、バスのそれとも違う大きな、そして波長の長い揺れである。これには本当に大きな力がある。意識しようがしまいが、確実に体力と食欲を奪ってゆくのだ。飛行機を見て、あんなに大きな鉄の塊が空を飛ぶというのは自然の力に反していると感じるように、俺は改めて人間は水上を往くべきものではないのだと感じさせられた。うまくて仕方ない筈の青島ビールが呑めないこの悩ましさ。妻なぞは2日目を全く飲まず喰わずで過ごしたのである。狭い2段ベッドの中で考えることは全く無かった。無。こういう時間を買いに来たのだと言えば聞こえは良いけれど、少なくももう少し海が穏やかな時に移動したかったものである。
そんなこんなで3日目の朝に上海上陸。ここでは海岸ではなく黄浦江という川に着くのであるが、これがまた広い。誰もがそこを海だと信じていたのだが、地図で確認するとやはり川。黄色く濁った水が川らしさを残してはいるが、日本人の目からすればどう見ても海なのである。続々と下船する人々を尻目に、俺達夫婦は混雑を避けて殆ど最後の方まで船に残っていた。まあ、妻の船酔いが酷くてなかなか立ち上がれなかったというのが本当の所であるが・・・。
かくして、俺達は上海に放り出されたのであった。入国審査といっても形式的にパスポートをチェックするだけだったし、X線検査も見ているんだかどうだか怪しいものだったからだ。取りあえず1万5千円を人民元に両替して街へ出た。何しろ旅行会社なぞは一切通していないから、ここからは本当に自力で飯や宿にありつかなければならないのだ。
その船着き場から出ると、まさに中国的空間が広がっていた。やたらクラクションを鳴らしながら行き交うバイクに、レンガ造りの民家。路上にはあらゆるものが売る気もなさ気に並べられ、飯屋だけがやたらと繁盛していた。なにしろそんな所だから、外国人を泊めてくれそうな宿はなかなか見つからない。こういう旅行だから荷物は1人20キロ以上にも及ぶ。何とか早く宿をキープして身軽になりたいと念ずるのだが、始めにアタックした宿は全く英語が通じずに断念。参ったなという顔をしているとそこのお姉さんは斜め右を指さし、何やら「あっちへ行け」と合図している。そこはちょっと小ギレイなビジネスホテルらしき所でいかにも高そうで嫌だったのだがそこへ行ったらあっさりOK。中国訛りのキツイ英語は聞き取りにくかったが、何とか初日の宿を得る事が出来た。1泊200元。(約3000円)バックパッカーにしてみれば高いのだがまあ仕方なかろう。
その宿は、あとから知った事だがとってもリーズナブルなものだった。それ以降もう7件余りの宿をはしごしてきたが、200元であんなにきれいな宿はちょっと他に無いものだった。漢字がうろ覚えでアレなのだが、とにかく上海の船着き場を出てすぐの広い通りを右に300メートル程行った左側の白いホテルだ。それ以来、一泊55元〜200元まで体験しているが、あの快適さはなかなか得られない。もし上海へ船で行く方があれば是非ご紹介したいものだ。贅沢だって?いや、夫婦での旅なのであんまりハードな宿には行かないようにしているという理由もあるのだが、中国では外国人を泊めていい宿といけない宿が厳密に決められているそうで、行こうとすればごり押しでもっと激安な中国人専用の素泊まり宿(招待所、旅館、住宿と呼ばれる類の場所だ。ちなみに外国人が行けるのは酒店、飯店、賓館、大厦)にも泊まれそうな雰囲気ではあるのだけれど、あまり安い所だと男女別になったりするのでそれはなるべく避けようということになったのである。しかし、中国では部屋代(房費)は「1部屋いくら」という勘定をするので2人で100元のところに泊まれば1人あたり50元、これなら十分に安いといえよう。ちなみに最低ランクは1泊1人55元(これは男女別の相部屋に入れられるから。だから2人だと110元になってしまうのだ!)の8人部屋、男女別仕様だった。上海2日目に早速行ってみたのだが、ここはまさに人種のるつぼ状態。しかも全員が落ち着くまで眠れやしない。10時過ぎに寝ようとしていると11時過ぎに2人連れが大声で話しながら帰ってきたり、もっとひどい場合にはむりやり起こして話しかけようとする奴も出る始末。しかも酔っぱらった西洋人。