気まぐれで始めたのはいいけれど、引っ込みが付かなくなって2ヶ月余りも続けてしまった連載「CEOのカメラ思い出話」はお楽しみいただけただろうか?興味のある方にもそうでない方にも楽しんでいただける文章を目指したつもりだったのだけれど、ご感想は如何なものだろうか・・・。おかげでここ数ヶ月はカメラのことで頭が一杯。このコラムもカメラの話さえ書けばいい状態だったもので、いざ連載が終わってみると・・・。フリートークが苦手になっている俺が居る。さて、何から書いたものか・・・。
・・・物心付いたころから強度の近眼な俺。小学入学と同時に「メガネ猿」の称号を戴き、それ以来寝るときや水に入るときには視野を殆ど奪われた状態で生きてきたわけだ。何を隠そう俺の視力は例の壁掛けチャートでは計測不能。推定視力は0.05程度なのである。だからあののぞき込むタイプの機械で測られるわけなのだが、そこには−12Dとかいう数字が出てくる。どういう意味なのか俺にはよく分からないのだが、何か「10」を越えているというだけでものすごく悪いという気がしないだろうか?そういったわけで俺の半生にはいくつもの見逃してきた場面というものが存在する。小・中学校のプールの授業ではいくつもの萌え萌えシーンを見逃してきたし(これは今でも本当に惜しいと思っている、何度そのためにプールを見学しようと思ったか知れない。同級生の水着姿をじっくり見たのは卒業アルバム上でしかなかったのだ)、床屋では眼鏡を外されるので自分の髪形すら確認できないという体たらくなのだ。風呂場での髭剃りも専ら盲牌状態。ベリー・剃れてないのである。
さて、そんな俺はこの5ヶ月余り歯医者に通っている。あんな所が好きな御仁が居るはずはないと思うので敢えて書かせてもらうが、本当に面倒だったのでここ2年余り、虫歯になっているのを自ら誤魔化しながら暮らしてしまったのだ。それがいけなかったのである。今年の7月に歯医者に行き始めたのにまだ解放されないのだ。週に1度しか通えないという事情もあるのだが、毎週毎週日曜日をこれに割かなければならない苦痛と言ったら・・・。
そんな歯医者通いの度に思うことがある。それはやはり見えない不安という事柄についてだ。歯医者に行く。するとオヤジに口内に指を突っ込まれ、しかる後に某かの器具を挿入されるのが通常のパターンなのだが、超ド近眼の俺はその器具がどんな形状のものなのか直前まで見ることが出来ないのである。これは辛い。「知らないほうがいいじゃないか」というご意見もあろうが、やはり知っておきたいではないか。尖り具合とかもろもろの概要を。あのエアーを送り込む機械とドリルを事前に峻別しておくことが出来れば大分心情的には楽になるのではないかと俺は思う。否、やっぱり分かっていたほうがいいのかしら・・・。でもやはり医者が器具を取り換える瞬間の緊張感。これは目のいい方には分からない心境なのだろうと思う。で、あごの先まで器具が来た瞬間に「うわ、ドリルだ」とか「これはエアーだな」と初めて気づく情けなさ。生活のほかの面ではさして不便さも感じなくなってしまっているのだが、近頃歯医者に通いながらそんな事を考えているのである。
また、会社では洗車魔で通っている俺。ボディーの汚れが気になるのは勿論なのだが、窓ガラスの汚れが特に許せないのである。他の連中はどんなに内ガラスがヤニだらけだろうが外がラスがほこりまみれだろうが平気で運転してゆくにも拘わらず、俺は出来るだけガラスを拭いてから乗車することにしている。忙しくて窓を拭く暇が無いときには晴れた日でも当然の如くウインドゥ・ウォッシャーを噴きまくってワイパーをブンブン動かしている。それというのも、我々眼鏡人種は常に一枚のガラスを目の前に装着しているというハンデを負っているからだ。その眼鏡だけでも億劫だというのに、さらにその前にもう一枚のガラスがあるという憂鬱。それが俺をして窓拭き・洗車へと駆り立てるのだ。夜、対向車のヘッドライトでフロントガラスの油膜が光る。そしてさらに自分の眼鏡の油膜が光る。眼鏡ドライバーにとってこれほど隔靴掻痒の思いがする瞬間はないだろう。「それなら眼鏡をいつもキレイにしておけばいいではないか」と思われるかも知れないが、眼鏡というのはそんなに飼いならせる存在ではないのである。ちょっとずらした瞬間に指や鼻の脂が付き、また中華料理店などに入っただけで全面が脂っぽくなってしまうものなのだ。その変化は順光ではなかなか分かりづらいものだから、結局視覚を駆使する運転というシーンになるまで気づかないものなのである。だから俺は車の窓を今日も明日も拭き続けなければならない運命にあるのだ。道行く車を見ても、何となく眼鏡を掛けた人が運転している車の方が窓がキレイな気がするのは気のせいではないように思う。
両親ともに眼鏡を掛けている俺が近眼(正確に言えば乱視も含まれているが)になったのは必然といえば必然だろう。正直、眼鏡ビギナーの小学生の頃には周囲にからかわれて辛い目にも遭い、親を恨んだ日もあった。写真にのめり込んでいたころにはファインダーが見づらいからといってコンタクトに換え、なお正常人にはない「コンタクトを落とす恐怖」に苛まれて暮らしてきた日もあった。しかし、俺は結局眼鏡に帰ってきたのである。その取り扱いの簡便さは流石だし、落としてそれ自体をなくす心配もないのだ。ビバ眼鏡。
寝て眼鏡を外し、起きて再びそれを掛ける。二通りの視覚を俺はこれからも生き続けるのだ。
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