何も言わずに去るのがスマートなのか。それとも饒舌のうちに去るのが情を感じさせるものだろうか。俺は今、色々な取引先やら関係先に同じ事を説明するのに疲れ果てているところだ。勿論、これは先週書いた事に対してなのであるが、とにかく人が変わるたびに同じ事を一から説明し直さなければならないのには閉口している。いっそ紙に書いて配ろうかとさえ思うほどだ。
それにしても羨む人あり、事務的にやり過ごす人あり。普段の仕事では淡々と事務的にしている会話も、「辞める」の3文字で劇的なものに変えられるこの快感はなかなか得難いものだ。まさにサラリーマンの切り札。話題に事欠く事もないし、簡単に向こうから質問攻めにしてくれる。質問の内容は至極陳腐なものなので割愛させていただくが、こんなに豊饒な会話を辞める前に出来ていたならばさぞかし営業成績も上がった筈だろうと複雑な気持ちになっている昨今なのだ。今度サラリーマンになる時には考えてみたいテーマではある。
と、いうわけで一歩一歩着実に旅立ちの日への布石を敷いている俺なのだが、まだ2つ、厄介な問題を抱えているのだ。その1つ目は―あくまで「休職」扱いなため、会社が辞令を公布してくれないという事。関係先には散々辞める話をしているのに、会社内では一部の人間しかこの件を知らないのである。これは厄介だ。外部の人間から俺が辞める話を聞く従業員が出るかも知れない。これはかなり変だろう。そんな事は気にする事ではない、というのも正論なのであるが、色々と世話になった同僚たちにこの事実を自分から口にするのは憚られる。大会社ならば掲示板に辞令が貼られてハイ完了、となるのだろうが、零細企業に勤める身。しかも周りは皆給与や勤務時間等の処遇にイラついている連中ばかりだ。俺が辞めるとなれば雪崩的に退職者が出て騒ぎになりそうな勢いなのである。大体、こういう事は上から伝えるのが筋だと思うのでここまで放ってきてしまったのだが、俺が居るのもあと10日余り。ある日から突然姿が見えない、というのもミステリアスで格好良いものかも知れないが、そんな事をしたところでその騒動っぷりを知ることは出来ないから面白くない。自分の葬式に何人来るかを知ることが出来ないのと同じ理屈だ。やはりそれとなく伝えてゆくのが筋というものであろう。しかし、気が重い・・・。こうして離れかけて見ると、人事もへったくれもない会社だったということが良く分かるというものだ。最後までボーナスの査定はなかったし。
幸か不幸か、大会社に勤めた事のない俺である。前職は皆様ご承知の通り、そして現職は場末の掃除屋。大きな組織に組み込まれた事がないからこんな事を言えるのかも知れないが、いずれも私情でもってやって来た仕事なだけに辞める時には複雑に絡み合った毛玉が手元に残る。まあ、俺にしてみれば夜逃げをしないだけ大きな進歩なのだが・・・。
それから、問題の2つ目は―引き継ぐべき人が正社員ではない、と言うこと。今の時代、給与生活者を正社員かパートかで分かつ事は意味がない事なのだが、実は俺が今引き継ぎをしている人は社長の知り合いで、ウチの会社に間借りして老人ホームを起業しようとしている人なのだ。ちょっと分かりづらい話かも知れないがもうしばらく読み進めてみていただきたい。その人は某地方中堅病院で事務職をしていたのだが、派閥争いのために閑職に追い込まれて退職をしてきた人なのである。ウチの会社はそこの病院で以前清掃業務をしていたことがきっかけで社長と縁が出来ていたので、彼はそのままウチの会社の机で自分の事業立ち上げの事務をしているのである。
老人ホームというのは公益性の高い許認可事業だから、計画の立案やら土地の確保に非常な時間がかかる。何処の土地を買うかという点から始まり、どういう設計にするのか、そして収支の目論見書の作成・・・それだけでも数ヶ月を要するのに、それから市町村→都道府県→厚生労働省の3段階の認可を通らなければならない。何でも経営者として適格かどうか面接まであるらしいのだ。で、相手は役所である。こちらの意向とは裏腹に何ヶ月も平気で待たされる。すなわち暇な時間が多く出来る。だからウチの社長は同氏をとりあえずという形で俺の後釜として据えたのである。
しかし、掃除屋が偉そうな事をと言う勿れ。掃除屋にだって専門用語がある。汚れに応じた単価設定がある。クレーム処理のツボもある。そうした事をこの短期間でその人に伝えなければならないというところが今、悩ましいのだ。彼は事務屋を自称する男なのだが、交渉能力は素晴らしい人だ。しかし全く違う業界から来たというハンデは拭えない。50を間近にした人に俺も厳しい事は言えないし、毎日が針のむしろなのである。しかもその人とて老人ホームが立ち上がってしまえば居なくなる身。おそらくこの1年余りの間に居なくなる事が確定しているのである。それで俺は更に強く言えなくなる・・・。
一応会社としてもこれはマズいという事で営業職を2名、本日1月19日付の朝刊折り込みで(今頃!)急募している所なのだが、その文面に俺は苦笑した。「営業正社員2名急募 あなたの得意分野で活躍してください 給与面談の上 ワード・エクセル堪能な方」・・・堪能?・・・。給与も明記されていない求人広告に「ワード・エクセル堪能な方」が飛びつくだろうか?当初は「ワード・エクセル出来る方」という文面だったそうなのだが、社長の一声で「堪能」に書き換えられたそうだ。しかし、重役以下は皆「絶対誰も来ない」と断言しているところなのである。
まあいずれにしても、今月末になれば全てが救われる筈の事ばかりなので良いのだけれど、結婚も就職も、そして人生も、終わり際の方がエネルギーを使うもののようで・・・。
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