折しも大学生が春休みなこの時期、そうした宿は日本人の若者のたまり場になる。俺が2日間いた「浦江飯店」のドミトリーも、俺を含めて日本人が4人、あとはオーストラリア人が1人で、ほとんど日本にいるのと変わらない雰囲気だった。しかも2日目の晩に現れた青年は1人が川口在住、そしてもう1人が東松山在住でまさにそこはリトルさいたま。「さいたまさいたまさいたまー」と俺が心の中でつぶやいたのは言うまでもない。今は鄭州(ていしゅう、ジョンジョウ)にいるのでめったに日本人は見かけなくなったが、上海や北京あたりでは結構日本人、しかも大学生を見つけられることだろう。
さて、今鄭州にいると書いた。上海に6日、その郊外の周荘という街に1日、その後再び上海に1日、そして蘇州に3日いて昨日の朝(3月3日)鄭州に着いたのであるが、いやはや、中国の列車というのは聞きしに勝る恐ろしさだ。まずは上海→蘇州。これは何の問題もなかった。「尻掲」にも書いた通りの快適な移動が出来た。しかし、である。総延長5万キロに渡る中国の鉄道。一度走り出したら12時間、24時間は当たり前。中には70時間以上も走りっぱなしの路線もあるのだから、その快適さには大いに興味が湧く所ではないだろうか?お答えしよう。「金次第」。コレ。
まあ、このように書くからには俺がいかにハードな経験をしたか伺えるかと思うが、まあ読み進めてみて頂きたい。まず、俺達は蘇州で鄭州行きの切符を求めて售票処(切符売り場)に行ったのである。勿論町中では日本語はおろか英語も通じないので紙に要旨を書いて販売員に渡したと思いねえ。すると、販売員のお姉さんは「400元(約)」とその紙に書いて返してきたのである。その席は「軟臥」と呼ばれるもので、それはもう日本の寝台列車に相当する快適さが約束されている席なのだ。クッションの効いた2段ベッドに布団と枕が付いてくる。しかし妻はこの価格に難色を示したのである。800キロも移動させて頂くのにあんまりケチっても、と俺は言ったものだが、妻はその紙に「硬座」と書いてお姉さんに突き返したのである。すると帰ってきた返事は「214元」。いきなり半額である。そこから俺達の悲劇は始まったのであった。
して、約束の3月2日の夕刻になった。蘇州を6時33分発だというので5時過ぎに待合所に入る事にした。何しろここは中国である。どんな予定変更が起きても不思議ではないからだ。もうそこは混雑、混雑といっても普通日本国内で経験できる混雑とは桁が違う。13億人民が織りなす混雑というのはもうスケールからして違う。あふれ出す人々が駅の周辺で荷物を枕に平気で寝そべっているし、イスもほとんど満席状態。その間隙を縫って片脚の無い物乞いやら物売りやらが行き交う世界だ。そこでまず1時間半待つ事になった。その間にもさまざまな列車が出たり入ったり。便所には長い行列が出来ていた。
で、運命の6時過ぎ。こちらの列車はあくまでホームではなく待合所で待つ事になっていて、発車の30分前に当該列車のみの改札が始まるというシステムになっているのだ。改札の列には無数の人が殺到し、中国人はまず並ぶということをしないからもう滅茶苦茶、それ以外の言葉が見つからない。で、やっとの思いで改札を抜けると人々が列車の入り口に向かって歩き出す。周りでは駅員がメガホンで何か叫んでいるが言葉が分からないので放っておく。で、また列車の入り口が阿鼻叫喚状態。駅員が一生懸命並ばせようとしているのだが効果無しだ。
やっとの思いで乗り込めば、そこにはまた盆暮れの新幹線以上の混雑が待っていた。指定席を取ったはずで、チケットにも席の場所が明記されているのに何故か満席。何処に向かおうとしているのか、それでも通路を埋め尽くした人々は進行方向に向かって一生懸命押してくる。60センチほどのすき間にこれ以上ないと言うほどの人が詰め込まれているのだ。長距離列車だと荷物の多い人が多いからその苦労は並外れたものになる。そんな中でも笑えたのは、どう見ても逆走出来ないその通路をワゴンを押しながらやって来る売り子だ。大体、どこの世界にそんな状況で悠長にワゴンを押してくる売り子がいると思う?案の定、というか、当然、というか、ある一人の現地人と言い争いになっていた。