第194回

 うろ覚えによれば、所謂ファミコンが世に出たのは俺が小学校3年から4年の頃だったから1984年ごろの事か。当時の俺はその刺激的なマシーンに心を惹かれ、そのゲームコンテンツよりもむしろそれで実行できる「ファミリーベーシック」に憧憬を抱いていたものだが、そんな事はとうの昔の話。それ以来一般のパソコンは8ビットから16ビット、そして32ビットへと進化を遂げ、コンシューマーゲーム機も実写さながらのグラフィックを見せてくれるようになってきた訳なのだが、最近その進化の方向は同じ機能をいかに小さなスペースに実装できるかという部分へと向かっているように思える。PDAやコンパクトゲーム機はまさにその典型と言えるものだろうが、それよりも驚きをもって語られるべきはやはり最近の携帯電話機の進化であろう。弁当箱サイズの本体からカールコードで受話器が繋がっているというシーンを知っている人は今や少数派で、重さ100グラム程度は当たり前、しかも動画の再生や記録まで可能だというのだから、もし10年前からタイムスリップしてきた人が見たら卒倒モノであろう。その頃の人々は主に「ポケットベル」なる隔靴掻痒きわまりないデバイスを使っていたからだ。

 こうしたコンピュータ・通信関係の技術の進化を目の当たりにするたびに思う事がある。平成元年生まれの子供たちがもう14歳になろうとする昨今、子供の頃からこのようなモノが目の前に溢れているというのは一体どういう感覚なのだろうか?まあ目の前にあって、簡単に手に入るものなのだから別段何の感慨も覚えないのだろうが、半分オヤジの域に足を突っ込みつつある俺にしてみれば羨ましいような、そうでないような、何しろ不思議な気持ちがするのである。

 柏の国道を折れた、新興商業地の午後。だだっ広い道路には車の数も少なく、時折紺色ジャージの中学生が家路につくのが見える。出来るだけファミリーレストランには入らない事にしている俺なのだが、時刻は既に13時過ぎ。他に良さそうな店もなさそうだったのでその間延びした街の小ぎれいなファミリーレストランに向けて俺はハンドルを切った。

 何故俺がファミリーレストラン、殊に昼時のそこに入りたがらないのかと言えば、まずヤンママ(死語)が多く、子供が煩いから。それから食事が出てくるのが遅い。基本的には冷凍食品を解凍するだけなのにどうしてあんなに待たせるのか。それから、どうしてそんなご身分なのか分からないが昼間から中高生がたむろしている事が多いからだ。

 不幸にも、その日の俺は壁際の狭いシートに通されてしまった。しかも隣にはあからさまに中学生風情丸出しの7人組。各々が携帯電話を手に持ち、相対しているのにメールやらそのカメラ機能やらに興じている。机の上には食い散らかされた空の食器が下げられる事もなく並んでいた。

 親知らずを抜かれた跡が完治していない俺は、その痛みと相談しながら慎重にメニューを選んだ。選んで選んで選び抜き、シーフードのパスタとアスパラガスのサラダを注文した俺はファミレスならではの待ち時間に苛まれる事となった。こういう時には厭でも隣の話が耳に入ってしまうものだ。慰みに車から持ってきた雑誌も頭に入らず、神経は隣の会話に集中してしまう。

 するとまあ、坊主頭+紺ジャージ+その上に学ラン姿の少年たちがこんな暴挙に出ているではないか。
 ・交際相手のラブラブなメールは「保護」して消去されないようにしている。
 ・その場からその交際相手に電話している者もいる。
 ・誰と「ヤる」「ヤらない」という話をしている。ずっと聞いていたのだが、アイドルやタレントの名前ではない。身近にいる誰かの様だ。
 ・女子との「プリクラ」を何故か靴の中に隠している(笑)

 少し前ならこういう話をする輩はそういう外見をしているものだと相場は決まっていた。しかし俺の目の前にいたのは何の変哲もない、どこにでも居そうな(どちらかと言えば田舎臭い)男子中学生だったのである。それはもう俺だって猥談の限りを尽くした男だが、実際のアクションを中学生のみぎりに起こした事は1度としてなく、一人慰めるのが常だったのだ。それが今やこうだ。昔より娯楽はむしろ増えたはずなのに、彼らは本能をダイレクトに表現する術を知ってしまっているようだった。

 それをすべてコンピュータや携帯電話のせいにするつもりは俺にもない。しかし、あのノートの切れ端にメッセージを書いて授業中に回す醍醐味を今の中学生は知っているだろうか?好きな子に電話をした時にまず親が出てしまうという洗礼を受ける事はあるのだろうか?いつでもどこでも、その拙い文字のみのメッセージで感情を十分に伝えきる事が出来るのだろうか?大いに疑問である。

 その席上、彼らは「マ○コ」という単語を何度も何度も、俺が隣にいるにも拘わらず連呼していた。確かに俺もその年頃には言いたくて言いたくて仕方のなかった語ではある。しかし違うのは彼らにとっての「マ○コ」は「誰の」というはっきりした所有格をもって語られていることだ。これは凄い。俺達がソレを見た事もないのにひたすら叫んでいたのとは訳が違う。

 思うに、これは携帯電話の文字入力の方式が煩雑で、長いメッセージを入力するのが困難なことに起因するのだと思う。長い愛のメッセージはメールには似合わない。「あなたが好きで云々」よりは「ヤリタイ」と言うほうが楽でいいし、「君の秘密の花園が云々」よりは「マ○コ」と言い切ったほうがスムーズだ。まあこれは大げさかもしれないが、メールメッセージを打ち慣れる事でボキャブラリーというか、気の利いた婉曲表現が出来なくなってしまっているのだろう。以前では「直接言う」若しくは「手紙を書く」の2つの選択肢しかなかった求愛のシーンにメールという新手が入ってきたことにより、随分とIT革命というか、ワンストップチャネルというか、コンビニエンスな結末の迎え方が一般化しているように思えるのだ。聞いた訳ではないが、今では誰もラブレターなぞ書かないのだろう。小さな液晶画面に映る愛のメッセージ。それが彼らを支配し突き動かしているのかと思うと遣る瀬無い心持ちになる。

 最も異性に興味が湧き、愛の言葉を囁いてみたくなる思春期。その掌には携帯が握られている。少年は電話番号を押さずにまずメールアドレスを入力するのだろう。そんな事が当たり前のこととして育った世代が大人になった時、果たして世間はどのようになるのだろうか。良きにつけ悪しきにつけ、そんな時に今から興味津々な俺なのである。
 
 
 



メール

帰省ラッシュ