CEOのカメラ思い出話
(18)「俺のじゃないカメラ達・パート9」の巻
ダラダラと書き続けてきた本連載も今回でついに最終回である。今回は締めくくりに「ジナーP2」について書き、その後にスガワラ氏から頂戴した寄稿を紹介してゆくこととしたい。分かる人には分かる、そうでない人には全く分からない文章を書き続けてきたこの2ヶ月余りであったが、我ながらここまで大量のカメラに囲まれてきたのだなと思うと感慨深いものがある。泣いても笑っても今回が最終回である。どうかご笑納頂きたい。
・ジナーP2
先週は「トヨ」のカメラ2機種を紹介したのだが、ずいぶん散々な評価をしてしまったものだと今になっても思う。大味なカメラだ大味なカメラだと書きすぎてしまったような気がしているのだ。しかしまあ、いくら取り繕っても骨と皮のようなカメラである。俺のカメラフェチ魂をもってしても救いようがないのだ。
だがしかし、そんな大判カメラの中にも物欲をそそり、格調を漂わせるものもいくつかある。ドイツのリンホフ、あるいはスイスのジナー(Sinar)・・・。今回はそのジナーの話をしてみたいと思う。
ジナー社は1879年にカール・オーガスト・コッホが写真館を構えたのがきっかけとなり、その後家業を継いだ彼の息子が1947年にジナーカメラの特許を取ったというのだからカメラメーカーとしての歴史はさほど長くはない。しかし同社のカメラは本格的な大判システムカメラの嚆矢としてスタジオマンの間では伝説的なカメラとなっているのだ。あの仏像の写真で有名な土門拳がこのジナー(多分Fだ)と写っているポートレートは有名なものだ。ジナーのカメラは価格が滅法高いが、すべての機種でパーツが流用出来たり、大判カメラ初のTTLシステムを導入したり、何よりも各部の操作感がスムーズと言うことで昔からプロ、その中でもメカフェチ的な人々が使うカメラであったのだ。あの手のカメラの動作がスムーズ、という場合には蛇腹の繰出し用のラック&ピニオンがスムーズだとか、前枠・後枠のライズ操作が滑らかだとかそういう事を指す訳なのだが、原始的なカメラだけにこうしたフィジカルな部分が大切にされるのである。そんな同社だが最近ではデジタル分野でも有名になってきており、そういえばPCで直接制御できる4×5を初めて出したのもジナーだったように記憶している。(たしかジナーEとか言うカメラだった)
さて、そんなジナーに俺が接したのは大学3,4年の頃だったか、或いは大学を出てすぐの頃だったか。俺がバイトで知りあったカメラマン氏の事務所にそのジナーはあったのである。東京・田町の雑居ビルの一室。まるで刑事ドラマに出てくるアジトのような場所にそのジナーはジッツォの三脚に乗せられてあった。当時よりジナーの噂は聞いていたのですぐにその存在に気づいた俺だったのだが、なかなか「触らせろ」とは言えず、ただ眺めているだけのカメラだった。そのジナーには確か電子シャッターが付けられており、そのケーブルがサイバー感をいたくかき立てていたのが思い出深い。俺は仕事の手伝いや、或いは私用で暗室を借りたりするのに月に1〜2度はその事務所を訪れたものだが、結局最後までそのボディーに触れる事はなかったのである。
何だ、結局触った事はないのじゃないかと読者の皆さまは思われるかもしれない。確かにその事務所ではしょっちゅう見ていたのだけれど触れる事は出来なかった。しかし多くのカメラマンが使っているものだという関係上、別のカメラマンの仕事では十分いじくりまわした事があるのだ。それにしても出来る事は他のカメラとは全く一緒、撮影の手順も全く一緒だったのに漂ってくるあのオーラは一体何だったのだろうかと今になって思う。今となれば全然余裕であちこちをいじくり回す事が出来るだろうに、当時は恐る恐る、それこそ腫れ物に触るような感じで扱っていたのだから、ネームバリューとかそうした類のものが如何に人の中で大きな意味を持つものかという事が良く分かる。
まあ何だかんだ言っても自分では金輪際買う事のないカメラである。そんなものに触れる機械が与えられただけでも幸福だと言うべきなのだろう。
・・・さて、ここからは先にも述べたように「スガワラ」氏からの寄稿をご紹介することにしよう。ペンタックスMV1、その省みられることの少ない大衆機に込められた思い出はあまりに深い。ご寄稿頂き、誠に有り難うございました。寄稿でもって連載を終われるこの至福。繰り返しになるが読者・関係者各位には心からお礼を申し上げます。
