飯事(ままごと)のような暮らし、という言葉が頭から離れない。この事については前にも何処かに書いた筈なのだが、太宰治の「斜陽」でのワンフレーズなのである。まさに斜陽を迎えている資産家が着物なぞを少しずつ切り売りして暮らしているという場面で出てきた言葉だ。何とも言い得て妙。このフレーズに触れてより以来、俺は子供の飯事を見ても泣けてくるようになってしまった。今、試みにこのフレーズをそのまま「google」で検索してみたら結構な数のサイトが引っかかってきた。どれも自分の窮状や過去の浮薄な暮らしを告白した内容となっている。かほど左様に「飯事」とは人の郷愁を誘い、また「嘘臭い」自分の立場を比喩するのに相応しい言葉なのだ。
嘘臭い、と書いた。こう見えて保守的な俺の事である。職を変えるごとに俺は「嘘臭い」思いに囚われながらここまでやって来た。何故か公務員にだけはなりたいと思う事はなかったが、しかし少しでも安定した立場へと思いながら、その実過去のキャリアが邪魔をして結局手近な会社で僅かな給料を得たりした。そして再び俺は仕事を変える岐路に立っている。
きれい事を言おう。「年齢や性別がチャンスを削ぐ要因ではない」「いつでもやりたい事に向かっていればきっと叶う」「能力があればどんな所へ行っても生かされる」等々。俺は耳に心地よいこれらの言葉を心の中で呟きながら、飯事の景色をいつも頭の中に浮かべている。
最近の子供達がどのような役割分担で飯事をするのかは知らないが、飯事の前提にあるものはやはり平穏な家庭、ということであろう。先程から観念的な事ばかり書いている自分が腹立たしいのだが、父親が帰ってくると母親がサッと夕食を出す・・・。そういう景色が飯事には欠かせない。そして砂を白飯に見立て、木の葉をおかずに見立てた夕餉が始まるのだ。しかし、飯事の悲しみはそこに由来する。砂の白飯に木の葉のおかず。思い付く道具立てはそのくらいだ。強いて言えばそこに洗面器の食器や小枝の箸が加わるくらいで、そこには何一つ本来のものが本来の格好で用意されていない。それでも画一的に、スムーズすぎるほどスムーズに始まる夕餉の一時。子供がしていることだからいいようなものの、大人が本気でこれを始めたらどうなるか。まさか本当に公園でゴザを広げてこれを始める大人がいればそれはもう警察に通報されるか、その系統の病院に担ぎ込まれるところだろう。
だが元来、我々大人の生活も飯事の要素を秘めている。富める者も貧しい者も、本当に望ましいお膳立ての上で暮らせる筈がないわけで、そこにはなにがしかの諦観や代償行為が必ず必要となってくる。金があろうと無かろうと。好きな食べ物を目の前にし、どんな職業に就いていようとも。人間の脳裏には常に他の選択肢を羨む気持ちがある。どんなに自分の気に入ったものを買った時でも広い世界にはそれを凌ぐ性能やルックスを持ったものが必ずあるし、また将来出来たりもする。そのような事で砂を白飯に見立てるような切なさが現実の生活にある事を知ると、人は途端に幼少の頃の飯事を思い出すのだ。
飯事には無限の可能性がある。目の前にないものを想像力だけで現前させる事が出来る。しかし現実の暮らしはどうだろうか。答えるまでもないだろう。それなら飯事の方が素晴らしいではないか。飯事もまんざら馬鹿にしたものではないのである。
そうなると、思い通りにならない人生の諸相も、飯事のパーツが足りないような気持ちで乗り切れば良いという単純な結論が導かれる。物が揃わなければ揃わないほど深まるのが飯事の世界。人生もまたそういうものだと思いこめばこんなに楽な物はない。まさに清貧の思想。
今、再び、より貧しい生活へと移行しようとしている俺にとって、飯事とは新しい人生の指針となった。
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