これ以下は俺のフィーリングによる意訳。「ちょっとあんた、こっちも仕事なんだから通してくれなきゃ困るでしょ」「そんなこと知るか、通れるもんなら通ってみやがれ」「あたいだってこれに生活賭けてるのよ!」「じゃぁ聞いてやるよ、おいみんな、この料理要るか?」(一同沈黙)「ああ、みんな要らないってよ!」「何言ってやがるこのゲス野郎!」・・・ってな具合でそのワゴン嬢は10分以上にわたって足止めを喰っていたのだが、何とか通してもらったのである。そんな具合だったので、俺達も1時間余り立ち通し。その間にも物凄く太ったオバハンが荷物を頭に載せながら俺達を追い越して行ったり、逆走するオジサンを一生懸命通してやったりと、外気温は2度とか4度なのにもかかわらずすっかり汗だくになってしまった次第。
で、次の駅に着き、やっと空席が出たので座っていると、今度は「ここが俺の指定席だ」と迫ってくる中国人あり。こっちだって指定席にとうに座られているのだ。・・・と思ったが、ここは外国。事を荒立ててはいけないと思って席を立つ(立つ、と言っても前に空間が無いので一苦労なのである)事にすると、「御前の指定席は何処だ」と聞かれた気がするので切符を見せてやった。で、「じゃあそこに座ればいいだろ」と言われたのでその席に行ってそれらしい仕草をしてみれば、なんとそこに座っていたのは日本語が分かる中国人!「いいよ(日本語)」といきなりタメ口で席を譲ってくれたのである。世界は狭い・・・。
やっと席を確保するも、室内は真冬とは思えない高温状態。便所に行きたくても一度立ってしまえば座席の保証は無いカオス状態。向かいの人は何故か歌い出すわ口笛は吹き出すわの上機嫌。その隣の小姐(シャオジェ、若いお姉ちゃん)はこんな状態なのにミカン→なんか豆腐→ヒマワリの種(ウマイですよ)→ソーセージ→カップ麺と夜中の1時過ぎまで喰いっぱなし。そうかと思えば俺のすぐ右の人は穴開き靴下を見せつけながら座席の上であぐらを組み出すし、反対側の座席ではむずかる赤ん坊にペプシコーラの2リットルボトルをダイレクトに飲ませてる。そのうち前の席の人が代わったんだけど、そいつはおとなしそうな顔をしながら床に痰を吐いて自分の足で広げて延ばす始末。
まぁ、そんな中でも14時間の旅路、少しは寝なければと思って目を閉じていると、今度は夜中の1時過ぎに廊下を掃きに車掌が現れた。中国の人はどんなものでも平気で路上や床に捨ててしまうのでこうした作業が不可欠なのだが、何も寝てる人を起こしてまで掃く事はないだろうに・・・。しかし眠気には勝てず、午前2時から6時過ぎまでは半分寝て半分起きるようなトランス状態で過ごしたのである。
そんなカオス状態の中、いよいよ夜が明けてきた。車窓には果てしない地平線と、ときどき見える集落の姿が見えてくる。こんな所までどうやって歩いてきたんだろうと思わせる農夫の姿や、畦道を往く羊飼いの姿が寝ぼけ眼に新鮮だった。朝になり、鄭州近郊の駅から乗り込んでくる人も増えてきた。が、しかし、鄭州を間近に控えた俺の足下を襲ったのは・・・ペプシコーラダイレクト飲み赤子の尿!!周りに他の液体発生源が無い事を考えると、あれはどう考えても尿だった。それを証拠に、その赤子はその前の晩もケツ割れズボン(中国の田舎の乳児は臀部が開いた服を着ている)から思いきり脱糞し、周囲を匂いで満たしていたのだった。まあ俺は靴底を汚しただけで済んだのだが、妻は靴ひもまで被害に遭い、速攻で洗っていた・・・。その日は全く使い物にならず、殆ど寝て過ごした事は言うまでも無い。
まあそんなこんなで中国硬座列車、14時間の旅は幕を閉じたのであったが、明後日(3月6日)も乗るんです、硬座・・・。まあ今度は鄭州→西安で7時間、しかも昼間なので少しはマシな筈なのだが、いまから戦慄が走りますな。マジで。いつかは軟臥。これが夢ですな。
・・・話し出せば尽きないのだが、今回のお話はひとまずここまで。月に1度くらいは何とか更新したいと思ってますんで乞うご期待、ですわ・・・。
2003年3月4日 中国 鄭州 廣州大酒店にて
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