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現在連載中の恍惚コラム「CEOのカメラ思い出話」シリーズが、殆どこの私の為に書いて下さった様なものと言うことでした(本気掲示板参照)。そこで、返礼…と言う訳でもないのですが、私のカメラに対する思い出なども徒然と綴ってみようかと思います。 まずは私と多少なりとも縁のあったカメラ達を箇条書きにしてみます。
・ ペンタックス MV−1(黒)
・ ペンタックス MV−1(白)
・ ペンタックス ME(黒)
・ ペンタックス ME(白)
・ ペンタックス MX(×2台)
・ ペンタックス MEスーパー
・ ペンタックス KM
・ ペンタックス SP
・ ペンタックス SP−F
・ ペンタックス SV(×2台)
・ ペンタックス Z−1
・ ペンタックス 67
・ オリンパス OM−1
・ オリンパス TRIP35
・ ニコン FE2
・ ニコン FTn
・ キヤノン7
・ キヤノン AL−1
・ キヤノン DIGITAL IXY 200
・ セミミノルタIII
・ ミノルタ ST−C101
・ コニカ S2
・ コニカ C35(×2台)
・ ヤシカ リンクス2000
・ ゼンザブロニカ S2
・ ビューティーフレックス
・ ライカIIIa
・ ライカIIf(×2台)
・ ライカIIIf
・ ライカM3
・ フェド3
・ コピーライカ
・ ドレスデンA21
・ ドイツ製のフォーカルプレーンシャッター式二眼レフ
・ シーガル 4B−1
…さり気になんですかこの数は(汗。
この一覧は存在を思い出せるもののみに限定しているので、実際にはもう5台程度は多いかもしれません。いや、ワゴンセールで500〜1000円程度でゲットしたレンジファインダー機や、ペンタックスSP系やMシリーズの出入りが激しかったことを考えると、おそらく軽く10台くらいは記憶に漏れがあるかも…。ま、思い出し次第一覧を補完していくとしましょうかね…。
(1) ペンタックスMV−1(黒)の巻
このカメラこそ、私の写真趣味の原点と言えるカメラです。スペック的には絞り優先AEのみの露出モードしか使えないMF機で、写真部入部当時に父親が所有していたと言うだけの理由で使い始めたカメラです。
極限まで製造コストを切り詰められたこのカメラは、絞り優先AE以外にはマニュアル露出すら出来ないと言う、非常にシンプルなものでした。ファインダーを覗いても、青:適正露出、黄:適正露出だが手ブレの可能性大、赤:露出が不適正(シャッター速度が連動範囲外)という3つの状態を示すLEDだけしか表示されず、シャッター速度が分からないという非常に割り切りすぎた機能が印象的です。
廉価版としての使命を一身に背負い、今見直してみれば余りにもシンプルすぎる機能は、しかし高校に入って初めて写真と言うものに親しみ始めた私には丁度良いものでした。絞りとシャッター速度の関係のなんたるかを完全には理解しないまま、興味の赴くままに被写体を見つけ、適当に絞りをセットしてシャッターを切ったものでした。
幼い頃、家族で楽しんだ行楽の際に、その光景を収めたのもこのMV−1だったはずです。夏休みに一家四人で登った山の、頂上を示すプレートの前でカメラに向かって微笑みかける母と私と弟。父が50ミリレンズを付けたMV−1を構え、一声かけてシャッターを押す。今でも時々頭に思い浮かぶこの場面は、後にこのカメラに親しんだ高校生以降の私が作り出した錯覚ではなく、確かに実在した記憶のはず…。
そう考えてみると、昨年の冬に交通事故で亡くなった弟を、最も数多く写真に残したのもこのカメラだったはずです。四つ切くらいの大きさに引き伸ばされた、昔住んでいた集合住宅の前で手を振る幼稚園の制服姿の弟の写真は、父がこのカメラで撮影した最高の作品と言えるでしょう。弟が欠けてどこか寂しくなってしまった今の我が家では、たとえどれほど上等なカメラを手にしても、これを越える作品を撮ることは出来ないのかもしれません。
このMV−1は、私が高校2年生か3年生の頃、ワインダーを装着して使用していた際にフィルム巻上げ機構に異常が生じ、そのまま修理不能となってしまいました。故障した時点で既に発売から15〜20年近い年月が経っていた為、メーカーにも補修用の部品が残っていなかった為です。他のカメラにも増して思い出深いこのカメラは、たとえ二度と目の前の光景をフィルムに収めることが出来ずとも、私の部屋の棚の一角でひっそりと鎮座し続けていくことでしょう。
いずれは、修理専門の会社にでも持ち込んで、その機能を復活させてあげたいとは思っているのですけれどもね…。
(完)
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