第178回

 

CEOのカメラ思い出話
(7)「マミヤ645/1000s」の巻


  暑い夏の終わり。この時期になると思い出すカメラがある。書く順番としては前後してしまうのだが、高校3年生の頃に手に入れたマミヤ645/1000s。これの事がこの時期になるとどうしても気になって仕方がないのである。


 以前に書いた「マミヤプレス」の、今で言う「癒し系」「まったり」さ加減にまさに嫌気が差していた俺は、どういう経緯だか忘れたがその当時、同社の645/1000sを握っていたのだった。こいつは昭和51年に生産開始され、昭和60年には生産を中止していたカメラだと言うから恐らく当時でも15年程度経っていたとは思うのだが、これを例の如く新宿あたりの中古カメラ店で4万5千円だかで買ったのだった。ちなみに「/1000s」というのがオーナーのイバリが利く部分で、これは昭和50年に発売された「マミヤ645」の改良版であることを意味するものなのだ。先代に比べシャッターの最高速度が1/500秒から1/1000秒に改められているのだ。まあそんな高速シャッターは余り使わないのだけど。中判では。

 それを手にしてみて、流石に1眼レフは違うと感じたものだ。35ミリ判の1眼レフはそれまでにもさんざん使い倒したものだったが、今度は中判1眼レフである。かなりの重量、見た目の重厚さ、そしてフィルム交換の流儀まで何もかもが新鮮だった。645判なのにも拘わらずウエストレベルファインダーしか装着していないという致命的な安物買い故の欠点(※真下に向かって覗くファインダーなのだが、これだと横位置しか撮影出来ないのだ。縦位置で撮るためにはそのままカメラを90度回転させて被写体と直角に立たなければならないのですこぶる使い勝手が悪いわけだ)はあったが、かのマミヤプレスを遙かに凌ぐ高級感と拡張性に俺は酔いしれたものだった。そのウエストレベルファインダーにしても別売りで普通の(アイレベル=まっすぐ覗いて正像が見える)ファインダーを付けられるという心強さ。まあ結局最後までレンズもファインダーも付けてやれなかったのだが、いざとなれば何でも付けられるという安心感はマミヤプレスでは得られないものだった。

 で、俺は再び写真が「ただ写る」というだけ、そんな喜びに浸り直すこととなった。当時、写真を始めて4年目。ピュアな気持ちを忘れかけて技巧に走りつつあった俺はその新鮮なカメラが像を結ぶという単純な事実のとりこになったわけだ。勿論マミヤプレスとは違うシャープな写真をブローニーのフィルムで撮影出来る快感が主だったわけだが、それこそ撮り散らかした。折しも夏休み。夏休みとは言っても土日以外は殆ど夏期講習やら部活動で毎日のように高校にいた俺はそこで645との蜜月時代を送った。吹奏楽部の宣材写真が欲しいと言われて撮り、他の部活の友人を座らせて撮り、学校に夏期講習で来ているのにブローニーのフィルムが切れたと言っては抜け出して川越駅前まで自転車を駆り・・・。どういう経緯だかまたも失念したのだが、直線距離で5〜6キロはあった川越駅までの距離を30分程度で往復してきた気力はどこから出てきたのだろうかと今更ながら思う。あの時俺は何を撮ろうとしていたのだろうか・・・。トライXのブローニー2本、たかだか500円程度の買い物ではあったが、あの草いきれに満ちた道のりと充実感は今でも忘れられない。今までに何百本ものブローニーを使ってきたが、未撮影のフィルムがあんなにも愛おしかったことは嘗てない。

 中判と言えば引き伸ばし機(ネガを印画紙に投影して焼き付ける機械だ)にもそれなりのスペックが要る。大型のネガキャリアに長焦点のレンズなど・・・。しかし当時の高校写真部にはいずれの設備もあったのだった。創立時の志の高さが窺えるわけなのだが、こうした背景も俺に中判カメラの導入を勧めたと言えるだろう。そこまでのトータルコストを考えたら中判カメラ自体、おいそれとは買えなかったはずなのだ。で、俺はフジノンの90ミリ引き伸ばしレンズを通してイーゼルに写る画像を俺はその夏何度となく見続けたわけだ。学校でありながらクーラーの利いた暗室。そして何処までもシャープな画像。更に傍らには貧乏パンとコーヒー牛乳。予算の都合からしょっちゅうキャビネ判ばかり使っていたのだが、そのサイズでも画質の優位性は確認出来た。今となれば本当に些細な事なのだけれど、当時は蜜月時代。それが生活の全てだった・・・。人気(ひとけ)の少ない暗室でじっくり「画」と対峙する。こんな贅沢な時間の過ごし方は大学時代にも得られなかった。そして、きっと、これからも。

 そんな645/1000sは、これまた大学時代に1万5千円だか2万円だかで友人に売ってしまった。当時金に困っていたと言う事もあるが、ハッセルブラッドの購入を考え(あ〜ハズカシぃ〜)ていたので笑顔で売り渡してみたのである。しかしその数年後、その友人が別の友人にそれを1万5千円で売ったという話を聞いて俺は苦笑してしまった。この、商売上手!まあ最初の売値が安すぎたと言う事なのだけれど・・・。

 本稿を書きながら、こんなニュースを仕入れた。
「250台限定!M645、M645 1000Sの修理を承ります。
昭和60年、バック交換式セミ判一眼レフカメラ「M645スーパー」発売によって販売を終了した「マミヤM645」、「マミヤM645 1000S」は、販売終了後すでに17年が経過し部品保有期間を大きく越えているため修理受付を終了しておりました。その後修理再開のご要望が多く、主要部品の再生産を行うことによって可能となりました。修理受付台数は、部品の都合上先着250台を限度として承ります。お早めにお出しください。
 今年(2002年)の6月にリリースされた話題なのでもう250台にはとうに達してしまっている事と思うのだが、メーカー自身がこうした企画を打ち出すのはきわめて異例なことだ。1台1台のライフサイクルが長い中判カメラならではの計らいに拍手だ。うっ、やっぱり売らなかった方が良かったのかぁ?マミヤ・オーピー、侮れない会社である。

思い出しSPEC
(思い出すまま書いております。実際と異なる場合もありますので鵜呑みにしないようご注意下さい)
メーカー      マミヤ光機(現マミヤ・オーピー)
形式        6×4.5cm判 フォーカルプレーン式一眼レフカメラ
装着していたレンズ マミヤセコール C80ミリ F2.8
シャッター     B〜1/1000秒
露出モード     Mのみ
電源        4LR44/4SR44
その他       本当にワインダーからズームレンズから何でも揃うカメラ。今買っても十分に面白いカメラだと思う。
          本体には2箇所のシャッターボタンを装備。ミラーアップ可能。



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