歯が痛い。というよりも、正確に言えば歯茎が痛い。そう、今日は一昨年に引き続き左側の親知らずを抜かれてきたのである。今すぐに抜かねばならないという程ではなかったのだが、いずれ抜かねばならないのだからいっそのこと今日に、という話になったのである。しかしそれにしても、あれから3時間余り経つのに血が止まらない。いっそのことこのコラムも落とそうかと一瞬は迷ったのだが、この痛み、誰かに伝えずには居られないのである。一昨年にも同じような文章を書いたような気がしなくもないのだが、それは気のせい。少なくもこれは2002年12月15日に書き下ろしたものなのだ。
抜歯に限らず、歯科で案外痛いのが麻酔針の挿入シーンである。痛みを抑えるための麻酔とは言え、それを施術するための針の痛みにはなかなか堪え難いものがある。俺の場合今日は抜歯という事で歯茎の外側に3本、そして歯と歯の間に2本と5本の麻酔針を受けたのだが、その痛かった事と言ったらなかった。もちろん痛いのは最初の方だけで後半は痛みは薄れてゆくのだが、今日はより深いところに針を刺されたらしく、まさに「ブスリ」という衝撃が俺の頭蓋に伝わってきたのである。革に針を通すような感覚。最初は抵抗があるが、その中身は案外柔らかいような、そんな何物かに針を通すような感触を皆様も想像してみて頂きたい。俺はいつもこの瞬間に処女破瓜、あるいは出産の痛みに思いを馳せるのだ。処女膜にいかほどの弾力性があるのか、残念ながら俺は知りえない立場にあるのだが、きっとこんな痛みや衝撃を伴うものなのだろうと思う。女性は男性より痛みに対する閾値が高いと聞くが、処女破瓜は当然ながら、これ以上の痛みを伴うであろう出産を麻酔なしでやってのける女性というものの偉大さを俺は歯茎への注射の度に感じているのだ。そもそも歯科治療というもの自体が女性的な心境にさせる要素に満ちているとは言えないだろうか。口腔内への侵襲。そして大概が男性である医師による指技。SMプレイに口の中を責めるというのがあるという話を聞いた事はないのだが、いつ採り入れられてもおかしくないのではないかと思う。それほどまでに歯科にはエロティックな要素が満ちている。そんな事を思うのは俺だけなのだろうか・・・。
それから抜歯に欠かせないのがノミやら木づちやらのプリミティブな工具類だ。歯科で助手をしている妻からいろいろな「難抜歯」の事例をかねてより聞かされて、その度に厭な気分にさせられていたのだが、遂に俺は今日、かねてより聞いていた最終兵器・木づちに遭遇してしまったのである。以前に反対側の親知らずを抜いた時にはお目にかからなかったのだが、今回はどうも脱臼しづらかったようで登場と相成ったのである。もちろんこれは俺史上初体験。歯の根に普通のマイナスドライバーほどのノミを入れられ、後はひたすらその先を叩く叩く叩く!「ちょっと響きますからね〜」と医者殿は軽く言ってのけたものだったが、痛いです。顎があらぬ方向に曲がるのではないかと思ったのです。さすがに顎にまで麻酔はかけなかったからな・・・。
で、結局1時間余りに及んだ抜歯劇もいよいよ佳境に入った頃。いよいよ俺の親知らずは断末魔の声を上げる事となったのであった。ミシミシと厭な音を立てながらそれは抜けたようなのだったが(何しろ麻酔されていたから分からないのだ)、寡黙な医師はその事を俺に告げるでもなく止血の処置に忙しそうであった。しかし何である。あのミシミシという音。きっと車に轢かれたり、某かの機械に挟まれたりしたときには同じような音を聞く事になるのだろうと思うと何だか薄気味悪くなってくる。きっと骨が折れる時にも同じような音がするものなのだろう。折しも俺は先日、あまり関係はないかも知れないが飛び降り自殺の跡の洗浄、という仕事をしてきたばかりだったから、目の前を幾度も通り過ぎる血染めの脱脂綿のイメージと合わせて、ああ、人って案外簡単に死ぬものなのかも知れないなぁなどと悟ったような気分になったのであった。おかげさまで入院も手術もしたことがない俺なのだけれど、この程度の「小手術」でこんなに心細くなるのだから大手術、大入院になったらその辛さはいかばかりになるのだろうか。まあ大手術ならば全身麻酔を掛けられて知らぬ間に手術は終わっているという寸法になっているのだろうが、その場合は何しろその間の記憶を全く失う事になるのだ。それはそれで気味の悪い事ではないか。巷間、酒のせいで記憶を飛ばす話がよく聞かれるけれど、丁度あのような感じになってしまうのだろうか。それもまた何だか・・・。誰しも、自分が自分であると断言できるのは記憶に連続性があるからだ。その大前提を破ってしまう麻酔というのはやはり身体的にも精神的にも大きな負荷となるのだと思う。
さて、ここまで書いても歯茎の痛みは治まらない。酒も風呂も我慢して、きっちり薬も飲んでいるのに何だか疼く。疼くのは違うところにしていただきたいのだがこればかりはどうにもならない。偶の休肝日を頂いたことにして、今夜は早く休みたいと思う。
|