第162回

 こんな俺にも妻の居ない日曜日がある。似たような話を前にも書いたかも知れないが、妻は何かの記念日だというとすぐに実家に帰るのである。両親の誕生日、仙台に住む祖父の両親の実家への訪問、それから父の日・母の日・・・そう、今日は言わずと知れた2002年5月12日・母の日なのである。

 実は昨夜より俺も妻から「実家にたまには顔を出したらどうだ」と言われているのだが、なかなか腰が上がらないのだ。こう言うのも何だが、こういう日曜日は至極貴重である。なまじ世間から「家族みんなで遊ぶべし」と決めつけられているかのような連休や盆暮れの休みよりもこれは貴重だ。本当に何もするべきではないような1日。義務感に苛まれないような1日。まさに棚からぼたもちで確変ゲットってな感じなのである。こんな文章を妻に読まれたらどんな目に遭うか分からないが・・・。

 俺は一人暮らしというものをしたことがない。気付けば21だかの歳に実家を出て以来、ずっと傍らには妻が居た。入籍する前から同棲はしていたし、その流れでそのまま結婚に至ったために一人暮らしをしている暇がなかったのだ。

 しかし、隣の芝生は青いとよく言われるが、俺が抱くこの一人暮らしに対する羨ましさを長い間持続できないだろうことは自分自身良く分かっている。家事が嫌いな俺が1人で暮らしたらもう壮絶な事態になるのは明白だからだ。さすがに食い物は放置しないと思うのだが、洗濯物が溜まり、部屋のあらゆる場所に開いた雑誌なぞが散乱し、無くした靴下の片側を部屋の隅から発掘してきて履くような生活を送る羽目になるのは分かり切っている。妻を家政婦呼ばわりする気はさらさらなく、むしろ俺は妻のコマンドによって動いているわけなのだけれども、俺が人間的な生活を送る上で一人暮らしというのは相応しくないと思うのだ。家事をして、かつ規則正しい生活を送ることへの動機は1人で暮らしていたら湧いてこないだろうと思う。

 そこで俺はこんな休日になると一人暮らしへの思いを馳せてみるのだ。妻に言われてするのではなく、たまには自分から布団を干してみる。メシを作るのが面倒臭ければ近所の立ち食い蕎麦屋に入ってみる。無為にテレビのチャンネルを回してみたり、普段は見ようともしない畳の角の埃に目をやってみたりする。失ってしまった思春期のときめきを喉元まで感じながら。

 だが、ご想像の通り、そんな快感が持続するのはほんの数時間なのだ。「小人(しょうじん、つまらない人間)閑居して不善を為す」とはよく言ったもので、たまにぽっかり時間が空いてもこのコラムを書くくらいしかしたい事が思い浮かばないのだ。大体俺はいつもこの調子で、仕事の外回りで時間が出来ても何処かに寄ったりせず、ついつい車で遠回りをして時間を調整してしまうようなタイプなのだ。そんなわけで結局与えられたささやかな時間をフイにし、何をしようか考え焦っているばかりで余計に疲れが溜まってしまうのである。まさに俺、小人と言うほか無い。休んだ先にどんな事が待ち受けているかという事にばかり気が行ってしまって、休んでいるその時を愉しむと言うことが出来にくいのだ。

 学生時代に「休みがあと何日」と指折り数えて惜しんだような記憶はどなたにもおありだろうと思うのだが、俺の場合は暇な時間があと何時間、何分と常に考えてしまうところが我ながらしみったれている。今だって、妻の帰りまでに風呂場を洗って流し台を洗って、ああ洗濯物もたたまなければと思いながらこの原稿を書いているのだから笑えない。世の亭主殿はどのような心持ちで余暇をお過ごしなのか是非とも聞いてみたいと思うのだ。しばしば「夫が休みの日にゴロゴロしているばかりで困る」という主婦の愚痴をテレビなどで見聞きする事があるが、その夫はどうしてゴロゴロ出来るのかと俺は問いたい。問いつめたい(後略、分かる方だけ分かって下さい)。妻のコマンドがヌルいのか?それとも夫が相当の大人(たいじん)なのか?一度でいいからテレビ局にまで愚痴られるほどダラダラしてみたいものである。

 何だか全くとりとめのない話をしてしまった。やはり小人閑居して不善を為す。適度に妻コマンドを受け入れているくらいが俺には丁度いいのだろう。だから妻よ、遅からず早からず帰ってきて欲しい。待ってます・・・。
 
 
 


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帰省ラッシュ